第3話 ルオの仕事
それから、私の退院の日は、あっという間にやってきた。
アメリアさんに事の顛末を話すと、彼女は途轍もなく長いため息を零して、これまた長い沈黙を続けていた。それでも結局「それもアンタの運命ってやつなのかもね……」と受け入れてくれたので、有り難い限りである。
「じゃあ、本当にありがとうございました。死んでいたかもしれない私が今こうして生きていてお礼が言えるのは、アメリアさん達のおかげです」
病室を出る直前、そう言って、お医者さんとアメリアさん、二人に深々と頭を下げた。彼女はそんなのしなくていいって! と少し照れている。
「それに、アメリアさんには本当にお世話になって……大切な服まで頂いてしまって」
私は、着ているシンプルな白いワンピースの裾を引っ張りながら、彼女の方を見る。
「いいって。どうせもう着ないお下がりだからさ。自分から地獄に片足突っ込んでいくような命知らずのアンタへの餞別」
私が倒れている時にも服は着ていたそうだが、それはもう血と土でボロボロになってしまい、もう見れたものではなかったという。この一ヶ月半を全て患者衣で過ごしていた私にとっては、彼女がくれた服は何よりも有り難いものだった。
「また来ます! 絶対に!」
「いや、また来られたら困るんだよ。もう大怪我はするな! 言っとくけど、病院なんてそう何度も来るところじゃないからね。今度大怪我こさえてまた来たら、はっ倒すよ」
思わぬ大ボケをかましてしまった私に、すかさずアメリアさんが突っ込みをいれた。お医者さんはそんなやりとりをにこにこ笑って見ている。
「でもま、本当に、あの画家の野郎に酷いことされたら、いつでも来たらいいよ。アンタ愛嬌はあるからね。子供への本の読み聞かせとかしてもらうから。……じゃ、頑張って。応援してる。ナナシ、じゃないか、イーディアス。アンタの記憶、戻ったら良いね」
「っ、はい! 本当に、ありがとうございました!」
もう一度これ以上無い程頭を下げてから、私は病室を飛び出した。向かうのは勿論、病院の外で待っているという、ルオさんの元だ。
これからへの不安と、それから少しばかりの期待が、私の胸中で大きく膨れ上がっていく。止める術も無い程、鼓動が早くなっていった。
階段を一段降りるだけでミシミシと音が鳴る。それがこの建物の古さを感じさせる。そんな事ですら、今の私を気持ちを後押しするものになる。知らず知らずのうちに早足になって、そのうちに跳ねるように走り出していた。こうやって走る事すら数週間前には出来なかったと思うと、感慨深い。
「ルオさん、お待たせしました!」
呼吸が乱れて肩で息をしながら、病院の外の大樹の木陰に立っている彼の姿を発見し、私は駆け寄る。
「おう、待ったわ」
「色々ありましたので……」
「まあ、その分お前をこき使うからいいよ」
「え。じょ、冗談ですよね?」
「さあなぁ」
はは、と淡々と笑ってこちらを見るルオさんに、たらりと冷や汗が流れた。目が笑っていない。これって本気の奴? と考えるよりも前に彼が歩き出したので、慌てて後を追う。
「仕事といっても、私は何をすればいいんですか?」
私がルオさんと会うのは今日で三回目になる。
一度目は病院の中庭で、二回目はそれから三日後、私の病室で。その時は退院日の日程や、集合場所だけを端的に告げて、彼はあっさりと帰ってしまったが。
「ああ……基本的な仕事は料理、掃除、洗濯とか、主にハウスキーパーがやるような奴だな。それと買い出し、依頼人の対応。つーか、俺が言う事全部やれ」
「お、横暴だ」
「なんか言ったか記憶無し」
「いえ、別に何も!!」
ぶんぶんと素早く首を横に振る。彼に睨み付けられると、心臓が捕まれたようにきゅっと絞まる。
「ルオさんって、肖像画家なんですよね? どんな風に描くんですか?」
互いの間に沈黙が重くのしかかり、それをなんとか打開しようと、私は当たり障りの無い話題を彼に投げかけた。
「別に特別な事はしてねえよ。依頼人を住まわせて、話を聞いて、希望通りに描くだけだ」
「ん? 待って下さい。依頼人を、住まわせるって、どういう事ですか?」
「ああ、言ってなかったか? 俺は肖像画を描く間、依頼人を俺の家に住まわせるんだよ。最長は三日間。だから、お前の主な仕事は俺の家の家事と、依頼人の世話だ」
「本当に聞いてない……」
「今更断るのか?」
「い、いいえ、よろこんでお仕事させて頂きますが……」
彼の口から説明された事だというのに、なんだかとても不思議だった。なんとなく、ルオさんには他人をあまり寄せ付けないようなオーラが常に存在していたからだ。そんな彼が、自分の家というスペースに、依頼人とはいえ他人を住まわせる事が意外に思えてならない。
「おい、何か失礼な事考えてるだろ。えーっ、そんな事してるんですかぁ? 似合わなーい! とかなんとか」
「お、思ってないですよ! と、いうか、何ですか? その口調……」
「俺が実際に言われた言葉だ。どれだけ似合わなかろうが、これで飯が食えてるから文句を付けられる筋合いはねえがな」
そのまま、色々な事をぽつりぽつりと話ながら歩いていれば、いつの間にか彼の家――そして私のこれからの職場に辿り着いた。
すんすんと匂いを嗅ぐと、潮の香りがする。これが海の匂いだという事を、身体が覚えていた。
大きな白い家に、家主であるルオさんは遠慮無く入っていく。そのまま呆気に取られていたら、あっという間に取り残されてしまうだろう。急いで私も扉を押さえて、中へと足を踏み入れた。
きっと、長い時間を掛けて少しずつ壁にまで染み込んでいったのだろう。内に一歩足を踏み入れた瞬間に、潮の香りを打ち消してしまう程の、絵具の匂いが充満していた。
だが、室内はぼんやりと私が想像していたよりも、ずっと綺麗に保たれていた。もっとごてごてした、いかにもな部屋を想像していたが、絵具の匂い以外に、特に変わった所は無い。
きょろきょろと忙しなく周囲を見て歩いていたので、私の先を歩いているルオさんが突然立ち止まった事に気付かずに、思い切り彼の背中に顔をぶつけてしまった。鼻先が勢い良くぶつかって、じわじわと痛みが広がる。ぶつけた箇所を押さえている私を呆れるように見ながら、ルオさんは彼の横にある扉を指差して言った。
「ここがお前の部屋。ものまま真っ直ぐ進んで右手にあるのが俺のアトリエだ。また随時説明していくが、まずはその少ねえ荷物を部屋に置いておけ」
そうは言われたが、生憎私は謎の記憶喪失少女になるので、手荷物は少ない。アメリアさんが用意してくれた歯ブラシとか、何着か頂いた服とか、精々がそれぐらいだ。
「部屋の中に前にいた奴の私物が残ってるかもしれねえが、気にするな。むしろ好きに使っておけ。どうせもう取りに来ない」
そう言い放ったルオさんの顔があまりにも冷ややかで、私は思わず「ひえ」と声を上げてしまった。
荷物を置いたら出てこいと言われる言葉に従い、私は恐る恐るこれから自室となる部屋の扉を開けた。
この家と同じで、特段奇抜さを求めていた訳でも無いが、その部屋にも特に目を引くようなものは何もなかった。一人で眠るには十分なベッドに、木製の机と椅子、そして大きな鏡があるだけだ。ぱっと見ただけでは何も珍しいものは見つからないが、部屋をじっくり探せば、前の住人の残したものとやらが見つかるのだろうか? また後で見て回ることにしよう。
一回り事実を見て廊下へ戻ると、先程と同じ場所でルオさんが立ちながら待っていた。
「遅せえぞ」
「あ、すみません! 宝探しに胸を躍らせていまして……」
「? まあいい。この家の事を大まかに説明しておくから、ちゃんと聞いとけよ」
それから始まったルームツアーは、キッチンと水回り、それから、依頼人の人達の為の部屋、そして地下室を説明して終わった。
「今説明した地下室は立ち入り禁止だ。間違っても入るなよ」
「何があるんですか?」
「ただの倉庫だ。ただ、触ったら爆発するようなもんも置いてかもしれねえからな。お前見るからにドジそうだし、立ち入り禁止ぐらいがちょうどいいだろ」
ルオさんは私を何だと思ってるんですか? というか、触ったら爆発するものって何!? そう言いたくて堪らなかったけれど、ぐっと我慢した。
「それから、足りねえものがあったらその都度言え。俺も必要だと判断したら買ってやる」
それがその日、ルオさんから教えられる最後の事だった。
私はこの先上手くやっていけるのでしょうか? 心の中で作ったアメリアさんに訊ねても「それを決めるのはアンタさね」とだけ言って、そのままどこかに消えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます