第2話 世界に色が付く(後)

 アメリアさんは、私の事を「ナナシ」と呼ぶ。名前がないのは何かと不便だからという理由で。


 病院にあった姿見で、自分自身の姿を見た。グレーの髪色、青い瞳。誰もが振り返るような絶世の美人というわけではなく(鏡を見るまではちょっと期待していた)きっとどこにでもいるであろう、まだあどけなさの残る顔立ち。それが私だった。


 気付けば、入院してからもう一ヶ月半も経とうとしている。その間、ルオという人物が私を訪ねて病院を訪ねる事は一度も無かった。疑問は私の頭上に積もっていく一方だ。一体彼は何の目的があって、接点の無い私を助けたのだろうか? いや、私が覚えていないだけで、彼と私の間には何かしらの因縁があるのだろうか?


 もうすぐ退院出来そうだという事を聞いた。普通、私ほどの怪我をしたのならば、最低でも三ヶ月は回復に時間がかかるとアメリアさんが言っていたので、これは驚異的すぎる回復力にも頷ける。


 身体が自由に動かせるようになると、当然、これからの事を考えざるを得なくなる。


 そう思うと、未来については何も考えられず、ただ目の前の事だけしかなかった今までの日々はある意味で幸せだったのかもしれない。


 記憶が戻るような兆しは全く無かった。


 記憶を失うまでの私が積み上げてきたのであろうものが全て消え失せた真っ白な脳は、今日も今日とて避けられない不安で埋められていく。どうしようもない孤独が私を襲う。この世に、かつての私を知る人が一人もいなかったらどうしよう。家族は? 友人は? もし存在していたとして、その人達が今の私をみたらどう思うのだろう。失望? 驚愕? それとも、怒り?


「ま、全部いたらの話だけどね」


 逃げるように、そう言葉にしてみれば、少しはこの悪い妄想から逃げられた。

 

 気分を落ち着けたい時、私はいつも病室を抜けて、病院の中庭に向かう。青々として、豊かな葉を付けた木々に囲まれながら、石造りの小道沿いに備え付けられた、年期の入った木製のベンチに座りこむ。すわる度にミシミシと、不安んなる音が鳴るが、私はそれが嫌いではなかった。


 行儀が悪いと分かっていながら、私は足の裏をベンチの上にのせ、膝の間に顔を埋めた。それが、私にとっての一番の逃避方法だった。小さくなって丸くなり、私を襲う全てのものから、自分を守る。私が創り出す小さな空間だけでは、少しだけ息がしやすかった。


 どれ程の間そうしていただろう。考えすぎなのか気楽なのか、自分でも分からないままうとうとと微睡み始めていた私が、はっと顔を上げる事になったのは、不意に突風が庭まで吹き込み、周囲の木々を全て揺らして大合唱を始めたからだ。自然が作り出す音に、夢の中を浮いていた私の意識は現実に引き戻される。


 ――そのまま私は、ちょうど顔を上げた視線の一直線上に立っていた、たった一人の、初めて見る男性に釘付けになった。


 病院で、彼の姿を見た事は無い。長い髪を後ろで結んで、ポニーテールのようにしている。炎のような赤い髪が自然の緑に囲まれて、不自然に浮いて見えた。服装は白いシャツ一枚で、堅苦しさはない。


 そこに理由なんて無い。私の直感が全てなのだが、私は一目見ただけで、その人が「肖像画家のルオ」なのだと思った。今考えれば信じられない思考だ。初対面の人を勝手にこの人だと決めつけるなんて、後にも先にもこの時だけだ。だが、その時はその考えをおかしいと思えない程、私の中で、名前を知らない彼は、確かにルオだった。


 その人は、暫く私を見つめたまま動かなかったが、私も同じように彼の事を見続けていると分かるや否や、ずんずんと大股でこちらまで詰め寄ってきた。身長は高く、目の前に立たれると威圧感が尋常では無い。


 そのまま、何を言えば良いのかの答えが見つからず、二人して顔を見合わせたまま黙ってしまった。端からみればどういう状況だと思う事だろう。当事者である私も同じ事を思っていた。


「……もう、怪我は治ったのか?」


 沈黙を破ったのは、彼からだった。


 その一言だけで、彼がルオなのだという私の妄想は、本当に確信に変わる。


「はい。もう大丈夫です。もうすぐ退院も出来るので。……あの、貴方がルオさん、ですか?」


 私の疑問に彼は黙って頷いた。やはりそうだ、私は間違っていなかった。


「その、ずっとお礼が言いたかったんです。貴方が病院まで運んでくれなかったら、私はとっくの昔に死んでいただろうって、よく言われたので。なので、ルオさんは私の命の恩人です。ありがとうございます」


 彼、ルオさんは黙ったまま、隣に座る。私は言葉を続けた。


「どうして、お金まで出して、見ず知らずの私を助けてくれたんですか? あ、いや、ご厚意を疑っているとか、そういうワケでは無いんですが! やっぱり不思議で」


 そう言えば、ルオさんは相変わらず黙ったまま、眉間に皺を寄せた。それを見てしまった私は、慌てて言葉を重ねる。


「あ、実は私、記憶をすっぱり無くしていまして! 名前すら思い出せない状態でして。それを全部の言い訳にするつもりじゃないんですけど、もし失礼な事を聞いていたらごめんなさい! 実は、私とお知り合いだったりしますか……?」


 恐る恐る、語尾を小さくしながら訊ねる。彼が再び口を開くまでの時間が、とても長く感じられた。


「別に。知らねえよ。俺はただ歩いてたらお前を見つけちまったから、然るべき行動を取っただけに過ぎない。だから、礼を言われる筋合いはねえよ」


 そう言い切った彼が、あまりにも真っ直ぐに私の目を見てそう告げるものだから、私は思わず言葉に詰まってしまう。


「そ、れでも、感謝しても、しきれないんです。あの、私に出来る事なら、何でもしますから! そりゃ、こんな記憶の無い無一文の小娘が何言ってんだって話かもしれませんけど、受けた恩はやっぱり返さないとっていうか、その……」


 私が脳内で生み出したアメリアさんが「その男に関わるのは辞めときな! 絶対碌な事にならないよ!」と警鐘を鳴らしている。その忠告に頷きながら、それでも私がこんな事を口走ってしまったのは、彼が、心からの悪い人には見えなかったからだ。


「何でもする? 本当に?」


 彼がそこだけ強調して繰り返した瞬間、私は既に判断を間違えたと後悔する事になった。あまりにも甘かった。後悔が早すぎる。だが、ここまで来て引くわけにもいかない。やっぱり無しで! と言ってしまえば、それはそれで彼の怒りを買いそうだ。


「え、ええ。本当に、何でもやりますとも! は、犯罪にならない範囲で!」

「……お前は俺の事を極悪人だか何かと勘違いしてねえか? ただの画家だっての」


 ぎゅっと瞼を閉じて身体全体に力を込めて言った私に対して、呆れたようにルオさんは言い放つ。


「お前、俺の家に住め」

「そ、それは、ひょっとしなくても夜の営み的な意味で……?」

「ちげえよ! 仕事だ、仕事!」


 お前みたいなちんちくりんなガキに手を出すか! と少し興奮した様子でルオさんは続ける。


「俺がお前に金を掛けた分だけ、住み込みの小間使いとして、お前を雇う。俺は金を回収できるし、お前は仕事と住居がいっぺんに手に入る……良い取引だろ?」


 そう告げる彼の突然の提案に、はっきり言ってついて行けていなかった私は、間抜けに口を開けて、頭上に疑問符を浮かべるばかりだった。


「言葉が分からねえか?」

「ち、違います、違います。それは分かります。有り難すぎる申し出です。けど、どうして、私に……?」

「あ? そんなの決まってるだろ。俺は優しくしてるのに、俺の家で働いた奴は直ぐ辞めちまう。その点お前にその心配は無い。俺に恩があるし、記憶も金もねえから逃げられねえ。それに、何でもしてくれるんだろう?」


 私の目は節穴だったかもしれない。彼が悪人では無いだって! 一つもそんな事はない! 絶対に人をこき使う人間の目だ! 数分前の私、眼を覚まして現実を刮目してくれ! ……と、心の中では大騒ぎ出来るのに、実際に言葉に出来たのは、


「は、はい……何でもします、ヨロシクオネガイシマス」


 という、情けない言葉だけだった。嗚呼、アメリアさん。貴女の忠告を無視してゴメンナサイ。貴女の言葉は正しかった。


「お前の退院予定日はいつだ?」

「えっと、ちょうど一週間後です」

「じゃあ、その日に迎えに来る。逃げ出すなよ、イーディアス」

「に、逃げませんよっ、て、いーでぃ?」

「イーディアス。名前すら思い出せないんだろう? それじゃあ色々と不便だからな。今日からお前はイーディアスだ。……いいな?」

「イー、ディアス。私の、名前……」


 突然名付けられた名前。だが不思議と、それはすんなりと私の身体に受け容れられた。ひょっとしたら、記憶を無くす前の私の名前と似通ったところがあるのかもしれない。アメリアさんに付けられた名前も嫌いじゃなかったけど、イーディアス、イーディアス。うん、こっちも悪くない名前だ。


「じゃあ、また来るから」


 それだけ言って、ルオさん……未来の私の雇用主はあっさりと庭から去ってしまって、その場には私一人だけが残った。


 これからに対する形のない不安はルオさんによって塗り潰されて、私に残ったのは、アメリアさんになんて説明しようという、とてつもない難問だけだった。










ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

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