ヒッチコック知ってる ? V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 ヒッチコックの社会学 第一部

- 大人のためのヒッチコック映画 -



注意


この本はヒッチコックの映画をより楽しむための本です。内容に関する重要な情報が書かれている部分があります。まだ映画を見ていない人が読むと、映画の面白さを損なうことがあります。はじめに映画を観てから、この本を読むことをお勧めします。


ヒッチコック知ってる? 初版 2014年 3月10日 V 1.1

           ヒッチコックの社会学17  2014年 7月 22日 V 3.2



ヒッチコックの言いたかったこと


政治屋・警察・軍隊・医者・マスコミ全員が国民を欺している今こそ、「ヒッチコック」を知る(鑑賞して考える)時といえるでしょう。


幸いにも、街の書店ではヒッチコック映画10本セットで1,980円なんていうのも販売されています。)



正義感だけの人間とはやっかいなもんです。

なにしろ、裏を返せばお人好しで信じやすい。

つまり、人にだまされやすいということ。

なにしろ、他人の悪の部分を感じとれるのは、自分に悪の部分があるからです。

それがない人間は...。

寺沢武一 「バット」


人間の良い面と悪い面


  両方バランスよく見ないから「欺されやすくなる」。


  ヒッチコックは映画では、警官や弁護士・裁判官や政府関係者(秘密警察)といった、いつでも「良い面・善良な人間」「社会に役立つ組織」「安全装置」という片方の面ばかり知らされている人たちにも、実は限りなく深い暗黒の部分、闇の部分がある、ということをことを知らせてくれます。


  世の中に悪い人間はいる。それを警察は追いかけ・捕まえる役割がある。しかし、彼らが追いかけるのは・彼らが見張っているのは・彼らが捕まえようとしているのは、明日は(何の犯罪者でもない)あなたかもしれない。

  否、いつでも、あなたは「犯罪者」にされる可能性が高い、今日この頃。

  

  真面目に正しいことをしていれば安心ということはない。

  政府関係者は年金や医療保険という名目であなたの貯金や健康を狙っている悪人(詐欺師)なのかもしれない。

彼らが悪を取り締まるといって、彼らにとっての悪、政治家や金持ちにとって都合の悪い人間であれば、いつでも誰でもが悪にされ、取り締まりの対象となる。


絶対的な善など存在しない。「善悪は裏表」ということを日頃からよく理解し意識していれば、欺されないようになるための免疫ができるだろう。



映画を通して「悪に慣れること」


悪の存在を知っていれば、悪に直面した時にすぐにそれがわかる。

「警察官でさえ信用してはならない」という事実を理解しておくこと。

そのためにヒッチコックは映画を撮り続けた、といっても決して過言ではない。


「悪」とは、悪人ばかりのことではない。

「善人」であるはずの者や組織であっても、いつでも悪になる。

人間には善悪の二面性がある以上、これは当たり前にことなのです。


観取( よく見てその真相を知ること。)

看取(見てとること。見て会得(えとく)すること。

広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店)



序文


「謎が解けてしまったら、もうその映画は2度と楽しめなくなってしまうからね」と、ヒッチコックは言ったそうですが、とんでもない。1回目は「映画のなかで起きた犯罪」のスリルとサスペンスを、2回目は「ヒッチコック自身が犯した犯罪」を味わう。2度楽しめる映画なのです。


映画というフィクション(作り物)だけを見せているのではなく、フィクションを使って世の中の真実をもまた教えてくれているのです。



はじめに


“サスペンス映画の神様” “スリラーの巨匠” “映像の魔術師” “プロットの天才”と称賛された映画監督、アルフレッド・ヒッチコック。

だが、そんな称号は「料理の皿を褒める」ようなものだ。ヒッチコックが映画という料理そのものに込めた味を知らなければ、彼の映画を本当に楽しんだとは言えないだろう。


ヒッチコックは「私の映画にはテーマだとかメッセージなどない」と述べたそうだが、これは謙遜どころかジョークでしかない。なぜならば、彼は60年の映画人生でずっと同じテーマを追い続けていたし、あるメッセージを伝えていたのだから。


ヒッチコックは、たしかに度肝を抜くカメラ技術や奇想天外なストーリー、凝ったプロットによって観客を楽しませたが、それらは映画の中に隠された真実を隠すための「トロイの木馬」であった。


彼は、ほんの数秒ではあるが自分の映画に必ず自分が出演すること(カメオ出演)でも有名だった。映画の主人公たちが街ですれ違う通行人、といったチョイ役で(時にはシルエットだけで出演)。だが、それこそ彼が「映画の中で犯した犯罪」の予告であった。


ヒッチコックの映画とは、彼の大好物だった料理「スフレ」のようだ。

サスペンス仕立てという調理法は同じでも、中身は肉であったり魚介類だったり、デザート用には果物と、いろいろな具が詰まっている。サスペンスという皮の中に、誘拐や殺人事件よりも、もっと恐ろしい恐怖が詰め込まれている。


あの冷淡で飄々とした容貌からは想像できない、ヒッチコックが見た本当の恐怖とは?

私たちは彼が映画の中に残した手がかりによって、それを知ることができる。

ヒッチコックの映画に隠された真の恐怖とは、21世紀の現代において、ますます私たちにとって身近にものになっているのです。

2014年3月10日 平栗雅人


英国出身の映画監督・映画制作者アルフレッド・ヒッチコックは、80年の生涯(1899年~1980年)で53本の映画を作った。彼のサスペンス仕立ての映画は、映画の撮影技法や編集の手法だけでなく、個性的な登場人物やプロットといった点でも、「スターウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」といった現代映画に大きな影響を与

アカデミー作品賞受賞が1回、アカデミー監督賞にノミネートが5回。1980年にはエリザベス2世からナイトの称号を受けている。



ヒッチコックというミステリー



ヒッチコックの映画


スリラー映画の巨匠で「サスペンスの神様」と呼ばれるにふさわしい、20世紀を代表する映画監督。2001年にAFI(American Film Institute 全米映画協会) が作成した「スリルを感じる映画ベスト100」では、スピルバーグの6本より3本多い9本の映画が選出され、ヒッチコックがトップになった(1位は「サイコ」』)。


ヒッチコック映画の特徴は、そのエンターテイメント性にある。

いまでこそ珍しくもないが、現実世界では到底起こり得ないような「ドラマチックなシチュエーション」を映画のなかで実現し、スリルとサスペンスで観客を楽しませた。たとえば、アメリカのラシュモア山という、歴代大統領の顔が岩に刻まれた巨大なモニュメントの断崖絶壁や、ニューヨークにある自由の女神像のてっぺんで、主人公と殺人犯が戦ったり、主人公が車ごと崖から落とされそうになったり、アメリカの大草原で飛行機に襲われたり、と。

ところが、そんな主人公は007のような諜報部員や特殊能力を持つ超人ではなく、どこにでもいそうな一般人。ここに、観客がヒッチコックの映画に強烈な緊張感を覚えながらも、リアリティー(現実味)を感じる理由がある。


また、ヒッチコックは観客の心理を効果的に刺激する独自の映像技術を多く考案し、派手なアクションや、ビルや車の爆発によるインパクト以上に、観客の心を画面に引き込んだ。


映画はおもしろくなければならない

ヒッチコックはこう言ったそうです。「ある種の映画監督たちは人生の断面を映画に撮る。私はケーキの断面を映画に撮る」と。つまり、ヒッチコックの映画とは、あくまでも観客を楽しませるための作り物であって、人生や社会について何かを言おうとする映画ではない、と。

そして、こうも言ったそうです。

「たかが映画じゃないか」

「サプライズよりサスペンス」

「イメージは映るのではなく作るものだ」

「画面はエモーション(感情)で埋めなければならない」

「ファンタジー(幻想)こそ、私が扱っている分野だ。私は現実の一面を扱うようなことはしない」


ヒッチコックというミステリー

しかし、「たかが映画じゃないか」という彼の言葉。その「軽さ」の裏に、かえって私は彼の映画への強い思い入れを感じるのです。なにしろ、アフリカの砂漠で映画を撮影した時も、彼はネクタイにスーツ、革靴で仕事をしたくらい、自分のライフスタイルにこだわり(ポリシー・信念)を持つ男だったのですから。


ヒッチコックという映画監督は、じつは非常に大切なことを映画を通して伝えていたのではなかったか。それはまるで、彼の映画「バルカン超特急」(1938年)のなかで、ある歌のなかに非常に重要な国家機密情報を盛り込む、というサスペンス・ストーリーと同じように。


ヒッチコックの映像技術

 ヒッチコックの映像技術とは、技術そのものではなく、運用方法の素晴らしさにある。特別なカメラや特殊な技術を使用するのではなく、使い古された装置や技術を、彼特有の「職人芸」によってうまく組み合わせ「ヒッチコック流恐怖」を演出した。たとえば、

「下宿人」では無声映画でありながら、足音を映像で表現する。

 「断崖」ではミルクの入ったグラスの中に豆電球を入れて白く光らせることで「毒入り」という疑惑の心を強調する。

 「ロープ」では、全場面を1カットで撮影することで、観客が事件現場にいるような錯覚を起こさせる。(映画の中と観客側における時間の進行が同じ。)

 「裏窓」では移動撮影とズーム撮影を同時に行う。

 「見知らぬ乗客」では、主人公がテニスの試合をする場面で、ボールを追う観客の目(頭)の動きによって事件の緊迫感を表現する。また、女性が絞殺される場面では、地面に落ちたメガネに映る絞殺の映像によって、観客により深い恐怖心を抱かる。

 さらに、ズームアウトしながらカメラを前方へ動かすという「ヒッチコック・ズーム」と呼ばれる手法、等々。

 要は、金をかけずに、ちょっとした智恵と工夫で恐怖を演出する映像を作り出す、というのがヒッチコック流映画術。

莫大な金をかけて砂漠の中に西部劇の街並みを再現したり、派手な広告宣伝をぶち上げる。そういうスタイルを、ヒッチコックは好みませんでした。金を必要とする映画作りでは、プロデューサー(出資者)に気をつかって自分の好きな映画が作れないからです。

「たかが映画じゃないか」という彼の言葉には、大げさなことをしなくても、智恵を使って面白い映画は作れる、という彼の映画職人としての自負がうかがえます。

そういう信念を持っていたヒッチコックは、独自のカメラワークで観客の心を画面に引きつける工夫に執着しました。それが「カメラの目線と人の心を直接つなげる」という、彼独自のこだわり(映像哲学)から生まれたテクニックだったのです。


そして、この独自の映像技術とは、映画の中に巧妙に隠された「ヒッチコックの犯罪」から人々の目を逸らすための偽装工作でもあったのです。


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ヒッチコックの映像技術映画技法に関する、巷(ちまた)の評価

「ヒッチコックの作品は非常に高度な映画技法を駆使して作られており、際立った演出手腕を持った映画監督と言える。その映像テクニックは技術本位ではなくあくまで演出上必要であるからこそ使われ、結果的に絶大な効果を上げている。特にスティーブン・スピルバーグはヒッチコックの演出テクニックを生かした演出を行っているのが有名である(キネマ旬報にシーンの比較の記事が出た)」。(Wikipedia)


「ヒッチコックは、 脚本や絵コンテの段階で主要な場面を設定し、それぞれの場面にセリフ、アクション、キャメラの位置などを細かく指定して、撮影と同時に編集を行う事によって製作者やスタジオからの干渉を防いで自分の思い通りの映画を作り上げてきた。」(素晴らしき哉、クラッシック映画)

「彼は、定型の撮影方法にとらわれない斬新なアイディアを豊富に用いて、様々な名作を完成させた。役者の演技力やセリフに頼らず、それらを小道具のように用いて、純粋に映画的手法のみで登場人物の気持ちや感情を伝えようとした。たとえ役者の表情が同じでも、次に繋ぐショットの違いのみで、登場人物の感情は異なって見えるからだ。」(見てるか、B級!?)


ヒッチコックはどこにいる ?(ヒッチコックの犯罪予告)

ヒッチコックは彼の映画に、必ず自分が出演した(カメオ出演)。映画が公開されると、観客たちは映画のどの場面でどんな役で、ヒッチコックが画面に登場するのかを楽しみにしていたという。

だがこれは、「みなさん、この映画に隠れた「もう一人の私を探り当てて下さい」という彼のメッセージであり、「犯罪予告」なのです。


ヒッチコックのカメオ出演一覧

下宿人 1927 編集室で机に向かう男の役。

ふしだらな女 1928 杖を持ち、テニスコートから歩き去る男の役。

ゆすり 1929 子どもに邪魔されながら地下鉄で本を読む乗客。

殺人! 1930 殺人が犯された屋敷の前を通り過ぎる通行人。

三十九夜 1935 主人公が劇場から逃げ出す時、その側でごみを捨てる男。

間諜最後の日 1936 主人公がスイスに到着した際、共に降船する乗客の一人。

第3逃亡者 1937 カメラを持ち、裁判所の外に立つ人。

バルカン超特急 1938 ロンドン・ヴィクトリア駅。黒のコートを着た通行人。

海外特派員 1940 ホテル前で、コートと帽子姿で新聞を読みながら通り過ぎる。

レベッカ 1940 主人公が公衆電話を使う際、その近くを通り過ぎる。

スミス夫妻 1941アパートのまえで主人公とすれ違う。

断崖 1941 町のポストに手紙を投函する男。

逃走迷路 1942 工作員が車を止めた際、そこにある薬局のまえに立つ男。

疑惑の影 1943 列車内でトランプに興じる。

救命艇 1944 新聞の広告で、写真で登場する。

白い恐怖 1945 エンパイア・ホテルのエレベーターから出る客の一人。

汚名 1946 パーティにて、シャンパンを口にしてから間もなく退出する。

パラダイン夫人の恋 1947 チェロを抱えてカンバーランド駅を出る乗客。

ロープ 1948 新聞を手にして通りを歩く紳士。

山羊座のもとに 1949 総督のレセプションで話を聞く聴衆の一人。

舞台恐怖症 1950 主人公とすれ違い、振り返って見る男。

見知らぬ乗客 1951 主人公が列車から降りる際、列車に乗り込む乗客。

私は告白する 1953 階段から続く道を横切る男。

裏窓 1954 作曲家のアパートで時計を巻く男。

ダイヤルMを廻せ! 1954 クラス会で撮影した写真の左側に収まる男。

泥棒成金 1955 バスで主人公の隣に座る。

ハリーの災難 1955 絵画を眺めている老人のリムジンのわきを通り過ぎる。

知りすぎていた男 1956 モロッコの市場にて曲芸を見物する。

間違えられた男 1956 プロローグにおけるナレーション。

めまい 1958 グレーのスーツを着て、通りを歩く。

北北西に進路を取れ 1959 バスに乗り遅れる乗客。

サイコ 1960 主人公が事務所に戻った際、その窓越しに姿を見せる。

鳥 1963 ペット・ショップから2匹の犬を連れて店を出る紳士。

マーニー 1964 ホテルの廊下で、画面左から登場する。

引き裂かれたカーテン1966 ホテルのロビーで、赤ちゃんを膝にのせて座る。

トパーズ 1969 空港で車いすを押されて登場し、歩いて立ち去る。

フレンジー 1972 演説に集まった聴衆の中の一人。

ファミリー・プロット1976 ドアの外に映るシルエット。

ヒッチコック・プロファイル

「ヒッチコックの犯罪」とはなにか。

その前に、彼がどういう人間なのかを知っておく必要がある。といって、彼の学歴や職業経歴などではなく、彼の精神的バックグラウンド、「人となり」です。


私生活のヒッチコック

夫人によると、ヒッチコックの私生活は非常に規則正しく、作風からは想像できないが、予期せぬ出来事といったことは大嫌いだったらしい。(Wikipedia)


① ジョンブル・ヒッチコック

 ヒッチコックは「ジョンブル(英国紳士)」であった。

 ジョンブルとは、牛の如くに性格は頑固な反面、非常に繊細であり、プライドが高いがユーモアを忘れない。敬虔なキリスト教徒であり、英国人気質の典型。

 1940年、ヒッチコックは「レベッカ」でアカデミー作品賞を受賞したが、彼はこう言ったという。「あれはプロデューサーに与えられた賞であり、”ヒッチコックピクチャー”とは言えない。なぜならば、この作品にはユーモアが欠けている」と。

ヒッチコックの撮ったフィルムをプロデューサーによって大幅に編集されたことを、ヒッチコックのプライドが許さなかったのです。


② キリスト教徒・ヒッチコック

家がクリスチャンであり、また、学校がキリスト教系であったこともあり、ヒッチコックは敬虔なキリスト教徒だった。

かつてのロンドンの下町という、危険な街で生活しながら、キリスト教という宗教を通じ、清純な「神の世界」を知っていた。ヒッチコックは子供のような純粋な目で、汚れた人間世界と清純な神の世界の両方を見ていた。


③ 戦う男・ヒッチコック

米国に移住した英国人ということもあり、映画界でコネや後ろ楯のないヒッチコックは、実力で戦うしかなかった。

ハリウッドはプロデューサー(映画の出資者)の力が強いため、監督であるヒッチコックは自分のスタイルで映画を作るために、たびたび彼らとケンカをしなければならなかった。あの飄々とした穏やかな外見とはうって違い、心は熱く、若者の純粋さを生涯持ち続けた「熱い男」。それがヒッチコックであった。


④ 愛

ヒッチコックの映画に必ず登場するものといえば、それは「愛」。

男女の愛、夫婦の愛、親子の愛。時には、「愛のない夫婦」「歪んだ親子の愛」というのもあります。ヒッチコックは自分の家庭とスフレという料理をこよなく愛しました。強い愛があるからこそ、愛する者を守るために戦ったのです。だから、ヒッチコックの映画には、「愛のための犯罪」が様々な形となって描かれているのです。


⑤ こだわる男ヒッチコック

 「「湯水の如く金を使った大げさな映画を作るなんて、子供だよ。英国人はもっとスマートに、智恵を使って観客を楽しませる映画を作ることができる」

「たかが映画じゃないか」というヒッチコックの有名な言葉には、実はこういう意地があった。

 彼には、「ヒッチコック流サスペンス映画」を撮る、という独自の映像哲学(こだわり・スタイル)があった。それはまた、日本の映画監督・黒澤明も同じである。彼らは自分の制作した映画すべてに、自分のポリシーを貫いた。だから、映画の興行収入ばかりを考えるプロデューサーと、たびたびケンカしたのである。


子供のように純真で青年のように熱い心、神への信頼と人間への愛情、高いプライドとユーモアのセンス、執着する(こだわる)心。これが、人間ヒッチコックのキーワードなのです。


「ヒッチコック流サスペンス映画」: 単なる殺人事件を扱う映画ではなく、個人ではいい人間なのに、国家という組織の一部になると、その心は悪魔のように冷徹で残忍になる、という恐怖。金に対する執着や個人的な恨みつらみによるのではなく、傲慢な心によって人が殺される、という恐怖。心霊現象といったホラー映画ではなく、実際に私たちの住む社会に見られる、きわめて日常的で現実的な「サスペンス」を映画にするのがヒッチコック流なのです。


ヒッチコックの犯罪

DIXIT EIS IESUS SI CAECI ESSETIS NON HABERETIS PECCATUM NUNC

VERO DICITIS QUIA VIDEMUS PECCATUM VESTRUM MANET (John 9.41)

イエスは彼らに言われた。「もしあなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。

しかし、今あなた方が『見える』と言い張るところに、あなた方の罪がある。」


映画の主人公の犯罪

 いったい、犯罪とは何か。旧約聖書に書かれた人類最初の罪は「リンゴ(智恵の実)を食べた」ことであり、次が「人間が人間を殺す罪」であった。つまり、智恵をつけることで神と対等になろうとした人間の傲慢さが最大の罪であり、その次が殺人だったのです。


ヒッチコック映画における犯罪は、なんといっても殺人が多い。現在DVDなどで見れる彼の映画40本の内、35本が殺人絡みのストーリー。殺人が起きない映画は5本だけです。

 ある時は主人公が直接殺人を犯し、ある映画では他人の犯した殺人事件の犯人に間違われて警察から追われる身となる(冤罪・誤認逮捕)。冤罪の話は実に17本もある。

殺人が起こる35本の映画のうち、個人の殺人が23本、組織による殺人が11本。

人類の罪としては二番目に重い殺人に関与しているのが、ヒッチコック映画の主人公たちなのです。


観客の犯罪

 ヒッチコック映画の観客は、映画の主人公たちと一緒に、自分が殺される恐怖や、逆に殺人を犯す恐怖、冤罪で警察に追われる恐怖を味わう。観客は第三者ではなく事件の当事者となって、主人公と一緒にハラハラドキドキさせられる。


「ロープ」(1948年)では、映画の冒頭にいきなり主人公が殺人を犯す。観客はその現場に立ち会うことを強制される。しかもこの映画は、映画の中の時間と現実の時間とが同期しているため、また映画の切れ目がないために、観客は自分が一緒に殺人に関与したような気持ちを抱きながら、映画の進行に没入してしまう。

だから、最後に遺体が発見されたとき、主人公は落胆するが、観客はホッとする。つまり、ヒッチコック映画の観客は、最後の最後まで主人公と同じスリルを味わう。3D(3次元・立体画像)技術を使わなくても、ヒッチコック映画では、観客は映画にのめり込むことができるのです。


ヒッチコックの犯罪

ヒッチコックがただのスリラーやサスペンス映画を撮っていただけなら問題はない。

映画という架空の物語の中での真実追求、真犯人探しならいい。

ところが、 ヒッチコックは映画のなかで恐ろしい殺人を見せながら、その影で別の恐怖を見ていた。映画の中でのサスペンス以上にもっと恐ろしいものを見て、それを観客に見せていた。

これが、映画の中でヒッチコックが犯した罪(サボタージュ)であり、彼はそれを隠すための様々なアリバイ工作・偽装工作を行ったのです。


ヒッチコック映画「サボタージュ」1936年

「Sabotage サボタージュとは、故意に破壊行為を行なうこと。

その目的は、ある組織に警告を発したり、市民を恐怖に陥れたりすることにある。」


警察官   「サボタージュ(破壊行為)の目的は ?」

警察官の上司「我々の注意を引くことだ」「足を踏んだ隙に財布を盗むスリと同じさ」

警察官   「黒幕は ?」

警察官の上司「絶対に捕まらない奴らだ」


ヒッチコックは映画の中で様々な犯罪を見せながら、その裏に隠れているもっと大きくて危険な犯罪を指摘していたのです。


ヒッチコックのアリバイ

ヒッチコックは、カメラを通して殺人の恐怖を撮影しながら、「もう一つの恐怖」を見ていた。彼の一瞬の映画出演と同じで、ホンの少しではあるが映画という作り物の世界で真実を語った。

そして、それをカモフラージュするために、全く関係のない場面によってアリバイ工作を行い、スリルやサスペンスによってプロデューサーや観客の注意を逸らせる(偽装工作)ことで、真実を語る自分の存在(罪)を消したのです。


ヒッチコックのアリバイとは、たとえば、ある映画のこんな場面です。アメリカ人の医者が、妻子とヨーロッパ経由アフリカでバカンスを楽しむ。そこで交わす会話である。


医者「なにが可笑しい ?」

医者の妻「ホテル代の出所を思ってたの」

医者「もちろん僕が払ったのさ」

妻「ちがうわ。キャンベル夫人の胆石よ」

医者「あはは、そうか」

妻「パリでの買い物は旦那のビルの扁桃腺」

医者 自分の背広を見ながら、「思いもしなかった。盲腸を着てるなんて」

妻「去年の船旅は2組の双子を含めた7人分のお産」

医者「蕁麻疹(じんましん)と」

医者「帰りの費用はテイラーの胃潰瘍」

妻「それと、アリダの喘息」

医者「かいせんの患者4人で、隠退後の生活は安泰」

医者「マロウ夫人の3つ子出産で家も改装できる」

妻「ベン、聞かれたら大変よ」

医者「マラケシュ(モロッコのある町)に来たのは、自由に話すためもある」


ヒッチコックはアフリカの砂漠で、アリバイ工作を行った。

 つまり、この会話を、もしこの医者の病院や自宅で行っていたら、冗談でなく真実であると、観客は受け止める。

 しかし、この会話がアフリカの砂漠で、病気や医者など全く関係ない状況で、かつ唐突に、しかも、途切れ途切れに行われることで、観客はこの会話の「真実味・現実の怖さ」というものに気づかない。ヒッチコックのアリバイ工作が成立したのです。

 ヒッチコックが語る真実を、真実に見せないようにする工夫。ヒッチコックの「犯罪」を隠蔽するための様々なテクニック。それが「ヒッチコックのアリバイ工作」であり、「マクガフィン」の正体なのです(「ヒッチコックのマクガフィン」参照)。


2014年5月。 日本のインターネットには、ある日本人旅行者がアメリカで盲腸の手術を受け、病院から500万円の請求を受けた、というニュースが話題になった。


国際テロ組織の暗殺事件に巻き込まれるよりも、毎日の生活で医療にかかる費用の方が、よほど恐ろしい。これがヒッチコックの見た恐怖であり、それを観客に見せてしまったところに、彼の罪があった。真実を知られたくない者からすれば、ヒッチコックは罪深い奴、ということになるのです。


ヒッチコックの見た恐怖

「私は型にはまった映画監督だ。もし私が『シンデレラ』を撮ったとしても、観客はすぐに馬車の中に死体(恐怖)を探すだろう」


ナイフや拳銃の殺人よりもずっと恐ろしい恐怖をヒッチコックは見ていた。それは、私たちが安心・安全であると考えている社会の中に存在する恐怖のことです。


ヒッチコック映画に見る「恐怖」

① 安全なものが、もっとも危険である、という恐怖

○ 無実の市民が、警察とマスコミによって殺人犯にされる恐怖

○ 公務員が公務で民間人を間違えて殺してしまいながら、全く反省しない恐怖

○ 平和や緑の大切さを訴える組織が、実は国際紛争を煽る秘密組織だった、という恐怖

○ 警察の捜査の目的とは真相追求ではなく、自分の昇進のためである、という恐怖

○ 警察は本当の悪人を絶対に捕まえられない、という恐怖。

○ 世の中には捕まらないまま生活している殺人犯・真の悪人がいる恐怖

○ だから、警察とマスコミが作り出した「犯人」を捕まえて、任務完了にする恐怖

○ 同じく、弁護士も金のために働いている、という恐怖

○ 同じく、裁判官も自己満足のために働く、という恐怖

○ 人の命を救う医者が殺人犯という恐怖

○ 「人徳者・善人」がじつは殺人犯であった、という恐怖

○ 法に厳格な裁判官が若妻にセクハラする恐怖

○ 弁護士が被告のために事実をねじ曲げようとする恐怖

○ 大企業の経営者の息子が、精神異常の殺人鬼、という恐怖

○ 現代では、裁判システムが逆に社会(人の心)を歪ませているという恐怖

○ 大都会という便利で安全に見える社会の裏にある恐怖

○ 市民の下僕であったはずの公務員が人間を襲い始めるという恐怖

○ 弁護士が強請をするという恐怖

○ 都会では近所の人間の妄想と警察のいい加減な捜査で、人が殺人犯にされる。

→ 現代日本の「痴漢冤罪」を予言したヒッチコック。

○ 監視社会。あなたの行動は「社会の裏窓」から覗かれ、監視されている。


② 人間の傲慢さ

○ 自分以外全員が嘘をついている。真実を言う少数派が「嘘つき」にされる恐怖

○ 宗教の恐怖。「カリスマ」に心を支配された人間の異常な行動

○ 公務員が間違いを起こしても罰せられない、という恐怖

○ いい大学を出たエリートは、殺人を含む何をやっても許されるという恐怖

○ オックスフォードとケンブリッジは仲が悪い、という恐怖

○ 裁判官の傲慢さ

○ 指導者(エリート)は庶民を殺すことに罪悪感が無いという恐怖

○ 社会装置(警察・裁判所)は民間人の犠牲の上に成り立っている、という恐怖

○ 法は犯していない。しかし、倫理を外れている人間が社会の上に立つ恐怖


③ 愛が人を殺す

○ 刑事が、惚れた人妻の夫殺しを隠蔽する恐怖

○ 警察官が、自分の恋人の犯罪(殺人)を民間人になすり付ける恐怖

○ 愛国心が大量殺人の動機となる恐怖

○ 大量殺人を行う組織の人間が、善きパパであり、おじいちゃんであるという恐怖

○ テロリストは愛する妻と子のために大量殺人を行うという恐怖


○ 現代社会は人間を安らかに死なせてくれない、という恐怖

○ 命の値段(医療費)は恐ろしく高いという恐怖

○ 殺人よりも怖いイギリスの料理

○ 政府発表しか書けない新聞記者の恐怖

○ 報道写真家は大惨事がお好きという恐怖

○ オックスフォード(英国)がハーバード(米国)に負けるという恐怖

○ 「モーツァルトで精神病は治らない」アメリカの精神病院への皮肉?

○ ヒッチコックの良く取り上げる保険金殺人


「恐怖は無知から生ずる」

Fear always springs from ignorance.


恐怖や不安という感情は、私達が本来持っている能力や可能性を損なってしまうことがありますが、それらは多くの場合、先が見通せない、あるいは情報が足りないといったことから起こります。恐怖を乗り越えるためにも知恵の力が必要です。


ヒッチコックの見た恐怖 2

ヒッチコック映画の脇役で、最も重要な存在といえば、それは「社会装置」です。私たち人間が現代社会で生きていく上で、欠くことのできない社会的機能。そのなかでも、社会のシステムとしてキッチリと社会の中に組み込まれている、装置化している機能・組織。たとえば、犯罪・事件に関することなら、警察・検察・裁判官・マスコミ。警察の一部としての情報機関。健康に関することなら、医者・製薬会社・保険機構。お金に関することなら、銀行や証券会社。そして、それらの上に君臨する各種役所の機構。

主人公たちが、個人として行動するのと対照的に、脇役である社会装置は、必ず組織で行動します。そして、この脇役達の罪こそが、ヒッチコックの見た真実なのです。

 映画の中で「人が人を殺す」場面を見せながら、ヒッチコックは社会という仕組み(社会装置)が人を殺す、という真実を観客に見せた。

社会を安全快適にするために作られた様々な仕組みが、逆に市民の心に不安を与え、個人の尊厳・名誉を抹殺し、財産を奪い、無罪の人間を犯罪者にしてしまう。社会が個人に奉仕するのではなく、個人が社会の生贄になるという恐ろしい真実です。

ヒッチコックの「殺人事件」


映画の中で殺人事件が発生するストーリー(35本)

下宿人 1927

ゆすり 1929

殺人! 1930

暗殺者の家 1934

三十九夜 1935

間諜最後の日 1936

サボタージュ 1936

第3逃亡者 1937

バルカン超特急 1938

海外特派員 1940

レベッカ 1940

断崖 1941

逃走迷路 1942

疑惑の影 1943

救命艇 1944

白い恐怖 1945

汚名 1946

パラダイン夫人の恋1947

ロープ 1948

舞台恐怖症 1950

見知らぬ乗客 1951

私は告白する 1953

ダイヤルMを廻せ! 1954

裏窓 1954

泥棒成金 1955

ハリーの災難 1955 (最後に、殺人ではないということになる)

知りすぎていた男 1956

めまい 1958

北北西に進路を取れ1959

サイコ 1960

鳥 1963

マーニー 1964

引き裂かれたカーテン1966

トパーズ 1969

フレンジー 1972


35本の内、冤罪・誤認逮捕(17本)

下宿人 1927

ゆすり 1929

殺人! 1930

三十九夜 1935

間諜最後の日 1936

第3逃亡者 1937

バルカン超特急 1938 (秘密警察に拉致・監禁されそうになる)

海外特派員 1940

逃走迷路 1942

白い恐怖 1945

見知らぬ乗客 1951

私は告白する 1953

ダイヤルMを廻せ! 1954

泥棒成金 1955

北北西に進路を取れ 1959

フレンジー 1972

間違えられた男 1956


人間的な社会装置

下宿人 1927 刑事が(恋敵である)容疑者に嫉妬する

ゆすり 1929刑事の恋人は殺人犯

三十九夜 1935テロリストと警官は仲良し

サボタージュ 1936刑事が殺人犯を匿(かくま)う

間諜最後の日 1936諜報員は冷酷で色情魔(映画「007」の原型がここにある)

第3逃亡者 1937昇進ばかり考える警察官

汚名 1946情報官僚の奥様は優雅に暮らす

パラダイン夫人の恋 1947 裁判官も不倫を好む

私は告白する 1953弁護士も恐喝する


テロリストにも愛がある

暗殺者の家 1934テロリストの男女の愛

三十九夜 1935テロリストの家族への愛

サボタージュ 1936テロリストの家族への愛

バルカン超特急 1938冷酷な秘密警察員にも愛がある

海外特派員 1940冷酷に人を殺す悪の親玉は、良きパパでもある

逃走迷路 1942冷酷に人を殺す悪の親玉は、良きおじいちゃんでもある

知りすぎていた男 1956 テロリストの女性の子供に対する愛


民間人を犠牲にする国家の諜報機関

間諜最後の日 1936間違えて民間人を殺しても、涼しい顔の諜報部員

バルカン超特急 1938 民間人を見殺しにして自分だけ助かる諜報部員

汚名 1946民間人の女性を使って諜報活動

北北西に進路を取れ 1959民間人を犠牲にして自分たちの諜報部員を守る

引き裂かれたカーテン1966民間人に危険な諜報活動を行わせる


ヒッチコックの戦い

「恐怖を取り除く唯一の方法は、それを映画にしてしまうことだ」(ヒッチコック)


自分が死ぬのも人が死ぬのを見るのも、同じように恐ろしい。だから、映画の中で行われる殺人の恐怖に慣れることはない。しかし、殺人の原因ではなく恐怖の原因を知れば、恐怖は恐怖でなくなる。解消できるにちがいない。


東洋大学の創始者井上円了は、100年前、「妖怪の研究」という看板を掲げて、人間の心に潜む恐怖を明らかにする活動をした。心の中にある恐怖を皆の目で見ることで恐怖は恐怖でなくなる。ヒッチコックは、それを映画で行ったのです。


ヒッチコックの映画では、様々な困難な目に遭い、窮地に立たされた主人公は、真実を明らかにするという戦いをする。戦いの原動力は「愛」。人は恋人や妻や子のために戦う。

大切なことは、自分という主体性がないと人を正しく愛せない、ということ。ogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)。自分がしっかりしているから人を愛せる。愛のために戦える。ヒッチコックの映画はそれを教えてくれるのです。


夫婦・家族の愛

日本で親子の愛といえば、一方的に親が子を大事にする(その代わり、子供は親の奴隷)ですが、キリスト教国では、親子は対等な関係。

子供が早く親に対等にものが言えるように教育する。それが西欧人の教育。夫婦、そして親も子供も対等な関係。父親と母親と子供は「戦友」であり、互いに意見を言い合い、喧嘩をしながら共に敵と戦い、共通の目的を達成していく。日本では「子供は黙ってなさい」ですが、欧米では子供も大人を相手にどんどん意見を言う。ヒッチコックの映画では、そういう場面がよくあります。


男女の愛

赤の他人同士が、肉体的ではなく精神的に信頼できる関係となる。ヒッチコックの映画では、互いに相手を信じきれた場合はハッピーエンドとなり、そうでない場合には残念な結果となる。愛とは信じるということであり、それは単なる盲信とは違う。信じる者のために戦う。相手を疑いたくなる自分との戦いこそ、愛の核心なのです。


隣人・民衆の愛

家族でも恋人でもない、ただの通りがかりの人間の愛。しかも、インテリよりも、トラックの運ちゃんやサーカスの芸人といった一般大衆の方が、人間を素直に見れる。信じる勇気を持っている。空中ブランコとは、強い信頼関係がなければ絶対にできない仕事だ。肩書や収入よりも、人間の心で人とつきあう人間には、真実を見る力(=愛)がある。


恐怖の克服

「人間が困難に立ち向かう時、恐怖を抱くのは信頼が欠如しているからだ。私は私を信じる」(It's lack of faith that makes people afraid of meeting challenges, and I believe in myself.)モハメド・アリ


ヒッチコック の「マクガフィン」

「マクガフィンとは、映画や小説で、登場人物にとって重要であるが、物語を作る上で別の何かをそれに当てても問題はないという意味で、重要でないもの。たとえば、泥棒が盗みだすものが、宝石でも金塊でもそれほど問題ではない。スパイが盗み出そうとする密書が暗号になってもさして問題が無い。映画監督のアルフレッド・ヒッチコックが、自身の作品を説明する際にこの言葉をしばしば用いた。(Wikipedia Japan)」


ヒッチコックの映画に対して、以下のような批判があります。

だが、これこそ「マクガフィン」。つまり、ヒッチコックが望んだことなのです。


○人畜無害の無個性なジェームス・スチワート演じるような(いわゆる古き善き)良心的なアメリカ市民。

○グレース・ケリーやドリス・デイ演じる、これまた無個性な、まるでバービー人形のような女性登場人物。

○俳優のへたな演技。リアリティのない大袈裟な(わざとらしい)演技。

○迫力のかけらもない人対人のアクションシーン。

○(ライティングに工夫があるのかないのか?いわゆる)「総天然色」の“あっけらかんとした”カラー映像。

○(いま見ればあまりにも)チープな(特撮)合成映像。

○サスペンスとラブコメとファミリードラマを混ぜ合わせた、最後は「めでたし、めでたし」て終わるストーリー展開。


これまで見てきたように、ヒッチコックは自分が見た恐怖を、スリルやサスペンスという調理方法と、ユーモアというスパイスによって、おいしい料理に仕立てた。それに合った俳優を使用した。エリザベス・テーラーやビビアン・リー、クラーク・ゲイブルやジョン・ウエインでは個性的すぎる。俳優の存在感が強すぎてヒッチコックの言いたいことがバレてしまう。「医者の話」(「ヒッチコックのアリバイ」参照)も、ジェームス・スチュアートのようなアクの強くない人間がサラリと言うからいいのです。

要は、金髪の美人と二枚目のイケメンという、ちょっと話題になる俳優であれば誰でもよかった。ヒッチコックが俳優に期待したのは彼等の演技ではなく、ヒッチコックの本当に言いたいことを隠すための煙幕(マクガフィン)としての「適度な存在感」であった。


① 美男美女でシリアスな問題を内包して(隠して)しまう。

② ユーモアで笑わせて、シリアスな問題に気がつかないようにしてしまう。ユーモアとは怒りや悲しみを紛らわす、ジョンブルの「悲しい酒」でもあるのです。

③ スリルとサスペンスで注意をひいて、真の問題から目を逸らせる。

④ 犯罪とは全く無関係な、観客の気を引く雄大な景色(砂漠・山・海・湖・平原)に観客の心を引き入れて、重要な問題から目を逸らさせる。

⑤ 逆に、ミニチュアのプアーなセットで、ミクロの世界に観客の心を引きつける。

⑥ 俳優のへたな演技は、逆に観客の心をヒッチコックの言いたいことの核心に誘導する。


マクガフィンとは、ヒッチコックが映画の中で行う「隠しながら見せる」「事実をはっきりと言いながらぼやかす」というテクニックを隠すために「絶対に必要なもの」であったのです。


ヒッチコック映画にサスペンス以外の何を見るか

ヒッチコック映画に何を見るか

古き良き時代を知る


○ いつでもどこでも煙草が吸える自由さ

現代人は自由、自由と叫びながら、現実には以前よりもずっと不自由な生活をさせられている。

現代における「自由」とは、警察や軍隊に周りを囲まれた物質的・精神的な檻の中で、監視されながら「言っても良いこと、やっても良いこと」だけを「やらされている」という自由なのです。

自分の意思で自由に生きているのではなく、与えられた狭い空間で許可されたことだけを「やらせてもらっている」。

今は失われた「自由」を感じることができる。


○ ID(身分証明書)がなくても、自分の人格・個性・顔で存在できる。

「言葉なんかいらないわ。私たちには顔があったのよ。」と映画「サンセット大通り」で、女優のグロリア・スワンソンは言いました。

ID(身分証明書)によって人間を家畜や物のように扱い管理しようとする流れがあります。

一方で、そういう流れに逆らって、人間として存在しようとする人々がいます。


○ 電車やバスの窓が開けられる

現代の、まるで宇宙船のような電車やバスとは違う。


○ 優秀な大学を出た知識で頭が一杯の人間など要らん

警官を殴った男(海外特派員)


○ 警察署長の家の食卓で

子供が庭で捕まえた野ネズミをテーブルに出して見せる。

みな、嫌な顔をするが、別段ヒステリックになる者はいない。


○ 専門家が寄ってたかって世の中を混乱させている

アマチュア(素人)の時代(海外特派員)


○ 専門家という権威や権力、を笑い飛ばすユーモアがある


○ 人々が真実を見ないで、専門家の言うことを鵜呑みにする危険性


○ 権威や権力を盲従するから、戦争が起きる


○ 「信じる」大切さを教えてくれる(「逃走迷路」)

○ 警察とヤクザは裏表 ということを教えてくれる。

テロ組織も理想を持って破壊活動を行っている。警察も自分たちの所属する社会が正しいという信念で、それ以外の思想や組織を排除しようとする。

警察・ヤクザ・テロ組織、彼らはみな暴力や拳銃という手段で、人々を脅し、拘束し、時に警察(検察・裁判所)は無実の人間を死刑にする。日本で、テロで死んだ人間と、誤認逮捕や冤罪による死刑囚と一体どちらが多いのか勘定してみるべきだろう。


警察でもヤクザでも、自分を助けてくれる側は正義なのである。


○ 言葉のテロに気をつけろ

マスコミやSNSによる言葉によって、ある国の人々に恐怖や劣等感や不快感をを与える。

テロ(サボタージュ)の目的とは、直接人を殺すことにあるのではない。

相手の国民の心を乱すこと、社会を混乱させることにある。

ある刺激に対して、人の心はそれぞれにいろいろな反応をする。心に格差が生じる。不均衡が生じる。

人々の心が統一されないで、バラバラになる。

これが「彼ら」の目的。(サボタージュ)


○ 薬としてのブランデー

気付け薬として用いられる場面が度々ある。


ヒッチコックの見た光と影

「私の映画に色彩や線はない。あるのは光と影だけだ」


善と悪は裏表の関係にある。「きれいは汚い。汚いはきれい」(シェークスピア「マクベス」)。


民衆は世の中を変える力を持つが、また愚かな存在でもある

たとえば、ヒッチコックは民衆について、二人のエリート(ある国の政治家・秘密組織の首領)に、こう語らせている。


光 政治家「私のようなおいぼれは好きにしろ。しかし、民衆を征服することはできないぞ」「鳥にパンを与える小さき人々は、決して負けない。彼らを戦争に駆り立てるがいい。お前のような野獣が殺し合っている間に、世界は変わるだろう。小さき人々が世界を変える」


影 秘密組織の首領「君のようなものには理解できないことだ。疑問も持たずに生きている、単純な馬鹿者たちにはわからない。愚かな民衆たちよ。我々はそんな奴らとは違う。一生のうちに多くのことをなし遂げたいと考えている。つまり、もっと有益な政府が欲しいのだ。全体主義の国家の方が優れていると思わないか。効率的な国になる」


ふだん私たちが見ている「光」の部分だけではなく、ヒッチコックは社会の様々な場面で「影」の部分も見ていたのです。


社会装置の光と影(必要悪)

大学教授・エリートの学生

ある映画の中で、殺されたのはハーバードの卒業生。殺したのもまた、ハーバードの卒業生。(エリートがエリートを殺したという話であるから、凡人には関係ないが・・)


エリートの若者「善良な国民は戦場で死ぬ。彼は生きてても場所をとるだけだ。完全犯罪の犠牲者にはもってこいだ。ハーバードの卒業生だからね。正当殺人だ」


若者「殺すのは誰でもよかった」


若者「殺人は芸術だ。殺すのは創るのと同じくらい満足感がある」


若者「僕たちは口先だけの凡人とは違う。誰も実行に移す者はいない」


若者「殺人は多くの人間にとって犯罪だが、我々エリートにとっては・・・」


この若者と彼の大学時代の恩師(教授)、友人の父親(老人)、女性たちとの会話。


教授「鶏は十分殺人の理由となる。金髪の美女や大金と同じだ。どんなに些細なことでも、殺人の理由になる」

女性「殺人を認めるっていうの」

教授「問題を解決するには、一番手っとり早い方法だ。失業問題に貧困。チケット売り場の行列。劇場で最前列の席を取るために拳銃を使ってもいい」

教授「殺人は芸術といえる。芝居とは少し違って、その特権が許されるのは、少数の優れた者(エリート)だけだが。」

若者「犠牲となるのは劣る者たち(非エリート)」

教授「とはいえ、一年中殺人をしているわけにもいかない」

老人「殺人が優れた者に許された芸術などというのは、狂っている」


老人「いったい、誰がエリートと非エリートの区別をし、犠牲者を決めるのだね」

若者「特権を持つ者」

老人「たとえば ?」

若者「優れた知性や教養を持つ者は道徳概念を超越している。善悪や正誤などというものは、劣る者たちのために作られた幻想にすぎない」

老人「ニーチェの超人論か」

若者「まさにそうです」

老人「ヒットラーだな」

若者「ヒットラーは偏執狂だ。彼を信奉する者は能無しばかり。生きている価値はない。まず愚か者を殺し、次に無能な人間を殺す」

老人「私も殺したらどうだ。君たちを理解できん愚かな男だ。しかし、君の言っていることは人間に対する侮辱だ。文明社会をバカにしている」

若者「文明とは、偽善で塗り固められたものにすぎない」


若者の殺人が教授にばれた時の会話。

若者「劣者の命には価値がない」

若者「二人でよく話しましたよね。善悪や正誤の道徳的概念は愚か者のものであって、優者には当てはまらない、と」

教授「覚えている」

若者「あなたとの話を実践したんです。あなたなら理解できるはずだ」


教授「いまの今まで、私は世の中や人々のことが理解できなかった。だから、理論と知識で説明づけてきた。でも、君に言われて気づいたよ。確かに自分の言葉は尊重すべきだ。だが、君はとんでもない解釈をしている。忌まわしい殺人の口実にしている。君は間違っている。許されない。君の心の奥底には、これを実行させる何かがあった。私の中には実行させない何かがあった。君と私は違うんだ」

教授「優者と劣者の概念なんてばかげている。君に感謝するよ。我々は個々の人間であるということがわかった。 誰でも生きて考える権利がある。社会の義務の中でね。一体、何の権利で自分が優者の一人だと。何の権利でその若者が劣者だから殺してもいいと決めた ?自分を神とでも思っているのか」


警察官

ヒッチコックの映画に登場する警察官は、社会装置として、機械的に人間を捉えて裁判所に送るという作業を実行する。その一方で、ヒッチコックの映画に登場する警察官は、時に人間味がある(恋をする、嫉妬する、社会法規を守らない、等々)。


警察署長「正当な手順とは言え、たまたま捕まえた最初の容疑者を、徹夜で尋問するとは・・・」。

警察官「彼らは、スコットランド・ヤードですからね(是が非でも、「自白」させたいんですよ。)」


レストランにデートで来た刑事と恋人

「満席だから上の階へ行ってくれ」という従業員の言葉を無視し、従業員の見ていないスキに勝手にテーブルに坐る刑事

刑事「オレは刑事なんだ」

恋人「警察なんて推理小説で十分よ」


ある刑事が自分の恋人の店(煙草などを売る雑貨店)にやって来る。

たまたまそこにいたおばさんとの会話。

おばさん「例の殺人事件は ?」

刑事「僕が担当している」

おばさん「逮捕したら昇進でしょ !」


警部補「母がリウマチだと言ったら、上司がフロリダへ転勤しろ、と」「母親のリウマチのために昇進を諦めるわけにはいかん」

巡査部長「署長に相談したのか」

警部補「ああ。転勤は可能だが、巡査部長からやり直しだと」「オレは麻薬事件を解決したというのに、ひどい話だ」

巡査部長「他にはなんて言われた?」

警部補「お前はマザコンだ、とからかわれた」


 二人の警察官が容疑者の若者を追って建物に入ろうとする。入り口には犬がいて侵入者に吠えたてる。年配の警察官が若い警察官に言う「その犬を押さえろ」

若い警官「危険です」

年配の警官「昇進できるぞ」


 徹夜で尋問されて朝になり、気を失った容疑者の男を、たまたま警察署に来た警察署長の娘(ガールスカウト経験者)が、叩いて起こす。

男「叩き方もガールスカウトで習ったのか?」

警察署長の娘「刑事を見て覚えたのよ」


弁護士「警察に素直になれば、君のためになる」

容疑者の男「弁護士は警察の味方なんですか?」


警察が深夜に家の戸を叩く。

警察官「警察だ。戸を開けろ !」

家人「警察だからって、夜中に善良な市民を起こすんですかい?」


老人の姪が言う。「警察が凶悪犯を追っている」と。

それに対して老人は、

老人「警察はなんでも大げさに言うものだよ」

姪「逃走している犯人は危険な人物なのよ」

老人「本当かどうかわからないじゃないか」

老人「警察のいうことはいつも決まっている。危険だ、注意しろ、と市民を脅す」


調査と称して、人妻を高級レストランに誘う刑事。こんな高級レストランは初めて、なんて言いながら、じつは何度も「調査」でこのレストランを使用していることがばれてしまう。


夫をナイフで殺した人妻。

だが、夫の死体はテロによる爆発で跡形もなくなってしまう。

刑事「心配するな。(オレ以外)誰も真相を知らない。」


警官「危ないじゃないか」

八百屋の店員「何が ?」

警官「お前の店先の道にキャベツの葉っぱが一枚落ちている。通行人がこれに滑って、足に怪我をさせるのが楽しいのか ?」

店員「・・・。あなたの足なら楽しいかもしれませんね」

店員「オレンジは足にいいんですよ」と、手にしていたオレンジを警官の鼻面に突きつける。不愉快そうな顔をして立ち去る警官。


パトカーが農道でエンコした警官二人の前に、豚を積んだ小さな馬車がくる。

警官「止まれ」

百姓「なぜですか?」

警官「我々を乗せろ。これは命令だ」

百姓「そんな理不尽なことを」

警官「任務中だ」

百姓「俺も同じだ。仕事中なんだ」

警官「いいから坐らせろ」と、強圧的に言う警官


警察署長宅の夕食で。容疑者に逃亡された事件について家族で話をしている。

子供A「警察も無力だね」

子供B「若い血が必要だ」

警察署長(苦笑い)


ヒッチコックが彼のイギリス映画時代に描いた警察官とは、恋もすれば狡賢いこともする、ごく普通の人間。乱暴で横柄だが、人間味があって安心できる部分もある。

ところが、アメリカでの映画制作になると、「間違えられた男」の警察官のように、機械的・暴力的な警察官に変わっていく。ベルトコンベアーのように、犯罪を処理する機械のような人間、傲慢で冷たい組織という印象が強くなってくる。

ヒッチコックの描いた「警察官の恐怖」とは、1999年の映画「マトリックス」の「エージェント」につながっていくのです。


聖職者

殺人の容疑で裁判にかけられた聖職者に対して。

民衆「聖職者が夜中に女と密会なんかしていいのか !」「坊主を辞めろ !」

と、裁判所から出てきた神父を激しく非難する。

殺人の冤罪は晴れたのですが、欧米人は聖職者に対しことのほか厳しい。日本の坊主のようなわけにはいきません。キリスト教では、聖職者が買春などすれば厳しい非難をされます。敬虔なキリスト教信者であったヒッチコックは、聖職者といえども、その影の部分をしっかりと見ていたのです。


裁判官

裁判官の家で開かれたパーティで

裁判官「私の話は楽しくないかね?」

弁護士の人妻「とんでもない、いつも機知に富んでいて」

裁判官「良ければ、いつでもあなたの話し相手になりますよ」

裁判官「旦那(弁護士)が忙しくて寂しいでしょうから」

弁護士の人妻「なぜですか?」

裁判官「世の中にはいろいろな未亡人がいる。ゴルフ未亡人、株未亡人。さしずめ、あなたは裁判未亡人ですな」

裁判官「素敵なルビーの指輪だ。亭主の高い弁護料で買ってもらったのかね?」と言って人妻の手を握る。


検事

 人妻と密会旅行中の検事が、ある事件について「見ていない」と嘘の証言をする。

検事「法律家がいらぬ疑惑を招いてはいかんのだ」

人妻「人妻と6週間も旅行してたくせに」

検事「見たといえば、重要証人になってしまう」

検事「たとえ本当のことでも言うな」


秘密警察(諜報機関)

諜報機関の官僚(自分たちは人に指示するだけで、なにも行動しない人々)と、現場の諜報員の会話。敵の情報を探り出すために利用している民間人の女性について。

官僚「困ったもんだ。あの手の女を扱うのは厄介だ。」

現場の諜報員「どういう意味です?」

官僚「品がないというか、知性がないというか。」

現場の諜報員「確かに彼女は貴婦人とは言えません。だが、私たち諜報機関のために命がけで仕事をしてくれている。あなたの奥様のように優雅に暮らしている女性とは違うんです。」


安全装置の光と影

銀行

銀行に口座を開きに訪れた男が行員に。

「横領の邪魔をして悪いね」

「月末に帳簿の帳尻合わせなどお手のものだろう。それが銀行の実体だ。裏で何をしているかわからない。」


就職の面接で前科のある男性に対して ;

社長「帳簿付けはできるのか。」

元銀行員の求職者「はい」

社長「だから、横領したのか?」


マスコミ

新聞の海外特派員とは(映画では第二次世界大戦の直前)

新聞社社長「『政府高官の話によると、当分、戦争の危険はない』だと?」

「なにが政府高官だ。役立たずが」

「なにが海外特派員だ。占い師に聞いた方がよっぽどましだ」

「特派員の連中はみな無能だ。推測だけでものを書く」

「重要なのは事実なんだ」

「これ以上、知識人ぶった特派員が増えては困る。私が欲しいのは、頭の柔らかい記者だ、実直で行動力のある特派員だ」

「いま世界は、事実をありのままに伝える記者を求めている」

「そうだ、彼なら適任かもしれん。わが社の記者だが、給料泥棒を捕まえたやつがいたな。警察官を殴ったとかいう。今の欧州情勢を取材するにはああいう男が適任だ。あいつを海外特派員にしよう」


前任の海外特派員「私はこれでも25年もロンドンにいる特派員だよ。政府発表に署名をして送るだけさ」


「戦争はジャーナリストにとってはショーみたいなもんだ。大勢死ねばいいストーリーができあがる、というわけさ」


広告代理店

タクシー乗り場で、病気のフリをして人々よりも先にタクシーに乗る広告会社の重役マン。それを秘書に非難されると、「彼らに親切な行いをさせてやったのさ」と得意顔。更にはこう言う。

「広告の世界に嘘など存在しない。適当な誇張があるだけさ」

"In the world of advertising there is no such thing as a lie. There is only The Expedient Exaggeration."


テロリストの光と影

「サボタージュ」(1936)では、爆弾を作る男の家族が登場する。狂信的でも何でもない、可愛い子供と優しい妻のいるペット屋のご主人です。また、「逃走迷路」に登場するテロリストの親玉は、孫を溺愛する、ごくごく普通のおじいちゃん。テロリストの男たちも、自分の子供の話題を好んだり、妻のことを話したりする、ごく普通の父親であり良き亭主なのです。

ヒッチコックは、無実の人間を逮捕し死刑にする警察官や検察官・裁判官も、無実の一般市民を殺すテロリストも、愛のある人間だ、ということを映画で語るのです。


「悪人」に向けられた正義の目

ヒッチコックは「悪人」「危険」とされる人間に対しても、公平な目線を注いでいます。


 無実の罪で追われる若い男が、森の中に一人住む盲目の老人と出会う。この老人はアメリカ人の良心を代表するような人間。1977年に公開されたアメリカのSF映画『スター・ウォーズ』における、主人公ルーク・スカイウォーカーとベン・ケノービの関係を思い起こさせる。


老人「ヒッチハイクかね。この国を知るには一番いい方法だ。米国人の良心を試せる。」


老人の姪「あの男は危険な男なのよ」

老人「よく知らずに決めつけてはならない」

姪「警察に通報するのはアメリカ市民としての義務よ」

老人「無実が証明されるまで潔白を信じるのも市民の義務ではないか」

老人「法に縛られない義務というのもあるべきだ」


老人「名前は重要ではない」

老人「かまわず行くんだ。自分の信じる道を進みなさい」


この老人は、音だけで主人公が手錠をしているのを見抜いてしまった。

老人「お前(姪)には見えないのか。私には彼の無実がハッキリと見える」

老人「人の噂や話だけで、ものごとや人の価値を決めつけてはならない」


老人「秋の嵐はすぐ去るものだ。激しい雨もつかのまだよ。」


逃亡する男と女が、サーカス団一行のトレーラーに逃げ込む。

団長「密航者か。荒野のまん中に流れ者が二人。我々と同じ放浪者だ。」

団長「皆の意見を検討して決めよう。我々の国(アメリカ)は民主主義だ。(彼らを匿うかどうか)投票をする」

団員の男「投票なんかせずに、すぐに警察に通報すべきだ」

団長「お前はファシストか」

団員の女「私だって、トラブルに巻き込まれるのは嫌よ。でも、この二人を見ていて素晴らしいことに気がついたわ。この若い女性はずっと彼に寄り添っている。ただ黙って彼の側に。どんな苦境に陥っても決して離れない。こう思ったわ。人を見捨てないのは善人の証拠。この世に善人が少ないことは私たちが一番よく知っているはず。この人たちのために投票する(匿う)わ。」


逃亡する男と女の会話

「言っておくわ。あなたを信じる。」

「なぜ?」

「ここは自由の国よ。いいでしょ。誠実なサーカスの人たちに学んだの。無実を信じるのも自由なんだって」


ヒッチコックについて

男性「お父さんのご職業は」

女性「画家です」

男性「腕はいい ?」

女性「ええ。でも世間の評価は低くて」

男性「そういうものです」


女性「一本の木ばかり描いていました」

男性「同じ木を繰り返し ?」

女性「父の信条でした。完璧なものを見つけたら手放すな、と」

女性「変だと思います ?」

男性「いいえ。私もそう思いますよ」

(結局、男性はこの女性にプロポーズする) 「レベッカ」1940年


↓↓↓↓↓↓↓↓ 読み替えてみると


男性「お父さん(ヒッチコック)のご職業は」

女性「映画監督です」

男性「腕はいい ?」

女性「ええ。でもハリウッドの評価は低くて(アカデミー賞をもらえません)」

男性「そういうものです」

女性「サスペンス映画ばかり撮っていました」

男性「サスペンスを繰り返し ?」

女性「父の信条でした。完璧なものを見つけたら手放すな、と」

女性「変だと思います ?」

男性「いいえ。私もそう思いますよ」


ヒッチコックの映画とは


人の心を見せるのではなく、観客が自分で恐怖の心を体験する。実際に恐怖心を体験することで、恐怖に慣れる。これがヒッチコックの目指した映画です。


ジョンブル魂

○どんな時でも誰に対しても、自分の考えを正確に伝えることができる。

○偶像崇拝をしない

親でも先生でも、エリザベス女王でも、自分と同じただの人間さ、という気楽な気持ちで接する。

礼は大切だが、あくまで平等の意識で戦う、という気持ちで接する。

だからこそ、彼らは「愛」の重要性をよく知っている。

○人の評価ではなく、神=自分の目線

誰がなんと言おうと、俺はクリケットが好きなんだ、と言い張る心。



ヒッチコックとシャーロック・ホームズ


境界線が曖昧な東洋画のような世界。

世界は本来そういうものなのに、警察をはじめとする公務員たちは、白黒をハッキリさせたがる。いい加減な捜査で簡単に犯人を特定する。

シャーロック・ホームズの言う「灰色の頭脳」ではない。

冷静な観察と論理的・科学的な推理が、警察にはない。


ホームズとヒッチコックの時代はほぼ同時代。

警察が頼りにならない時代だった。



ヒッチコックの社会学 第二部


- 大人のためのヒッチコック映画 -


2014年3月10日

  平栗雅人


ヒッチコック知ってる? 初版 2014年 3月10日 V 1.1

           ヒッチコックの社会学14  2014年 6月30日 V 2.5

ヒッチコックの社会学 ヒッチコックが追求した社会の真実


①「疑う」か「信じる」で見る社会

「疑念や恐怖から永久に開放された世界。これこそが我々の理想です」「三十九夜」


ヒッチコックの映画では、恋人同士や夫婦間で、互いに相手を疑ったり信じたりしながら、結局は、信じきれた者たちが祝福される、というプロット(構図)が多い。

下宿人 1927 下宿人を連続殺人鬼と疑う大家。信じる娘。

ふしだらな女 1928 息子の嫁をふしだらな女と疑う母親

ゆすり 1929 刑事が殺人犯の恋人を無罪と無理やり信じる

殺人! 1930 自分の友人が殺人犯でないと信じる男

暗殺者の家 1934 親子が互いに信じ合う

三十九夜 1935 誠実さが何時か信用を勝ち取る

間諜最後の日 1936 部下を信じない諜報機関の官僚

サボタージュ 1936 自分の夫を信じられなくなった妻(は夫を刺殺する)

第3逃亡者 1937 殺人の容疑者を疑う警察と無罪を信じる警察署長の娘

バルカン超特急 1938 「妄想狂」の女性を誰も信じない中、唯一彼女を信じる男

海外特派員 1940 誠実さが信頼関係を生み、やがて愛となる

レベッカ 1940 最後まで夫を信じた妻の嫉妬への勝利

スミス夫妻 1941 妻の不信を取り戻そうと苦労する夫

断崖 1941 金目あてで結婚したのではないかと夫を疑う妻

逃走迷路 1942 人を信じることのできる人々。古き良き昔の米国

疑惑の影 1943 人と社会を信じられなくなった人間の悲劇 → 殺人鬼

救命艇 1944 絶体絶命の状況では、敵であるドイツ人を信じるしかない?

白い恐怖 1945 自分の愛する男をひたすら信じる女性

汚名 1946 エリート官僚は人を疑うだけ。愛がない。

パラダイン夫人の恋 1947 世間の笑い物になった弁護士の夫を信じる妻。

ロープ 1948 エリート信仰の青年の悲劇

山羊座のもとに 1949 人の嫉妬に攻撃されながらも信じ合う男と女

舞台恐怖症 1950 自分が信じた友人が殺人鬼だった

見知らぬ乗客 1951 息子を盲信する母親

私は告白する 1953 疑う人間(警察・民衆)と神への信念を貫く人間の対比

裏窓 1954 大都会の生活は、信じるよりも疑う心が肝要

ダイヤルMを廻せ! 1954 夫を信じきれない妻と妻を疑う夫

泥棒成金 1955 昔の友人を信じる男

ハリーの災難 1955 人の死を確定できない現代人。

知りすぎていた男 1956 母と子供の互いに信じる心

間違えられた男 1956 無実を信じる心が真実を明らかにする

めまい 1958 疑いの心が破局をもたらす。騙されても信じる方が幸せか?

北北西に進路を取れ 1959 男と女が信じたり疑ったりしながら信頼関係を構築していく

サイコ 1960 母と息子が互いに相手を信じていないという「愛」

鳥 1963 息子の恋人を信じられ(愛せ)ない母親。「サイコ」と同じ

マーニー 1964 恐ろしい幼児体験から、男を信用できない女

引き裂かれたカーテン1966 夫はスパイなのか愛国者なのか?

トパーズ 1969 こんな幼稚なスパイ(国家公務員たち)を信じられますか?

フレンジー 1972 旦那は奥さんの料理の腕を信じることができるか?

ファミリー・プロット1976 インチキ霊媒師(詐欺師)を信じると?

ヒッチコックの社会学 「信じる者は救われる」

女「言っておくわ。あなたを信じる。」

逃亡者の男「なぜ?」

女「ここは自由の国よ。いいでしょ」

「逃走迷路」( 1942)


相手を信用する・しない、という前に、自分を相手に信用させよ。

「逃走迷路」で、森の住人の家に飛び込んだ容疑者の男。誰がどう見ても男の方が怪しい。しかし、この住人は一生懸命、自分を説明することで、この闖入者に自分を信用してもらおうと働きかける。肩書や経歴で信用させるのではなく、自分の人間性を見せる。この住人は、自分が盲目であるということさえ言わない。自分の心を見せようとするのです。

そして、そういう真摯な心に接した人間は、同じく自分の心を素直に打ち明けることができる。この映画の中で、森の住人と容疑者の心の触れ合いの場面は、ほんの数分ですが、人間関係におけるきわめて大切な心の触れ合いというものを、よく見せています。



ヒッチコック映画に見る「信じる者は救われる」ベスト10


下宿人 1927 連続殺人鬼と疑われる下宿人を信じる娘

暗殺者の家 1934 親子が互いに信じ合う

三十九夜 1935 誠実さが信用を勝ち取る。田舎の農婦。宿屋の女将

第3逃亡者 1937 純粋な若い男女や子供たちと滑稽な大人たちの対比

バルカン超特急 1938 仲の悪い男女が危険の中で互いを信じるようになる

レベッカ 1940 美しさや社交的性格よりも誠実さで夫に信頼される妻

逃走迷路 1942 人を信じることのできる人々。古き良き時代の米国。トラックの運ちゃん、森の隠者、サーカスの団員、タクシーの運ちゃん。

救命艇 1944 すべてを捨て、最後に自分を信じきることができた女の強さ

白い恐怖 1945 自分の愛する男をひたすら信じる女性

パラダイン夫人の恋 1947 ボロボロになった夫を、それでも信じる妻


ヒッチコックの社会学 「愛」

「愛のために人を殺したとしたら、素敵よ」 「見知らぬ乗客」(1951)

愛があるから人は強くなれる。人を愛する力は、お金や権力以上に人の心を強くする。

しかしまた、愛は人を殺すための強い原動力にもなる、という事実も知っておくべき。


男女の愛 口論をしケンカをしながら、同じ目的(真実の追求)のために、助け合う。その過程で強い愛が生まれる。三十九夜 間諜最後の日 第3逃亡者 バルカン超特急 海外特派員 逃走迷路 救命艇 白い恐怖 汚名 知りすぎていた男 泥棒成金 北北西に進路を取れ


夫婦の愛 間諜最後の日 レベッカ 断崖 パラダイン夫人の恋 山羊座のもとに 私は告白する 間違えられた男 マーニー 引き裂かれたカーテン フレンジー


親子・家族の愛 暗殺者の家 第3逃亡者 海外特派員 逃走迷路 疑惑の影 見知らぬ乗客 知りすぎていた男 間違えられた男 ファミリー・プロット


愛が人を殺す 下宿人 レベッカ ゆすり パラダイン夫人の恋 山羊座のもとに 舞台恐怖症 見知らぬ乗客 サイコ。強い愛情が道を誤らせる。


社会装置(警察官、刑事、裁判官、諜報工作員、テロリスト、秘密警察、マスコミ、医者、弁護士 銀行)の愛(恋愛・夫婦の愛・家族愛)下宿人 ゆすり 暗殺者の家 間諜最後の日 サボタージュ 第3逃亡者 バルカン超特急 海外特派員 逃走迷路 疑惑の影 白い恐怖 汚名 パラダイン夫人の恋 舞台恐怖症 知りすぎていた男 めまい フレンジー


下宿人 1927 下宿家の娘の愛

ゆすり 1929 恋人の殺人を隠蔽しようとする刑事の愛

殺人! 1930 殺人犯の容疑者(女性)と友人の男の愛

暗殺者の家 1934 親子の強い愛情。テロリストの男女のクールな愛

三十九夜 1935 容疑者と手錠でつながれた行きずりの女との愛

間諜最後の日 1936 老人夫婦の愛

サボタージュ 1936 姉と弟の愛。刑事が、愛した人妻の殺人を隠蔽する。

第3逃亡者 1937 殺人容疑者と警察署長の娘の愛。警察署長の子供たちへの愛。警察署長の姉夫婦の愛。子供たちへの愛。

バルカン超特急 1938 クリケットをこよなく愛するジョンブル(英国紳士)。主人公たちの愛と秘密警察のカップルの愛

海外特派員 1940 主人公と組織の娘の愛。組織の首領と娘の愛

レベッカ 1940 みせかけの愛と真実の愛

断崖 1941 夫の愛するものと妻の愛するものとの違い

逃走迷路 1942 テロによって死んだ工場労働者の母親の愛。トラックの運転手の妻への愛。森の生活者の容疑者への愛。サーカスの団員の放浪者への愛。破壊工作員の首領の孫への愛。破壊工作員たちの妻や子供への愛。

疑惑の影 1943 家族への愛。戦争未亡人と銀行の金への愛

救命艇 1944 様々な愛を拠り所に危機を乗り越える

白い恐怖 1945 インテリ女の愛

汚名 1946 官僚は自分の妻を愛するが他人には冷酷

パラダイン夫人の恋 1947 裁判官は法律と不倫を愛す

ロープ 1948 権力を愛するエリートは、大衆を殺す

山羊座のもとに 1949 人を犠牲にする愛と、相手のために自分の身を犠牲にする愛

舞台恐怖症 1950 愛のない夫婦

見知らぬ乗客 1951 溺愛の恐怖

私は告白する 1953 妻への愛が人を殺す

ダイヤルMを廻せ! 1954 愛のない夫婦

泥棒成金 1955 金持ちの宝石への愛

知りすぎていた男 1956 家族の愛

間違えられた男 1956 家族への愛

めまい 1958 愛のない夫婦

北北西に進路を取れ 1959 親子の愛 男女の愛

サイコ 1960 母と子の歪んだ愛

鳥 1963 息子の恋人を信じられ(愛せ)ない母親。

マーニー 1964 母子の愛 夫婦の愛

引き裂かれたカーテン1966 夫婦愛

トパーズ 1969 祖国への愛

フレンジー 1972 刑事の夫婦愛

ファミリー・プロット1976 家族の愛

ヒッチコックの社会学 ③「かくて日本は戦争に破れた」

ヒッチコック映画を見るにつけ、日本とイギリス(アメリカ)の民度の差を感じる。


自由な言論

 新聞記者「警察はボンクラだからな」「海外特派員」(1940)

女性「国旗を手に盗みを働くのが警察の愛国心よ」「汚名」(1946)

議員「警察は都合よく事実をねじ曲げる」「私は告白する」(1953)

「今のような時代に、専門家を信用できますか ? 専門家だけが実権を握る時代は終わりました。いまこそ、アマチュアの時代です」「海外特派員」(1940)


 ある町で、市長の着任演説が終わると、すかさず聴衆から野次が飛ぶ「歌わないのか !」「市長なら、市民にそれくらいのサービスをしろ」と、市民一人一人が思っている。これがイギリス人の民主主義というものなのだろう。

警察が深夜に家の戸を叩く。

警察官「警察だ。戸を開けろ !」

家人「警察だからって、夜中に模範市民を起こすのかい?」このおばちゃんもジョンブル。


 ヒッチコックの映画では、警察官や刑事、検事や裁判官、秘密警察や諜報機関員、弁護士や医者、聖職者たちがきわめて人間的に描かれている。警官は街の暴力団と同じくらい、庶民に対して横暴だし、裁判官もセクハラしたり弁護士も被告の女性に恋したり、恐喝をしたり。

 驚くべきことは、1930~1940年代に、これら日本で言えば「お上(社会装置)」を痛烈に批判し、弁護士・医者というエリートにも容赦しない映画が英米では作られていたということ。日本では、かの悪名高き「特高」「秘密警察」「憲兵」が、小林多喜二を警察署内で惨殺し、言論の自由など全くなかった時代です。

 当時の英米社会には、恥ずかしげもなく理想を語る一方で、権力を批判したり皮肉ったりできる、こんな自由な空気があった、ということに驚かされる。


1929年に始まった大恐慌による大不景気の中で、世界中が国家の崩壊をくい止めるために、程度の差こそあれ、ファシズム国家になっていた。その時代、誰でも自由にものが言えた英国と米国が、完全なファシズム国家のドイツと日本を打ち破った。

(2023年、ヒットラーの「わが闘争」(呉Pass出版版)を読んだ今の時点では、「ヒットラーはドイツが負けたフリをしながら、新しいドイツ帝国へ民族大移動した」と考えています。)


科学技術では世界一のドイツ、優秀で勇猛な一兵卒の質では世界一の日本。それが、ヒッチコック映画に見る、ジョークばかり言って、国家への忠誠心よりクリケットや野球の試合の方が大事というくらい、たいして真剣ではないジョンブルやヤンキーに負けた。

 いくら忠誠心が強くても、ロボットのように上からの命令で突撃を繰り返すしかできない軍隊は、上も優秀なら、最低辺の兵隊までもが自分の頭で自由にものを考え、戦い方を自分で工夫する民主主義が浸透した国に勝てなかったのだ。


アメリカは物量で勝ったというが、あれだけの広大な国土を短期間で開拓し管理する力は「民度の高さ(国民の自由闊達な精神)」によるのだろう。日本の「役人主導の民主主義」では、せいぜい狭い日本くらいで、大東亜共栄圏などという広大な領土をマネージメントする能力などなかった。もし日本にアメリカ以上の国土や資源、人材がいてもやはり、局地戦には勝てても戦争には勝てなかっただろう。

私は大学時代、日本拳法という武道をやっていました。当時、こういった武道系のクラブというのはどこも封建的で、まさに大日本帝国の軍隊そのものでした。我が日本拳法部も、個人では全日本に出場するくらい強い選手が何人もいたのに、団体戦では一度も優勝できなかった。ところが、民主的な雰囲気になったある時期、全日本クラスの選手もいないし、デコボコのメンバーであったが、創部20年にして初めて優勝することができた。


 個人的な技術やリーダーの資質といった要因以上に、全員の民度(一人一人が自分の頭で勝つ工夫をして努力すること)が「幸運の女神」を引き寄せたのではなかったか、と今でも思っています。



国民を大切にするイギリス・使い捨ての日本


 1940年のダンケルクの戦いで、イギリスの首相チャーチルは、「ドイツと戦わず、武器弾薬を捨ててイギリスへ逃げて帰れ」と、全兵士に命令した。そして、当時フランスに追い詰められていたイギリス軍兵士35万人全員を救助する計画を立てた。イギリス人は、戦車や船は造れるが、人間は失いたくない、と考えたからだ。作戦名はダイナモ。イギリス中のあらゆる船舶(軍艦はじめ、客船・漁船・艀はしけまで)を動員して、一大撤退作戦を敢行した。彼らは、その後のバトルオブブリテン(英国本土防空戦)において、立派に祖国を守った。


 また、1941年のシンガポール攻略戦における日本軍との戦いでも、イギリス軍は勝ち目がないとわかると、10万人の兵士全員が降伏して日本軍の捕虜になった。そして、1945年の日本の降伏と同時に開放され、生きて祖国へ帰れたのである。


 一方、大日本帝国の場合は、「生きて虜囚の辱めを受けず」。敵の捕虜にならずに自決せよと、末端の兵士に命令していた。

もっと恐ろしいのは、太平洋戦争での戦闘における日本軍の死者は230万人にのぼるが、そのうち餓死で死んだ兵隊が140万人。なんと60%の兵隊が、日本から食糧が補給されずに、戦地で飢え死にさせられた。(藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行)

 つまり、敵であるアメリカ人にではなく、同じ日本人によって殺された、ということ。日本の兵隊さんたちには、玉砕(全員討ち死に)か餓死しかなかった。

日本という国は、どうしてまあ、同じ日本人でありながら、こうも国民をサランラップやアルミホイルの如く使い捨てにできるものか。日本には上から目線の「慈悲」はあっても、同じ仲間として人間を見る「愛」がないからなのだろうか。


大日本帝国の戦争指導者(高級公務員)は、自分たちが住む日本本土に敵が上陸するという時には、いとも簡単に白旗を掲げ(無条件降伏をし)、自分たちだけは生き延びた。

「武士や百姓・町人たちで戦わせて、貴族(公務員)は生き残る」という平安時代からの日本の伝統は、やはりこれからも続くのだろう。


愛のない国家日本

日本人人質事件(映画「ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件・・・そして」のHPから)

イラク戦争は2001年に起きたいわゆる9・11事件に対しブッシュの米国が反米イスラム勢力への報復として一方的に仕掛けたものでした。それは「大義なき戦争」といわれ国際的に反対と非難を浴び、日本の世論も反対が多数を占めていました。

しかし当時の小泉政権は開戦を支持し、米軍と同盟軍(英国など)の後方支援と現地の人道支援をするため自衛隊を派遣した。


20004年4月7日ファルージャのイラク武装勢力が、日本人3人を誘拐した。

人質解放の条件としたのが、「自衛隊の撤退」でした。

日本政府は即座にその要求を拒否しました。三人の釈放か処刑か、期限が迫る中で、政府関係者から発せられたのが「激戦地へ出かけていった三人の自己責任だ。」という声でした。

それがメディアに採り上げられ、ネットを通じてヘイトスピーチのような悪意に満ちたバッシングとなっていったのです。


後に、三人は彼らを支援するNGOやイラクの宗教指導者の尽力で釈放され帰国しました。しかし日本で彼らを待ち受けていたのは「国益を損ない世間を騒がせた自己責任をとれ」という非難の嵐でした。


鈴木邦男(一水会顧問)

日本政府は国民を守らない。イラクで人質になった3人に対し、「自己責任だ」と言って切り捨てた。国民を守らない政府など、いらない。

ところが冷酷な政府を支持するマスコミがいた。愚かな国民もいた。そして、帰国した3人に猛然と襲いかかってきた。「死んだ方がよかった」と。もはや、「殺人国家」だ。日本人の国家的な狂気、暴走、ヒステリーは何故起きたのか。


イラク日本人青年殺害事件

2004年10月27日、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループが、インターネットで日本人青年を人質にしたと犯行声明を出し、日本政府が48時間以内に、イラクからの自衛隊撤退に応じなければ殺害すると脅迫してきた。

それに対し日本政府は、テロリストとは交渉しないとして、犯行声明から約5時間後の同日午前7時に小泉純一郎首相が要求を拒否した。その後、青年はグループにナイフによって首を切断され殺害された。遺体は2004年10月31日未明にバグダード市内で発見された。

何の交渉もしないのが、日本のエリートなのです。


神の目線(愛の精神)

 「彼等の前途を祝福しよう」1937年『バルカン超特急』

敵を取り逃がしたドイツ人の首領が、逃げきった英国人たちを讃えてこう言う。

憎き敵。自分を攻撃し、自分に嘘をつき、自分に不利になるようなことをした敵にさえ、「Good Lack」と言える器量。これは、ユダヤ教やキリスト教・イスラム教といった「神の目線(大きな視点)で物事を見る宗教」に共通する感性。

 日本人には神道という優れた宗教がありながら、「神頼み(下から神に懇願する)」レベルでしかこれを運用していない。自分の心を神の目線(客観的な視点)に置くことができない。(日本の武士、宮本武蔵はこれを「五輪書」で指摘した。)



ヒッチコックの社会学 ⑤ 真実とは何か ヒッチコックと黒澤明 (平栗雅人著「黒澤明 知ってる ?」より)


ヒッチコック映画「ハリーの災難」1956年


この映画はヒッチコック版「羅生門」である。

黒澤明の映画「羅生門」(1950年)では、ひとつの殺人事件を巡り、それを目撃した人間たちの嘘をとおし、「真実とは何か」という人類永遠のテーマを観客に投げかけた。ヒッチコックは、映画「ハリーの災難」で英国人流に、このテーマを料理した。


美しい田園風景の中に転がる一人の男の死体。彼の名はハリー。この死体をめぐり、

四人の男女が繰り広げる「ドタバタ喜劇」という映画である。

「ハリーの災難」とは「羅生門」のパロディなのか、はたまた、東洋の巨人・黒澤明(の提議したテーマ)に対する、西洋の巨匠ヒッチコックの(真面目な)挑戦なのか。


事実として死体はある。

だが、この死体という事実をめぐり、いま生きている人間が様々な悲喜劇を引き起こ

すというだけのこと。「真実の追求」など、どうでもいいことなのだ。

英国人はみな自分のことで忙しい。人の死など、回りの人間からすれば、何かに利用

する道具でしかない。乞食は死体が履いている靴を失敬し、医者は商売に利用し、坊主

は死体をお布施に変える。死体の前妻であった女性でさえ、次の男と再婚する法律上の

手続きのために、前夫が間違いなく死んでいるという事実だけが重要であって、それが

わかればもう、その「物」に興味はない。

事実(死体)とは、そこに居合わせた者たちによってその場で合意されれば、土に埋め

てしまう(真実として確定する)だけのこと。その死にどういう事情があったのか、あと

で議論することなど英国人にとっては時間の無駄。昨日の死体より今日のクリケットの

試合の方がよほど重要なのだ。

そして、埋めてしまえば、死体は死体でさえなくなる。「死んじまったものはしょう

がない」。「真実」とはそんなものですよ、と。これが英国流サムライであるジョンブルの考え方なのである。


四人が何度も死体を埋めたり掘り返したりする。それが死人である「ハリー」にとっ

て災難というわけだが、ここにも「真実というものの困った性格」を、ヒッチコックは

暗示している。

つまり、「真実の追求」のために死体(過去)をいじくり回す愚かさを、見せているの

である。


この映画の宣伝のために、わざわざヒッチコックは来日(1955年(昭和30年)12月12日)している。

「羅生門」を作った国に対する彼の思い入れがわかるではないか。



ヒッチコックの社会学 ⑥ 「役割の喪失」で見た社会


本来、弱者を助けるはずのエリート・指導者が、弱者を殺す恐怖。

本来、市民を助けるはずの社会装置(警察・検察・裁判所)が、市民を殺す恐怖。

本来、国家は人類のために奉仕すべきなのに、(他国へ行き)人を殺す恐怖。


① エリートの犯罪

救命艇 1944 エリート民族の殺人

白い恐怖 1945 エリート医者の殺人

ロープ 1948 ハーバードの殺人

見知らぬ乗客 1951 金持ちのお坊ちゃんの殺人

私は告白する 1953 エリート弁護士の恐喝

ダイヤルMを廻せ! 1954 オックスフォードの殺人

泥棒成金 1955 保険会社と泥棒

疑惑の影 1943 銀行の犯罪

めまい 1958 金持ちの殺人


② 社会装置の暴走

下宿人 1927 警察の暴走(いい加減な捜査で逮捕)

ゆすり 1929 警察の暴走(警察官の犯罪)

サボタージュ 1936 警察の暴走(刑事の犯罪)

第3逃亡者 1937 警察・弁護士の暴走(いい加減な捜査で逮捕・裁判)

スミス夫妻 1941 公務員の職務怠慢

汚名 1946 諜報員(公務員)が民間人を犠牲にする

パラダイン夫人の恋 1947 弁護士の暴走

私は告白する 1953 警察・検察・裁判官の暴走(いい加減な捜査で逮捕・裁判)

間違えられた男 1956 警察・検察・裁判官の暴走(いい加減な捜査で逮捕・裁判)

鳥 1963 公務員(パブリック・サーバント)が主人(市民)を襲う


③ 全体主義社会(権力の一極集中)の恐怖

サボタージュ 1936 ドイツ? 諜報機関(公務員)

間諜最後の日 1936 イギリスとドイツ諜報機関(公務員)の殺人

三十九夜 1935 ドイツ? 諜報機関(公務員)

バルカン超特急 1938 ドイツ? 諜報機関(公務員)

海外特派員 1940 ドイツ 諜報機関(公務員)

逃走迷路 1942 ドイツ? 諜報機関(公務員)

知りすぎていた男1956 ? 諜報機関(公務員)

北北西に進路を取れ1959 ? 諜報機関(公務員)

引き裂かれたカーテン1966東ドイツ 諜報機関(公務員)

トパーズ 1969 ソ連 諜報機関(公務員)



ヒッチコックの社会学 ⑦「立場の逆転」で見た社会


殺人犯人と見なされた人間が、正義の人であり、ふだん善人に振る舞っていた人間がじつは社会にとっての悪であった。


主人と家来・警察と泥棒、という立場が入れ代わる


救命艇 1944 捕虜がリーダーになる

私は告白する 1953 告白を聞く側の神父が裁判で告白する

ゆすり 1929 警察官が犯罪者(殺人の隠蔽)だった

サボタージュ 1936 警察官が犯罪者(殺人の隠蔽)だった

第3逃亡者 1937 真犯人は容疑者が捕まえる

海外特派員 1940 真犯人は容疑者が捕まえる

逃走迷路 1942 真犯人は容疑者が捕まえる

スミス夫妻 1941 民間人を助けるはずの公務員がトラブルを引き起こす

汚名 1946 民間人のための公務員が民間人を利用する

パラダイン夫人の恋 1947 弁護士が妻に(私的に)弁護してもらう

レベッカ 1940 召使が主人をコントロールする

山羊座のもとに 1949 召使が主人をコントロールしようとする

鳥 1963 公務員(パブリック・サーバント)が市民(主人)を襲う

間違えられた男 1956 民間人を守るはずの警察が民間人の心を破滅させる。

知りすぎていた男 1956 医者が患者に(金銭的に)助けてもらっている


安全装置の暴走

真理は裏表 → 立場の逆転が起きる

安全なものがかえって危険。

愛が世界を破滅させる


ヒッチコックの社会学 愛が世界を救い・愛が世界を破滅させる

ヒッチコックの社会学 ジョンブルの世界


ジョンブル 質実剛健・神への信心・ユーモア

他人のトラブルにかかわらない。自分と家族のことが第一であり、変な国家崇拝的な感情がないから、「右翼や左翼」という概念がない。「政治は政治家がやればいい。俺たちはクリケットの試合の方が大事だ。それが民主主義だ」。

自分の生活に直接関係しないことには決して首を突っこまない。他国同士のトラブルなど無関心。これは男も女も同じ。皮肉屋・ユーモア家。

シェークスピアの「ハムレット」を超えたハムレット。それが英国の「ジョンブル」たちです。

彼らは青年の持つ純粋な魂 - それは非常に繊細で壊れやすい、ガラス細工のような感性なのですが - を、キリスト教精神によって強化し、社会と戦うことを学んだ男のこと。

日本で言えば、黒澤明の映画「姿三四郎」の柔道家・矢野正五郎のような人間のこと。彼の弟子である純真な青年・姿三四郎はハムレットそのものだが、彼の師匠である矢野は「ハムレット的なるもの」を乗り越えた、真の大人であった。

日本の戦国時代の武士・細川幽斎など、豪気でありながら飄々とした味わいのあるジョンブルでしょう。


ジョンブルの条件

子供のように熱中するものを何か持っている(純真な心)

徹底的に執着する・こだわる・信じる(ガッツ)

家族や仲間には協調心が強い(愛がある)


ヒッチコック映画のジョンブル(イギリス人)たち

イギリス人が自分たちのことを、「三流国だからね」と、飄々とした顔で言う。


イギリス人A「彼女たちは ?」

イギリス人B「アメリカ人だろう。金使いが荒いからね」


「新聞はいつも大げさだ。危険なら以前にもあった」


イギリス人が、国際電話でイギリスの交換手と話す。「クリケットの試合のことが知りたい。何、知らんだと? それでも英国人か」


イギリス人(女)「この国の人々は音楽と笑いを愛してるの」

イギリス人(男)「政治に反映されていない」

イギリス人(女)「政治で国を評価できないわ。英国人はとても正直ね」

Herald Tribuneを読みながら、「野球の記事ばかりだ。ガキの遊びだ。クリケットの記事がないぞ。米国人は分かっていない」


食堂車で紅茶を注文するときに、自分が持っているお気に入りのお茶をウエイターに渡して、それを使わせる。

「お湯は必ず沸騰させてね」「両親がこれを飲んでて、いまも健在なの。良い事は真似なきゃ」「子供は産んだ方がいいわ。私も子供たちと一緒にいたから、若く見えるでしょ」


クリケットの試合について二人のイギリス人がお茶を飲みながら話している。

「あれはアウトだった。審判の誤審だよ」といって、説明するために角砂糖をケースから全部出してテーブルに並べ始める。


「さわらぬ神に祟りなし」

「英国人ならそうする」


イギリス人「クリケットの話に夢中で気がつかなかった」

アメリカ人「殺人事件かもしれないのよ。そんなくだらない事で」

イギリス人「聞き捨てならんセリフだ。くだらんだと(怒怒)」


銀行「ご商売の経験は?」

イギリス人「ないんだ。アイルランド貴族の末っ子で財産もない。近視で馬は嫌いだ。狩りもできない。気の毒だろ ?(笑)」


「金集めは蚤(のみ)取りより難しい」


雇用主「(応募者である)若い紳士の誓いなど信用できん」


「MINYAGO YUGILLA(嘆くこと勿れ) 」


「育ちの良さが重荷になることもある」


イギリス人女性「気にしないでね。英国人は悪趣味なの」


男性「スミスというのは偽名だろう」

女スパイ「場所によって使い分けるの。今はアナベラと呼んで」

男性「牧師の娘ようなな名前だな」


女スパイ「二人の男に命を狙われてるの」

男性「男選びは慎重にしたほうがいい」


男性「犯人に拳銃で撃たれたが、胸のポケットに入れていた賛美歌集が弾を止めた」

警察官「驚かんよ。オレも賛美歌を歌うときはいつもそうだ。途中でつっかえる」


手錠でつながれた男と女

女性「私と一緒じゃ逃げられないわよ」

男性「それは君の旦那に言うセリフだ」


イギリス人の情報部員のおばさんは、自分の所為でたくさんの人が殺されそうだというのに、自分だけサッサと汽車を折りで逃げてしまう。

これが秘密情報員としての任務なのか、英国人らしい冷酷さなのか。


過去の(悪い)思い出に悩まされる人が:

「誰も過去に生きたいとは思いません。私たちを過去から救い出してください。」


「(オーストラリアでは)成功者の過去に触れないのが暗黙の了解です。過去に触れぬこと。悪しき記憶は追憶の彼方へ」


「私は幸福が何かわからない」

「世間に勝つこと」


「明日は明日が解決する」


イギリス人「財産も築かず帰るのは私くらいだな。私はダブリンの異端児だな」「オーストラリアは広大な国だ。未来は明るいだろう。しかし、私はもっと大きな世界を求めている。」


「女性教師の給料を上げれば国の経済が破綻する。」

「女性教師の景気は上がります。」


爆弾を持った男を映画館の奥の部屋に追い詰めると、男が「爆発させるぞ」と叫ぶ。

追い詰めた刑事二人の内の一人(刑事A)がもう一人に言う「ここはオレにまかせて客を非難させろ」

刑事B「お前には女房がいるだろう。死んだらどうする」

刑事A「だから残るんだよ(笑)」



ヒッチコックの社会学 ⑨ 人間の傲慢さと社会


いったい、ヒッチコックのどの映画に、どんな風にして、聖書の教えである「傲慢」や、「威張り散らす心」「偉そうにする心」が、様々な人間の姿に形を変えて描かれているでしょうか。

そして、そんな彼らの傲慢さという心は、あなたの日常生活の中にもきっといることでしょう。いや、むしろあなたの心の中にある傲慢な心が、姿形を変えてヒッチコックの映画に登場しているのかもしれません。つまり、あなたの心の中にある傲慢さが、ある日、ヒッチコックの映画の中で起きた事件と同じようなことを引き起こすかもしれないのです。

これこそ、ほんとうのサスペンスではないでしょうか。


傲慢な心が最も端的に現れるのが、社会装置です。

競争がないから、傲慢さをストップするものがない。歯止めがない。際限なく傲慢さは拡大していく。この恐怖。


下宿人 1927

ゆすり 1929

殺人! 1930

三十九夜 1935

間諜最後の日 1936

第3逃亡者 1937

バルカン超特急 1938

海外特派員 1940

逃走迷路 1942

白い恐怖 1945

見知らぬ乗客 1951

私は告白する 1953

ダイヤルMを廻せ! 1954

泥棒成金 1955

北北西に進路を取れ1959

フレンジー 1972

間違えられた男 1956

暗殺者の家 1934

サボタージュ 1936

レベッカ 1940

疑惑の影 1943

救命艇 1944

汚名 1946

パラダイン夫人の恋 1947

ロープ 1948

舞台恐怖症 1950

裏窓 1954

知りすぎていた男 1956

めまい 1958

サイコ 1960

鳥 1963

マーニー 1964

引き裂かれたカーテン1966

トパーズ 1969

ふしだらな女 1928

断崖 1941

スミス夫妻 1941

山羊座のもとに 1949

ハリーの災難 1955

ファミリー・プロット 1976


公務員が優秀であればあるほど、国民が被害を受ける。

という逆説。



ヒッチコックの見た真実


男A「たとえ本当のことでも、言いふらす必要はないだろう」

男B「俺の勝手だ」 「第3逃亡者」(1937年)


2000年前から存在する真実

 紀元前7~5世紀、インドの釈迦は「天上天下唯我独尊」「現世利益」「嘘も方便」といい、とにかく自分のことを一番に考えよ。人間生きている内が花なのだから、権力者に従順で、本当のことを口にせず、うまく人に調子を合わせて長生きせよ、といって80歳まで生きた。臨終のときには、回りに集まった多くの弟子たちに「自分の息子のことを宜しく頼む」と、涙ながらに訴えたという。

一方、2000年前、イエス・キリストは真実に固執したために、権力者たちから嫌われ、民衆にも見捨てられ、35歳の若さで殺された。

この男が主張した真実とは、現世は来世のための準備期間であるという、およそ釈迦の考え方とは異なる人生観・死生観であった。人間の欲や見栄にまみれた、その場限りのはかない真実ではなく、神の目線で見た永遠の真実を信じよ。人に媚びずに、真実に忠実であれ、と


つまり、釈迦とは男Aであり、イエス・キリストとは男Bである。

あくまでも真実をいわなくては気が済まない人間と、真実には目を瞑って生きた方が楽しい人生が送れると考える者と、世の中には二種類の立場があるというのも真実。

ヒッチコックは、釈迦とイエス両方の立場で映画を作った、ともいえるだろう。スリルとサスペンスという虚構の物語の中に、真実を盛り込んだのだから。



ヒッチコックの見た真実


「時として真実は、口いっぱいにつめられた虫のような味がするものです」

"Sometimes the truth does taste like a mouthful of worms, sir." 「北北西に進路を取れ」 (1959年)


では、ヒッチコックが現代に見た真実とは何だったのか。


① 社会装置の恐怖

社会装置とは公務員全般のこと。社会を維持するには欠くことのできないシステムであり、法律を実行するための厳格な機構によって機械的に問題を処理する。

ヒッチコックの映画では、これら市民を守るはずの社会装置の代表である警察や検察・裁判所が、ある日突然「法律という暴力を振るう暴力団」となって、市民に襲いかかる恐怖を描いている。「下宿人」「ゆすり」「第3逃亡者」「三十九夜」「間違えられた男」「私は告白する」

民間人を守るための国家の情報機関が、逆に民間人を犠牲にする。「間諜最後の日」「バルカン超特急」「逃走迷路」「汚名」

1963年に公開された「鳥」は、Public Servant(公僕)であるはずの公務員(鳥)が、ある日突然、餌を与えれくれる主人である市民に組織的に(集団で)襲いかかる恐怖を描いた映画であった。


市民の安心を保証するはずの社会装置が、マスコミと一緒になり、逆に市民の恐怖心をあおる。日本では、毎日のように「痴漢冤罪事件」が発生している。社会装置によって、町中に「盗撮の危険」「テロの危険」「○○の危険」というポスターが張りめぐらされ、無意識の緊張を強いられている。警察・市役所といった社会装置だけが「安全・安心」である、というわけなのであろうが、実はこの「安心・安全」の象徴である社会装置こそが、最も恐ろしい。それをヒッチコックの映画では言っているわけです。


② 安全・安心を売り物にしている、医者や弁護士、銀行や証券会社といった、命やお金を託す人や組織が、実は全く安全・安心ではない。むしろ、絶対の信頼感を抱いている分、恐怖は大きい。

健康のために良いと思って飲んでいた薬が、かえって身体に悪かったり、心を落ち着かせるために熱心にやっていた宗教が、実は心の健康をむしばんでいたり。患者の命を助けるはずの医者が理不尽な治療費を取っていたり、自分の味方であると思って信頼していた弁護士が警察とつるんでいたり、金だけとって全く役に立たなかったり。それら「安全を売り物にした装置・システム」の危険性をヒッチコックは描いている。「第3逃亡者」「間違えられた男」「山羊座のもとに」「舞台恐怖症」「知りすぎていた男」



③ 人間の愛情が人間を殺す恐怖


警官やテロリストに追われる主人公たちは、愛の力によって真実を究明し、自らの運命を助けるが、彼らを追う側の警察官やテロリストも、自分の恋人や妻や子供に対する愛情で動いている。自分の愛する者のために「昇進」しようとする。大勢の愚かで邪魔な人間を殺そうとする。愛は人を救うが、逆に愛はまた人を殺す、という恐怖。

「下宿人」「ゆすり」「バルカン超特急」「第3逃亡者」「三十九夜」「逃走迷路」「間違えられた男」「海外特派員」「白い恐怖」「サイコ」


警察官に代表される社会装置にしても、銀行に代表される安全装置にしても、警官や銀行員には愛する恋人や家族がいる。彼らは人を不幸にすることを望んでいるのではなく、自分の愛する者を幸せにするために一生懸命働く。そういう彼らの職務に対する忠実さが、結果として冤罪を生み、医者が法外な治療費を患者から取り、銀行や保険会社が他人のお金をかすめ取る、という結果になる。

ヒッチコックの映画では、彼ら社会装置や安全装置の恋人や妻や子供の話、昇進の話が必ずと言っていいほど出てくる。



国家は自滅する


テロで国家は滅びない。社会装置の暴走によって国家は自滅する。テロの目的とはそれです。その國に恐怖・脅威を与えて、国民が恐怖に振り回されて自滅するのを待てばよい。だから、ヒッチコックは「恐怖を映画にしろ」と言った。自分たちの心の中にある恐怖心を客観的に見ることによって、自滅することを防ぐのだ、と。



社会装置は誤動作する


それは社会装置も純粋な機械ではなく、人間の心を持っているから。恋人や家族への愛があるから、そのために敢えて間違いであると知りながら、無実のものを犯人にし、昇進しようとする。

純粋に機械的に事件を処理するなら、恣意的な逮捕や監禁・拘束・起訴などしない。

人間としての感情がありながら、システムとしては法律という絶対の力に保護された権限を持つ社会装置であるから、誤認逮捕や冤罪事件という間違いが後を絶たない。

①と②に共通するのは、一般市民の怨恨や金目あての殺人などよりも恐ろしい、エリート意識の恐怖。自分たちが優れているという意識で人々を見下す人間の性が最も恐ろしい。

警察官が市民を守るという立場を忘れ、自分たちが市民の自由を奪う権限がある(警官が市民の主人である)と思い込む。謙虚さを失った人間の怖さ。人間の傲慢さ。

「殺人」という犯罪の源は、人間の傲慢さ(エリート意識・特権意識)にある。金目当て、怨恨、嫉妬が直接の動機であっても、それを殺人にまでさせるのは、殺す側に謙虚さが欠けているからだ。自分が神と対等であると(一時的であっても)錯覚することで、人を虐げる・殺すことを正当化する。この傲慢な心を聖書では「原罪」と呼んでいる。

ヒッチコックは、人類二番目の罪である殺人を映画の中で描きながら、その裏で、嫉妬以上に恐ろしい、「傲慢」による殺人の恐怖を見せているのです。



傲慢の罪


人間の罪として最も重い罪である「傲慢さ」。

これを犯しているのが「社会装置」なのです。


警察も秘密警察も諜報機関も、そして、役所の人間も、同じ「組織」として行動する機械でしかない。人間の持つ、心の自由や豊かな感情などない、機械仕掛けの人形。それはまるで、アメリカ映画「マトリックス」に登場するエージェントのようだ。



光と影の両面で見よ


「森の住人」に学ぶ

相手が嘘を言っていようが関係ない。

自分の真摯な心でその場だけでも相手を紳士にしてしまえば良い。

人を永遠に「善人」になどできない。せめて自分が接している間は、自分と同じように善き人になっていれば、それでいいではないか。

親や教師や坊主が偉そうなことを言っても誰も感化されない。人は自分の見た人間を真似するものだ。親が正しいことをやっていれば子も真似る。子供の感性は非常に敏感で鋭利だ。年長者が偉そうなことを言っていても、すぐにその人間性を感じ取ることができる。それを言葉で表現できないだけだ。現代の親や教師や坊主がいくら立派なことを口にしても、子供は真似しようとしない。むしろ、悪いことをする。彼ら偉そうに言う人間の嘘を見抜き、その本性を真似しているからだ。



他人を責めることで自分が救われようとする。


他人を罪人にすることで自分が正しい人間であると自覚することができる。それは不幸な環境にいる人間の習性だ。

たとえば、アメリカの南部に行くと、白人は黒人を軽蔑し、行き場のない黒人はメキシコ人やアジア人を軽蔑することでフラストレーションを解消しようとする。

ヨーロッパで問題になっている「移民政策」とは、現実の所得の格差といった経済的な理由ではなく、最低辺の国民がさらに自分たちよりも言葉も不自由で貧しい人間を軽蔑し迫害する。それによって、一時的に経済は持ち直し、最低辺の国民の不満が解消されて、社会の雰囲気がよくなったかに見える。ところが、それは大きな時限爆弾を抱えたようなものだ。

自分よりも劣る人間を求めるようになる。

スポーツで、万年最下位のチームが、上に勝つことを諦めて、自分たちよりもレベルの低いチームを求めて試合をするのと全く同じだ。とにかく、今勝てる相手が欲しい。この麻薬にいったん染まると、向上心はなくなる。人のあら探しばかりする社会になるのである。


世の中の不幸は「愛」にある。

自分の愛する者を幸せにするためには、人を不幸にすることも厭わない。



恐怖からの開放


(女盗賊プーラン下巻より)プーラン・デヴィは言います。

「ある意味ではみな怯えながら生きていた。」

「同じカーストの貧しい人たちがみなそうであるように、わからないことにぶつかると、ただ驚き、怯えるだけだった。怖いことからひたすら逃げて身を守ろうとする。無知というのは飢餓と同じくらい残酷なことだと、わたしはこのとき思い知ったのだ」と。

飢餓の恐怖、暴力の恐怖、殺人の恐怖、社会装置の恐怖、テロの恐怖、愛の恐怖、

ヒッチコックと聖徳太子


聖徳太子(574年~○○年)の提唱した憲法十七条とは、官僚・役人に対する戒め・教えであった。(ネットに出ていた、どなたかの現代語訳から使用させて戴きました。)

曰く、

○ 朝は早く出勤し、夜は遅くまで仕事をせよ。

○ 役人が正しくないから世が乱れる。

○ 近頃の裁判は役人が金持ちから賄賂をとり、貧乏人の訴えを疎かにしている。

○ 役人は君に忠誠を尽くし、民に仁政をおこなえ。

○ 役人は大衆に信頼されるようになれ。

○ 公の仕事のために人を雇うのであって、人の為に役職を作ってはならない。「天下り禁止」

○ 役人は人の心をもっと大切にせよ。

○ この頃の役人は大した仕事をしていないのに賞を受け、悪いことをしても罰を受けない。役人の論功行賞は厳正忠実におこなえ。

○ 役人は誰かが休んでも仕事に滞りがないよう、全員が仕事をできるようにしておけ。

○ 役人組織で嫉妬は厳禁。優秀な人材が育たなくなる。

○ 役人は私を捨てよ。役人に私があるから和が保たれない。

○ 役人は民の余った時間と富を利用せよ。民が忙しい時にこき使うな。

○ 国家にとっての大事は、かならず一般大衆と相談して決めよ。



ヒッチコックの見た真実 必要悪ということ


警察官や裁判官のみならず、公務員すべてが国民にとっての必要悪。

生産性のある仕事をしないで、民間人の稼いだ金を使うだけ。

なくてはならないもの、ではなく、本来ない方が良い、ものなのである。

撃壤歌


  日出而作      日が出りゃ、働き

  日入而息      沈めば休む

  鑿井而飮      飲みたきゃ、井戸堀り

  耕田而食      食べたきゃ、耕す

  帝力于我何有哉 天子様など用はない

あとがき


2500年も昔の中国には、こんな故事がある。

孔子が墓の前で泣いている母親を見かけて、その理由を尋ねると、その母親は、父、夫、息子を虎に食い殺されたと言う。

そこで、孔子は尋ねた。「なぜ、そんなあぶない土地から逃げないのか」と。

すると母親は「ここでは、悪い政治(重税や厳しい刑罰)がないからです。」と答えた。

孔子は弟子達に向かって言った。「よく覚えておきなさい。重税と痛みを国民に押しつける政府は虎より恐ろしい。」と。(礼記)

虎に食い殺されるよりももっと恐ろしいもの。それは様々な社会システムの暴走であり、この恐怖はすでに世界的規模で始まっているのです。


ヒッチコックの理想「疑念や恐怖から永久に開放された世界。これこそが我々の理想です」「三十九夜」彼自身は人を疑うことのない、平和的な人間であった。


結局、ヒッチコックの映画とは、人間の傲慢さという心を、彼独自のサスペンスという手法によって強烈に印象づけることにあった、と言えるだろう。


ヒッチコックの映画には、確かに彼が言うように、テーマはない。しかし、思想はある。

奢れる人間、恐れる人間。殺人を犯すとは、心におごりがあるからだ。謙虚な人間は人を貶めたり、辱めたり、悪口を言ったり、そして、人を殺したりしない。人の心も殺さないし、肉体も殺すことなどない。

心におごりがあるから、傲慢さがあるから、人の悪口を言ったり、人を辱めたり、貶めたりできる。最終的にはその人間の存在まで抹消してしまうという「大胆な」行動をとる。


人間の原罪とも言うべきおごり・傲慢さ。ヒッチコックの映画には、この人類最初の罪が反映されている。だから、殺人を犯す側の罪(傲慢さ)とその犯罪を取り締まる側の傲慢さという、両方の立場における人間の心を、ヒッチコックは常に映画の中で取り上げてきた。


映画人とは真実を語らねばならない。映画という虚構・作り物は、真実を長く後世に伝えるための道具である。

真実を真実として伝えるには虚構が必要だ。真実を真実らしく見せる工夫・努力がなければ、真実は真実として伝わらない。古今東西、ミケランジェロにしてもドストエフスキーにしても芥川龍之介にしても、およそ、芸術家というものは、真実を見た者に他ならない。そして、真実を語るために虚構を使った。彼ら芸術家としての評価とは、いかにそれを真実として伝えることができたかにある。真実を伝えるための虚構の出来ばえ・巧拙にかかっているのである。


真実にこだわったからこそ、イエス・キリストは天国へ行くことができた。真実の裏表を見る勇気があったからこそ、天国の扉は彼のために開いたのだ。


ヒッチコックは、社会装置の代表として映画のなかで警察を取り上げることが多かったが、彼が言いたかったのは、聖書の第一番目に書かれた人間の罪である「人間の傲慢さ」についてであった。

「傲慢さ」を知るには、私たち一般市民にとって、警察官が最も身近であるからだ。


つまり、警察官であろうと、一般の市民であろうと、傲慢な心が強くなれば、どんな人間でも堕落する。「傲慢な心」を持つ人間が増えれば、社会は住みにくくなる。


ただ、社会装置には社会にとって必要不可欠であるというお墨付き・権威が与えられているために、傲慢さが増大し、拡大する危険性が高いというにすぎない。


民間の会社でも、傲慢な人間が増えれば組織は硬直化し、正しい意見が通らない封建的な組織となる。ただ、民間会社の場合には、自然淘汰によってそういう会社は消えていく。ところが、社会装置である公務員の場合には、悪い部分を吸収して、さらに肥大化するシステムになっているために、傲慢な人間や組織が淘汰されることがない。自然の装置ではなく社会という人工的な環境によってが作り出された装置の、これが怖いところなのです。


ヒッチコックの「鳥」は、米映画「マトリックス」(1999年)の原点である。

「鳥」では、主人である人間が餌を与え可愛がっていた鳥たちが、突如として狂いだし、人間を襲う。

「マトリックス」では、人間の良き僕(しもべ:召使い)であったコンピューターが狂いだし、主人であるはずの人間を支配する世界が描かれているが、実際には、本書で述べた社会装置(公務員)のことを指摘している。

本来、アメリカ市民が安全・快適に生活するための警察やCIAの職員(エージェント)が、市民を監視し、「スパイ」「テロリスト」という名目によって簡単に逮捕し拷問にかけ、「合法的に」死刑にする。日本の場合には、痴漢や盗撮という、犯罪ではなく「言葉」によって、市民の名誉や尊厳を殺す。


そういう社会装置の暴走が20世紀に「鳥」という映画となり、21世紀には「コンピューターの反乱」という寓話となった。


ヒッチコックの初期の映画では、警察官の個人的な性格や私生活の事情から、時に市民を無用の事件に巻き込み、迷惑をかけることがある、というトーン(調子)であった。

しかし、次第に警察官個人ではなく、組織ぐるみで市民を犯罪者に仕立てるという、社会の仕組みの恐怖に焦点が当てられるようになる。

そして、ヒッチコック晩年の3作品では国内から国外へと、社会装置の暴走が拡大する。

ある地方の市民ではなく、国民全員の知らないところで、諜報機関という国家の社会装置が暴走し、国家を戦争の危険にさらす。警察・裁判所は市民の安全を脅かす暴走だが、諜報機関の暴走は国家を戦争へ引きずり込む。


ヒッチコックが、彼のすべての映画で描いたのは「社会装置の犯罪」であり、かれらが人間としての謙虚な心を失い、神の権威を騙った傲慢さで人々に(精神的な)苦痛を与える恐怖を訴えた。


結局、ヒッチコックの言いたかったことはs、「愛が人を殺し、愛が人を助ける」

愛の二面性という怖さです。警察官の恋人や家族に対する愛が、冤罪を生みだす。昇進して給料が上がれば、妻や子供に良い生活をさせることができる。その強い愛情が、無実の人間を死刑台に送るという犯罪を生み出す。

一人の人間の強い愛が、別の人間を殺すことで完成する。

1984年の「Once Upon a Time in America」や1999年の「Matrix」という映画は、市民のために作られた道具であるはずの「役人・政治家・警察」という社会装置が、逆に市民を脅し、社会を支配しているという現実を教えてくれている。

1920年代には、ギャングと同じくらい市民から批判を受け、ある程度人間的であった彼ら社会装置が、20世紀後半に発表された「Matrix」では、装置自身が自己増殖し、完全に人間の批判やコントロールから逸脱(暴走)するという、近未来における人間社会の姿が描かれている。

ギャングやテロリストではなく、市民を守るはずの社会装置が人間を襲う。

1929年製作の「ゆすり」では、厳格な警察官といえども、自分の恋人の殺人を隠蔽するという、ある意味で人間らしい心を持っていた。

だが、やがてこの社会装置は、より大きなシステムの中に完全に組み込まれ、コンピューター化し、人間の心など持たない冷たい機械的な装置として、いまや暴走し始めている。

将棋やチェスの世界で、もはや人間はコンピューターに勝つことができなくなっている。

一方で、人間はコンピューターの方が確実で早くて便利であるという理由で、将棋やチェスだけでなく、人間生活全般にわたるノウハウが、世界中でこの装置にインプットされ、それぞれの装置は世界的規模でネットワーク化されつつある。

だが、やがてこの最も信頼できる人間の僕は、ある日突然、狂い出すかもしれない。今まで餌を与えられて太らされ、人間の食用にされてきた鳥たちが、今度は逆に人間を襲って啄(ついば)むという映画のように。

それは、「狂う」のではなく、ものごとの流れとして「必然的」といえるのだろうか。

「鳥」(1963年)は、ヒッチコック映画にしては珍しく、ハッピーエンドではない。「終わり」のない終わり方であり、それ自体がサスペンスとも言えるほど、恐ろしい終わり方なのである。まるで「『鳥の恐怖』は続くだろう」と、ヒッチコックは私たちに語りかけているかのようだ。

ヒッチコック映画とは「たかが映画」ではなく、「とんでもない映画」だったのです。


私たちが気がつかない世の中のおかしな仕組みや社会の闇を、子供のように純真な感性で感じ取り、それを大人たちが楽しめるようなドラマにし、スリリングな映像で見せてくれたヒッチコック。かれこそ、熟練した船乗りのような智恵とガッツを持つ、永遠の若者でした。


「私は若者を支持する。私は22歳で最初の脚本を書き上げ、25歳で初めて映画を監督した。だから私は若さを賞賛する。周りは私を70歳だというが、そんなものはとんでもない嘘だ。私は35歳の2倍なんだ。ただそれだけ、35歳の2倍」

I am pro-young. I wrote my first script at the age of 22 and directed my first film at 25. So I’m for the young. And when people today say I’m 70, I say that’s a confounded lie. I’m twice 35, that’s all. Twice 35.

Sir Alfred Joseph Hitchcock


2014年 3月 10日

V.1.1

平栗雅人


 *** 「真の芸術家には2つの役割(double functions)があると思いませんか ? 人生を芸術に生かし、芸術をもって人の世(社会)を批判する(正しく見る)。しかし、私たちは両方の役割を果たしているだろうか。芝居にばかり没頭して現実をなおざりにしていないだろうか。」ヒッチコック映画「殺人」(1930年)  ***



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ヒッチコック知ってる ? V.1.1 @MasatoHiraguri

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