大人になった瞬間は

真野魚尾

大人になった瞬間は

 マグカップに注いだ二人分のコーヒーを持って、俺はリビングへ戻って来る。


「先輩」


 ノートパソコンのキーボードを叩きながら、あいつは尋ねてきた。


「大人になったと思った瞬間って、いつですか?」

「え、俺?」


 思わず聞き返してしまったが、ルームシェアをしている俺たち以外、誰がいるわけでもない。


 俺が隣に腰を下ろすと、あいつは砂糖だけ入った熱いコーヒーを口にして。


「来月募集するテーマなんですけど、いくつか例文が欲しくて」


 何かと思えば仕事の話か。駆け出しの放送作家は大変だ。俺は単なる会社員にすぎないが、同じゼミで学んだよしみで助けてやろう。


「そうだな……俺が大人になったのは、愛する人と初めて一夜を共にした時かな」

「は? 下ネタやめてほしいんですけど」

「下ネタじゃねーよ! 俺の大切な思い出! 相手お前だかんな!」


 ボケたつもりはさらさらないんだが。ラジオの放送時間を考えると、いささか攻めすぎた答えだったかもしれない。


「先輩って自覚なしにズレたこと言いますよね。ちゃんと仕事できてます? 会社でハブられたりしてません?」

「余計なお世話だよ! 上司とか同僚から可愛がられてるから心配すんな」

「あー……そういう感じね」


 察せられてしまった。眼鏡クイッじゃねーんだよ。お前のほうこそ、無意識に周りの人間イラつかせてないか心配になるわ。


「何見てるんですか? 先輩」

「気になんだよ、お前のこと。いろいろ」

「それはよかったです。やっぱ愛されてますね、オレ」


 こいつの口ぶりは毎度のこと。だから、俺もいつもの調子で憎まれ口を叩いたんだ。


「いつもながらスゲー自信だな」

「自信……ありませんよ。先輩が思ってるほどには」


 殊勝なことを言う。珍しく悩み事か? 聞くぞ?


「お前、職場で嫌われてたり……」

「オレは嫌われてないです」

「あんじゃん! 自信!」

「オレじゃなくて、先輩が……心変わりしないか、とか」


 あいつは言葉を選ぶようにボソリとつぶやいた。俺は察しが悪いから、これでもはっきりと言ってくれたほうなのだろう。


 少し冷めた、ミルク入りのコーヒーを俺は一口飲んでから。


のぞいたんか。閲覧履歴」

「……はい」

「知ってんだろ。下半身それ上半身これとは別だって。俺に女と恋愛なんかできっこない」


 察しの悪い俺だって流石に分かってる。学生時代から周りにマスコット扱いされてたことぐらい。


 優しくて、ちょっと面白くて、だけど頼り甲斐のない男。

 恋愛という場において、はなから俺は女たちに「見えていない」存在なんだ。


「お前だけが受け入れてくれたんじゃんか。そういうとこも含めて、俺のありのままをさ」


 男同士だからこそ、俺たちは通じ合えることがあった。


 強がりで、見栄っ張りなところ。

 先に結論から求めがちなところ。

 異性には言いづらいアッチ方面の話も。


「でも……本当は年上が好きなんですよね?」

「ああ、最近は熟女系が……って、そっちかよ! それこそ別腹だって!」

「別腹? 別竿べつざおでは?」

「上手いこと言ってんじゃねえよ!」


 ツッコミながらも俺は安堵した。よかった。こいつに普段の調子が戻ってきたようで。


「作家ですからね。上手いことガンガン言いますよ。先輩が職を失ったらオレが養ってやらないといけませんし」

「俺失職する前提なの? やだなぁ」


 反論にも疲れてきた。俺はさっきから手付かずだったスナック菓子をかっさらい、袋ごと残りカスを平らげる。


「あー、先輩また太りますよ」

「上等だ。どうせ俺のカラダ、お前『専用』だしな」

「それでたまに赤いパンツ穿いてるんですね」

「伝わりにくい例えをすんなよ。三倍も早くねーわ」


 そう言って、俺はポテチの二袋目に手をかけた。

 だけど――袋の口が固すぎて開きやしねー!


「ふんっ…………! むー……んー……!」

「先輩、無理しないでこれ使いましょうよ」

「お。ありがとな」


 手渡されたハサミを使い、俺は袋の口を開ける。

 すると奴は、何故だか意外そうな顔で俺を見ていた。


「え、何? 俺また何かやらかした?」

「いや、素直にハサミ使うんだなって。昔はムキになって素手で開けてたのに」

「そりゃ、俺だってもう大人だし」

「あっ」

「ん? ……あ」


 俺たちは揃って顔を見合わせた。


「例文これで行きましょうか」

「いやいや、微妙すぎんだろ」


 他愛のないことで笑い合えること。

 そんな日常こそが幸せだって思えること。


 大人になるのも悪くない。

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大人になった瞬間は 真野魚尾 @mano_uwowo

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