第3話 ジレンマ

Nothingness

ジレンマ



 確かなものがないことが唯一の確かなことである。


           プリニウス一世






































 第三装【ジレンマ】




























 「いつぶりだ?全然顔見せに来ねえから、死んだかと思ってたぜ」


 「ワーカーに潜入しているんだから、当然そうなるでしょう」


 「で、どうなんだ?スパイの話があったが、まさかあいつ捕まったんじゃ」


 「鼻の効く男がいるので、致し方ないかと」


 テンドにある程度話し、それが終わると今度はドアを開けて剣を渡すように迫った。


 敵に剣を渡せと言われて渡せるものかと言ってきた兵士に向かって、テンドが渡して良いと言ったため、仕方なく渡した。


 そこへゴードンとムラサメがやってきて、顔を合わせると頭を軽く叩いた。


 「何処に行ってたんだ、ティーフ」


 「俺だって色々あんだよ。それより、ワーカーのことで話したいことあんだけど」


 「それなら」


 俺の部屋に、と言おうとしたゴードンだったが、それよりも先にティーフが腹が減ったから何か食べたいと言って走りだろうとしたため、首根っこを掴んだ。


 「迷子になられちゃ困るんだよ」


 引きずられながらも目的地に着くと、ティーフの前には豪勢な料理が次々に並べられた。


 その間にムラサメがクロエマの兵士の服を持ってきたため、ティーフはそれに着替え、またすぐに料理を口に運ぶ。


 「ワーカーにスパイがいたって?それもカルディアの?」


 「ああ。まあ、ダイキって奴が殺しちまったから、それ以上の情報は何もねぇんだけど。まあ、カルディアとの接触もあったし、スパイだったことは確かだろうな」


 「あ、ティーフがいます」


 「ルファエル、久しぶりだな!」


 お腹を空かせてきたのか、それとも何か他に用事があったのか、やってきたルファエルはティーフの髪の毛を引っ張った。


 「いっててててて!!!何すんだよ」


 「煙草の匂いがしますね」


 「ああ。煙草吸う役だったからな。お陰で肺が変になりそう」


 食事を終えてから詳しい話を聞こうとしていたゴードンとムラサメだが、ティーフの食欲は一向に収まることがなかったため、食事をしながら話しを聞くことにした。


 ルファエルも適当な場所に座り、おやつを食べたいといって何か作ってもらったようなのだが、ティーフに横取りされてしまって、結局一口も食べられなかった。


 とにもかくにも、ティーフからの情報によって、ワーカーにはスパイがいて、しかも今クリストが疑われているということも知った。


 何とかならないかとティーフに聞いてみたが、アーサーだけじゃなくプライトに目をつけられたから難しいだろうということだった。


 野犬ではないが、とにかくプライトは鼻がきく。


 ティーフの正体がバレていないのが不思議なくらいだ。


 「そうそう。これ大事なこと。言い忘れるところだった」


 「なんだ?」


 口いっぱいに、ドーナツやクリームブリュレ、パイなどの甘いものを含んでいたそれらをひとまず飲み込んでから、ティーフはゴードンの方を見て笑った。


 ゴードンに衛兵たちの写真を見せるように頼むと、数十枚、それ以上の写真を適当に眺めていた。


 そしてある一枚を見つけると、それを指さして言う。


 「この男、ワーカーからのスパイだ。気をつけろよ」


 「この男って・・・ヴィルか?いや、確かに怪しいと思って調べてはいるが、何も出てきてないんだ」


 「この前、アーサーの部屋に行ったときにリスト見たから確かだな」


 ようやく食事が終わったかと思うと、またテンドと話をしたいと言ったため、ゴードンやムラサメ、そして一緒にいたルファエルも同行する。


 テンドの部屋に着くと、ティーフは折角着替えた服を脱ぐからと、ワーカーのものをまた持ってきてくれと頼んだ。


 「テンド様に、お願いがあるんですよ」


 「なんだ?」


 「これからまたワーカーに戻って、ちょっとかきまわしてきます。だから、合図があるまでは待っててもらえます?」


 「それはいいけどよ」


 「それに、こっちへは一応、クリストのスパイ容疑の件で来たんで、時間的にもそろそろ帰らないと、何かあったら困るし」


 部屋を出てワーカーの服に着替えると、ティーフは馬のもとへと向かう。


 「もう帰っちゃうんですね」


 「またしばらく、ティーフは迷子ってことで頼むぜ。そろそろ、俺の役目も終わりそうだから」


 「気をつけてくださいね」


 「おう」


 ルファエルに見送られながら、ティーフはワーカーへと戻って行った。








 「ジモーネは無事か?」


 「アーサー、ジモーネが帰ってきたぞ」


 「本当か」


 ジモーネが帰ってきたことはすぐに広まって、アーサーやポルコたちが集まってきた。


 そしてすぐさまソルモのもとへと向かうと、ジモーネはクリストはクロエマのスパイだということが分かったと話した。


 「やっぱりそうだったのか。あの野郎」


 「しかし、こちらから合図があるまでは動かないようにと頼んで来ましたので、先に動くならチャンスかと」


 「そうだな」


 ふと、この会話を聞いていたポルコは、疑問を抱いた。


 どうしてジモーネの言葉を向こうが信じて鵜呑みにしているのかと。


 それはプライトやダイキたちも同じことを思ったようで、互いに顔を見合わせていると、ここでようやくアーサーが答えた。


 「実はな、ジモーネにはダブルスパイとして、クロエマと接触してもらっていたんだ」


 その言葉に驚きを隠せないでいると、特に気にしていないジモーネは、ニコニコと笑みを崩さぬまま、クロエマの現状を伝える。


 「クロエマでもカルディアのスパイと思われる女が拘束されているようですが、同時に、ヴィルにも疑いがかかっていて、身動きとれないようです」


 「そうか。ヴィルからの連絡が途絶えたのもそのせいか」


 「それから、戦争の準備は着々と進行中のようでして、武器庫にも行きましたが、かなりのものが用意されていましたね」


 戦争は出来るだけ起こしたくないが、送りこんだヴィルも捕まっているとなると、これ以上のんびりもしていられない。


 とはいえ、ヴィル同様、こちらにもクリストという切り札があるのだが、口を割らないことにはクロエマを脅すことも出来ない。


 とにかく今は武器を集めることや、どれだけ味方をつけるか、といったことに専念した方が良いのだろうか。


 「ジモーネ、ダブルスパイってことはバレてないのか?」


 「どうでしょうね。とても鼻がきく男がいると伝えてありますけど。その時はその時ってことで、俺は今出来ることをしますよ」


 「そうか。疲れただろう。ゆっくりと休んでくれ」


 「有り難く」


 ジモーネが自室に向かって歩いて行くのを見届けると、アーサーたちは計画を練る。


 これからもしクロエマと戦争ということになれば、それなりの装備も金も人も必要となる。


 「でもさあ、クリストを切り札にするって言ってたじゃん?戦争になるなら、もうあいついらなくね?」


 「ダイキ、それはまた後でいいんだ。とにかく今は、クロエマを誘い込む罠を考えた方が良い」


 「面倒くさいなぁ」


 「何か糖分取る?」


 「プライト、それも後でいい」


 ダイキは暇そうに欠伸をしたかと思うと、クリストの尋問をしに行くと言って、そこから去ってしまった。


 面倒臭いことをするくらいなら、さっさとクリストを痛めつけて吐かせればいいんだと、ダイキはだるそうに地下へ歩いて行く。


 それでもまだ殺すなと言われているため、無理なことをすることも出来ずにいた。


 「おーいクリストー」


 地下で大人しくしているだろうクリストの名前を呼ぶが、当然ながら返事などしない。


 両手は後ろで拘束しているし、両足にも錘をつけているため、逃げようと思っても逃げられない環境のため、多分逃げてもいない。


 とすると、ただ返事をしたくなくてしないだけだろう。


 そう思って牢を覗くと、ダイキは目を見開き、先程よりも早足でアーサーのもとへと向かった。


 そこではまだ話し合いが進むかどうかというところだったが、ダイキはアーサーの肩をぐいっと掴むと、アーサーは驚いたようにダイキを見る。


 「なんだ?」


 「クリストが」


 話し合いは一旦中断され、アーサーとダイキ、それにプライトとポルコはクリストを拘束しているはずの地下へと向かった。


 そこは城の中よりも少し寒いが、今大事なのはそんなことではない。


 地下牢に着くと、ポルコは壁にかけてある牢の鍵を取り、解錠する。


 すぐに駆け寄ったアーサーは、クリストの首元に指を置いて脈拍を確認するが、すでに停止していた。


 「・・・舌を噛んだみたいだね」


 プライトが両膝を曲げてクリストの顔を覗きこむと、口の中からの出血が確認出来た。


 「尋問に耐えられなかったか」


 「おいおい、俺がそんな尋問ごときで酷いことすると思うのか?それに、こいつ全然吐かねえつうか、尋問くらい屁のかっぱ!って感じだったんだぜ?」


 疑いの眼差しを向けられたダイキは、疑われても否定は出来ないと言葉を飲み込む。


 ポルコが、プライトと同じように両膝を曲げて屈みこむと、顎に手を当てる。


 「クリストの性格じゃあ、ダイキの尋問くらいで自殺なんてしないでしょ。もしするとしたら、スパイとして、何としても秘密を厳守するため、とか?」


 「スパイとして自ら命を絶つことは珍しいことではない。だが、さっきのダイキの言葉から察するに、ダイキの尋問でも平然としていられる男だった。にも関わらずいきなり舌を噛んだ・・・?」


 「納得いかないみたいだね、アーサー」


 「納得いかないわけじゃない。スパイの容疑をかけられた時点で、死ぬという可能性も当然ある。それに、舌を噛んだとなれば、自らの意思で、ということになるだろう」


 「なら、何が気になるんだ?」


 ポルコとプライトも立ち上がると、動かなくなったクリストを眺める。


 「・・・とにかく、このことは一旦置いておこう。今はクロエマとの事の方が心配だ」


 そう言って、寒い部屋に1人残されたクリストを置いて、アーサーたちは戻っていった。








 「ティーフは上手くやってるのか?」


 「信じるしかないかと。それよりテンド様、合図があった際の攻撃方法やルートを」


 「面倒臭ぇなぁ。早く合図こねぇかな」


 「ですから、その時のためにちゃんと作戦を練るべきだと申し上げているのですが」


 「ヴィルは何か言ってんのか?それにアマンダだって、尋問なんて生温いことしてんじゃねえよ」


 「ヴィルもアマンダもまだ何も。しかし、2人ともスパイであることは確実です」


 ゴードンとムラサメで、何とかテンドを説得してみても、テンドはそういうことは全て任せるとだけ言ってきた。


 それだけ信用してくれているのは嬉しいことなのだが、だからといって、テンド抜きで作戦を進めるわけにもいかない。


 テンドは昼寝をしたいといって、ゴードンとムラサメを部屋から追い出した。


 追い出された2人は、ティーフからの合図があるまでの時間、何が出来るかを話し合うため、きっと皆が集まっているだろうキッチンへと足を運んだ。


 武器の確保も兵士たちも、数はそれなりに揃えると、あとは合図を待つだけだった。


 テンドには避難するようにと伝えたが、その必要はないと言われてしまったため、ムラサメが付きそうことになった。








 それから数日が経った頃、動きがあった。


 「テンド様、ワーカーで爆発が起こったようです」


 「ティーフからの合図だと思われます」


 その爆発をきっかけに、クロエマは整えていた戦闘態勢を全てワーカーに向かわせる。


 半分以上の戦力がワーカーに向かったかと思うと、続いて、なぜだか全く分からないが、クロエマでも爆発が起こった。


 「どういうことだ!?」


 「一体何が起こった!?」


 「おい!状況を説明しろよ!!」


 わーわーと喚く中、それでも戦うべき相手は変わらないため、腕や足は動いて行く。


 しかし、ワーカーから合図としての爆発があったことは良いとして、クロエマでも爆発が起こったとするならば、もしかしたらあの爆発は合図では無かったのではないか。


 誰かがわざと爆発を起こさせたのでは。


 裏切り者は誰だ、把握している者は誰か、一体誰を信じれば良いのか。


 いやとにかく、敵を倒せば良いのだと。


 目の前にいる敵は明らかな敵だとしても、もしも隣にいる仲間が敵だとするならば、まわりは敵だらけとなってしまう。


 色んな感情や疑念が蠢く中、声が聞こえた。


 それはみなにつけられている小型無線からのもので、声の主はゴードンだ。


 【良く聞け。誰を信じ誰を斬れば良いのか、迷っていることだと思う。だが、今は何も信じなくて良い】


 「・・・ゴードン?」


 【ただ、己のみを信じ、己に刃を向けてきた者全て敵と思え】


 「了解」


 「了解です」


 それぞれから返事が来たところで、戦場へと走り始めた。


 「ったく。大層なお言葉だねぇ、ゴードンよ。これから先、味方も敵もねえ、ってか。そりゃ一番、分かりやすくて楽だな」








 「それで?ワーカーとクロエマはどうなっているんだ?」


 「今頃、戦争が行われているかと」


 「ふふ・・・それにしても、面白いくらいに順調に事が進んだものだな」


 「俺を誰だと思ってるんです?互いに信頼を失ったばかりではなく、全員が敵に見える。俺様にかかれば、こんなもんです」


 とある国、名をカルディアと言う。


 小さな国で、戦争とも無縁、そして無欲な国と言われてきた。


 唯一の収入源と言われているのが、このカルディアの領土内で発見された、希少な金属類だという。


 それは僅か数ミリグラムの重さで、村を1つ買えるほどの価値だと言われている。


 実際のところ、それよりも価値があるとされており、なぜカルディアの領土内にしか存在していないのかも不明のままだ。


 この金属が何に使われているのかと言うと、何にでも加工が可能なものらしく、日用品から武器、骨董品や甲冑、それ以外にも城を構築する材料としても用いられている。


 とにかく、確かな成分も未だ分かってはいないのだが、何にでも応用でき、その金属で作られたものはとても頑丈で強固で、その金属で作られた矛は何でも貫き、その金属で作られた盾は何からも守るという。


 ではその金属で作られた矛と盾ではどちらがより有能なのかと問われると、誰も試してみたことがないため、わからないという。


 最も多い使われ道としては、武器などよりも貴族たちの装飾品で、それは有効な使い方かと言えば、そうではない。


 ただ、そのカルディアの金属を使っている、というだけで、なかなかの値打ち物となってしまうようだ。


 カルディアは戦争のない平和な国だという印象が強いが、確かに、戦争はない。


 というのも、その金属を求めて度々他所の国から戦争を強制的に申し込まれることがあるのだが、金属で作られたカルディアの城は最強の難攻不落の城と言われており、さらにはいたるところに罠が仕掛けてあるため、そう簡単には近づけないとか。


 戦争を求めない和平を願う国ということではなく、単に、防護に徹した国というだけだ。


 ではなぜ防護が必要になったか。


 それは、何代か前の国王が、とにかく自分以外の人間を信じない男で、味方の衛兵たちが何か過ちを犯して逃げようとしても、城から一歩も逃げられないように、と罠を仕掛けたのが始まりだそうだ。


 敵から身を守るためのものではなく、裏切った仲間を捕まえるためのものだった。


 実際のところ、どうだったのかは分からない。


 なぜなら、その国王は精神が不安定で、時折、幻覚を見たり幻聴を聞いたりしては、衛兵たちに拷問をしていたらしい。


 何も信じられなくなった男の末路。


 カルディアの衛兵たちは、罠の場所を把握しているため、罠にかからずに抜けることが可能となった。


 しかし、現在も見つかっていない罠があるだろうということで、あまり外には出たがらないのが本当のところだ。


 「アマンダが捕まってるそうだな」


 「ええ、まあ。あいつはドジですからね。俺みたいに、目立たず、時々前に出て、くらいがちょうどいいんですよ」


 「まさかあいつ、余計なことを喋っちゃいないだろうな」


 「ご安心を、トーマス様。この俺様が、上手くやっておきましたから。ああ、でも、その後のことには責任持てませんがね」


 「どうせ使い捨てだ。どうなっても構わないが、俺に迷惑をかけてもらっては困る。エース、後始末はお前に任せるぞ」


 「ええ、ええ。分かってますよ。なんたって、俺は優秀有能な男ですからね」


 エースと呼ばれた男は、鼻で笑いながら前髪をかきあげる。


 その仕草だけを見ると、なんとも艶やかな男に見えるのだが、言ってる言葉を聞いてしまうと、自分大好きな人間のようだ。


 「一段落ついたら、褒美をやらねばな。エース、お前は一体何が欲しいんだ?なんでもやるぞ」


 トーマスの言葉に、エースは壁の方を見ながら「そうですね」と少し考えた。


 しかし欲しいものはすぐには思い浮かばなかったようで、不敵な笑みを浮かべたままこう答える。


 「そのうち、考えておきますよ」


 「なんだ、まだ考えてなかったのか。この計画が実行に移されるときにも考えておけと言っただろう」


 「ええ、そうなんですけどね。いやぁ、俺が欲しいものは本当にもらえるのか、ちょっと不安なところもありましてね。欲深い人間だと思われても嫌なもので」


 「はは、お前にそんな一面があったとはな。強欲なのは悪いことではない。だろ?」


 「トーマス様に言われると、説得力がありますね」


 「人間とはもとより、欲で生きている。それを拒むことも否定することも、出来ないのだからね」


 「・・・では、1つ伺ってもよろしいですか」


 「なんだ?」


 エースは視線をトーマスに向けると、さらっとした髪の毛を靡かせながら、顔を近づける。


 折角なら女性に近づいてほしいと思ったトーマスだが、そんなことを言ったもエースはにんまり笑うだけだろうと、口を閉ざす。


 「俺が王になりたいっていったら、その椅子、いただけます?」


 「はあ?」


 一瞬、ぴくりと反応を見せたトーマスに、エースは「くっ」と声を出したかと思うと、腹を抱えて笑いだした。


 「はははは!!冗談ですよ!俺が王なんてなりたがると思います?」


 「エース、お前なぁ」


 「失礼いたしました。トーマス様はからかうと面白いので、つい」


 「ついじゃないだろ」


 肩を震わせながら笑っているエースはドアを開けようとしたとき、ふと、トーマスの方を振りかえる。


 トーマスは何だろうと首を傾げると、エースは歯を見せて笑いながら言う。


 「それに、俺の欲しいものはもうすぐ貰えそうですので、あしからず」


 「?」


 結局、一体何が欲しかったのか分からないが、とにかく、エースはこのままカルディアにいるわけにもいかないため、一旦ワーカーに戻ると告げた。


 もう少しのんびりしていようかと思ったようなのだが、のんびりもしていられない、これから忙しくなるだろうと言っていた。


 馬に跨って走り去ってしまったエースを見送る者がおらず、ワーカーとクロエマの戦争が早く終わらないかと待つことにした。








 ワーカーとクロエマが戦争を始めてから2日が経とうとしていた。


 トーマスはまだ夜明けにもなっていないのに起きてしまって、真っ暗な外を眺めると、そのまま布団を被った。


 ウトウトして眠りについたかと思うと、次に耳に入ってきた音は、普段の日常とはかけ離れたもので、トーマスはダルそうに身体を起こした。


 誰も来ない為、大したことではないだろうとまた寝ようとしたとき、トーマスの部屋に1人の衛兵が入ってきた。


 「なんだ、騒々しい」


 「トーマス様!!た、大変です!!!」


 「落ち着け。何があった」


 なんだかとても慌てたような様子の衛兵に近づき、欠伸をしながら返答を待っていると、衛兵は頼りない顔と声でこう言った。


 「カルディアが、攻められています!!」


 「・・・なんだと?何処にだ」


 「クロエマからです」


 トーマスはすぐに準備をして、衛兵たちに状況を説明するように促すが、誰一人として確かなことは理解できずにいた。


 アマンダかヴィルが口を割った可能性が高いと、トーマスはとにかく守備を固めるようにと伝えた。


 そもそも、カルディアは防護に適した国。


 そう易々とは敵が侵入できるはずがないと、タカをくくっていたのだ。


 「大変です!!罠が次々に突破されています!!」


 「なんだと!?どうなってる!!」


 「トーマス様!ワーカーも攻めてきています!!」


 「おい!どうにかしろ!!」








 「アーサー、手を組むのは今だけだぞ」


 【もちろんだ。俺達をはめようとしていた根源を絶ち切ることが、目的だからな】


 「今頃カルディアは、焦っているだろうな」


 【喧嘩を売ってきたのはあいつらの方だ。致し方あるまい】


 ゴードンはアーサーとの連絡を切ると、捕まえていたヴィルとアマンダの様子を見に近へと向かう。


 そこで大人しくしているだろうヴィルとアマンダの前まで来ると、ゴードンは目を疑った。


 そこには、ヴィルもアマンダもいなかったからだ。


 両手を縛っておいたし、両足にも錘をつけていたから、逃げ出せるはずもないし、そもそも、鍵は厳重に保管している。


 スパイとして怪しいと思っていた2人を捕えておいたのに、その2人が逃げ出したとすると、2人が協力して牢屋から出たか、それとも、他にもスパイがいたか、だ。


 ヴィルもアマンダも、あの状態で逃げることは難しいため、きっと他にも裏切り者がいたとみて間違いは無い。


 かといって、現状、そのスパイを見つけ出すことよりも、カルディアを落とすことの方が先決だ。


 「ん?」


 ふと、ゴードンは足元に何かあることに気付いた。


 それは白い粉のようなもので、ゴードンは少し躊躇はしたものの、舌で舐めてみる。


 「・・・砂糖、か?」


 その粉はざらっとしていて甘く、砂糖だと分かった。


 しかし、なぜこんなところに砂糖が落ちているのか、それが分からなかった。


 「それより」


 今は砂糖の犯人を見つけることよりも大事なことがある。


 ゴードンはヴィルとアマンダが逃げ出したことを伝えると、一旦はそこから離れた。


 一方その頃、わけもわからないうちにワーカーとクロエマから攻撃をされているカルディアは、迎え撃つしかない状況に立たされていた。


 そんな中、城から避難をしようとしているトーマスのもとへ、人の気配が近づいてきた。


 「誰だ!?」


 「わ、私です・・・」


 「アマンダか!どうした!?捕まっていたんじゃなかったのか!?」


 そこに現れたのは、クロエマに捕まっていたはずのアマンダだった。


 両手も自由になっていて、足も身軽そうだ。


 「それが、私もわからないんですけど、急に眠くなったと思って寝てしまって、起きたときには拘束が解けていて、それに、檻も開いていて・・・」


 「そうか・・・。それで、これは一体どういうことなんだ!?何か知ってるか?」


 「ここに来るまでの間に、聞こえてしまったんですが・・・」


 アマンダの話によると、カルディアからのスパイがワーカーにもクロエマにもいるということが分かってしまい、囚われていた。


 しかしどういうわけか、カルディアの目的がワーカーとクロエマを戦争に追い込むことで、それによって、カルディアがワーカーもクロエマも取り込もうとしているのではないかと思った。


 一旦は戦争を始めたワーカーとクロエマだが、ここは手を組み、カルディアを落とすことを決めたようだ。


 「だとしても、誰が一体そんなことを流したんだ!?アマンダ、話したのか!?」


 「まさか!!そんなことしていません!」


 「なら誰が!!」


 「わかりません!!しかし、トーマス様、ここにいては危険です!すぐに安全な場所へ避難してください!!」


 「・・・それは、当然だがな」


 「え・・・」


 そう言うと、トーマスはアマンダの心臓に剣を突き刺した。


 突然のことで、アマンダは抵抗もなにも出来ず、ただそこに静かに横たわるしか出来なかった。


 トーマスはアマンダの身体から剣を抜くと、城の地下通路を目指して歩いて行く。


 「ドジをふんだ奴が、生きてられると思ってんじゃねえぞ」


 誰もいないのは当然で、今頃地上ではみなそれぞれ戦いをしているのだろうと思いながら、トーマスは独り悠々と歩く。


 カルディアの領土はそれほど大きくないため、そろそろ他国についただろうかというとき、トーマスの前に男が現れた。


 「あ?お前なんでここに・・・」


 その先を続けようとしたが、それは叶わなかった。


 自らの血が流れるのを、ただ冷たい地面に寝転がりながら見ていることしか出来なかったからだ。


 男は颯爽と立ち去って行き、トーマスが男に向かって伸ばした腕にも気付かなかった。


 「・・・愚かな暴君に用はない」








 ここは、名もない、小さな小さな国である。


 国なのに名前がないのはおかしいことだと思うかもしれないが、厳密に言えば、名はあったのだが、奪われてしまったのだ。


 小さいながらもコツコツとやってきたその国は、織物が有名だった。


 丈夫な布に繊細な柄、色鮮やかに織られているそれらは、ひとつひとつ手織りということもあり、貴重で高価なものだった。


 かといって、富裕層ばかりが買い手だったのかというと、そうでもない。


 貧しい人にもその美しさを知ってほしいという気持ちで、小さくはあるものの、ちょっとした飾りとして織物を提供していた。


 しかし、富裕層の者たちは、それを快く思わなかった。


 なぜ自分達が大金をはたいて頼んでいるのに、金の無い連中にも作ってやっているのかと、その織物の美しさが穢れてしまうのではと、その国の織物と技術を、独り占めしようとする輩が出てくるのもまた、人間の性としか言いようがない。


 小さくとも幸せに暮らしていた国は、ある日を境に一変する。


 織物を作る機械は全て没収されてしまい、織物を織りたいのなら自分たちの統治下に入れと言ってきた。


 最初は断っていたのだが、そのうち、織物が織れないことで収入源が減ってしまい、今度は籠を作る仕事を始めた。


 手先が器用だからか、その籠にも繊細な技術と模様が描かれており、瞬く間に人気の商品となった。


 これでようやく元の生活に戻れると思った矢先、その籠を作る材料が、手に入らなくなってしまった。


 原因は、わかっていた。


 どうしてもその国の技術が欲しい者たちによって、金と権力という圧力がかかってしまったからだ。


 それからも別の物を作ろうとしたが、どこもかしこも手が回っており、しまいには、国の者たちがその日食べるものさえ手に入らないようになってしまった。


 しばらくは自給自足で補っていたのだが、それにも限界があり、その小さな国の王は、民の命と引き換えに、国を失った。


 織物職人たちは奴隷のように扱われ、そのほかの器用な者たちも、別の仕事を休みなくさせられることになった。


 王は強制することは止めてほしいと頼んだのだが、聞き入れてもらえるはずなどなく、小さな国の王の人望が気に入らなかった大きな国の王は、王を牢屋に閉じ込めた。


 小さな国は、大きなものを失った。


 それでも、生きていくことで、いつか復讐を果たそうと思っていた。


 いつかいつかと思いながらも、年月は残酷に過ぎ去って行った。








 大きな国は、有名になった。


 以前以上に、金も、権力も、名誉も、それから技術も手に入れた。


 一生ものの奴隷もおまけでついて、大きな国の王は毎日が幸せだった。


 そんなある日、ちゃんと仕事をしているかチェックをしていた王が、1人の男に目をつける。


 その男は、目立つこともなく、かといって暗い性格なわけでもないのだが、人に融けこんでしまっていた。


 なぜだか気になった王は、その男を呼んだ。


 男は前髪で顔が少しかくれており、はっきりとした顔は見えなかった。


 前髪を切らせると、男はとびきり綺麗な顔立ちなわけでも、男らしい精悍な顔立ちなわけでもなかった。


 しかし、王はこれが気に入った。


 王は男に望みはないかを聞いてみたところ、以前の国に戻りたいと言った。


 王は大笑いしながら、それは無理だといって、地下に閉じ込めている小さな国の王のことを話した。


 なぜあんな小さな国が良いのか、あの王に王は務まらないと。


 何より、小さな国の王は、地下牢で息絶えているのだと。


 王は楽しそうに笑いながら話し、男が悔しそうな顔をするか、それとも泣くのか、嘆くのか、喚くのか、どんな顔をするのかと期待しながら男を見た。


 しかし、男は顔色一つ変えていなかった。


 王はどうして何も言わないのかと聞くと、男は少しだけ口角をあげてこう言った。


 「何も、感じません」


 王はその男を気に入り、職人としてではなく、衛兵として働くように伝えた。


 男は最初断っていたが、無理矢理訓練にも参加させられてしまい、そのまま家族とも離れて暮らす生活が続いた。


 素人だったにも関わらず、男はめきめきと腕をあげていき、優秀な衛兵たちを次々と追い抜いて行った。


 しかし、自らその実力を誇示することもなく、天狗になることもなく、かといって鍛錬に励むわけでもなかった。


 物静かな性格かと思っていたが、そうでもないらしい。


 相手によってはヘコヘコでき、相手によっては厳しくし、相手によっては甘くし、相手によっては無感情で、怒ったり叫んだり笑ったり、そういうことが出来た。


 単に人によって対応の仕方が違う、そういう人間なんだと思うかもしれないが、そうではない。


 人によって違うというよりは、王に従事している者と、給仕の者、衛兵たち、執事たち、もとより、働かされている職人たちと、それぞれの立場に合わせた、ということだ。


 長い物に巻かれているわけでもなく、どうしてそのようなことになっているのかと、勇気ある誰かが聞いたことがあるようだ。


 その時男は、何を言っているんだろうと、分からないように首を傾げた。


 男は、態度を変えていたことに気付いていなかったのだ。


 きっとそれは、生き残るための術。


 小さい頃、自分の身に起こった悪夢のような出来事によって、どうすれば周りから注目されずに、それでいて平和的に生活が送れるのかと考えたのだろう。


 その結果が、自然と身についてしまった、様々な人格の自分を作りだすこと。


 笑顔を振りまくことを望む人もいれば、ただ黙って黙々と仕事をこなすことを望む人もいる。


 他にも、褒められるのが好きな人もいれば、話しをするのが好きな人もいて、優しくされたい人もいて、無口を好む人もいる。


 好かれようとしているわけではなく、目をつけられないようにする。


 生意気だとか、気が利くだとか、知的だ無能だなんだのと、人間はなぜかレッテルをつけたがる。


 覚えられてしまうことはしょうがないとしても、出来るだけ関心を持たれないように、あくまで役柄としてそこにいるのみ。


 そこに存在があってもなくても、変わらないように。








 「誰だ」


 「私でございます」


 「ようやく戻ったか。あまりに戻らぬから、敵に寝返ったのかと思っておったぞ」


 「何分、猟犬があちこちにおりまして、油断出来ぬ状況でしたので」


 「まあよい。それで」


 「ワーカーとクロエマには、カルディアの計画をもらしたので、ワーカーとクロエマが手を組み、カルディアを落としています。王も不在なので、時間の問題かと」


 「そうか。で、カルディアが落ちた後、ワーカーとクロエマはどうする」


 「その点もご心配なさらず。ワーカーとクロエマ共に、種は蒔いてきましたので」


 「時間をかけずに信頼を得て、その信頼を利用するなんてな。お前を信頼していた奴等はみんな、驚くんじゃないか?」


 「いえ、そのようなことはないかと。誰しも、裏の顔を持ってるものですから」


 「お前の怖いところは裏の顔じゃなく、その顔の種類だよ。お前が他のところに潜入してもバレないのは、偽物の人物になりきって生活が出来るからだ。他の奴が、自分だけの空間に入ると気が緩んで油断をする中、お前は違う。別人格を自分の中で作りだし、それになれる。かといって、多重人格なわけじゃない」


 「とんでもございません。私はただ、やるべきことをしているだけですので」


 「謙遜するなよ。そんなお前だから、今回の多重スパイを頼んだんだからよ。・・・それにしても、匂いがついたか?」


 「申し訳ありません。そのうち消えるかとは思いますが」


 「いや、それも演技のうちならしょうがない。だが、お前は確か匂いがつくのも嫌なくらい、嫌いだったはずじゃ?」


 「ええ。多少、身体に違和感は残りますが、それでも疑われずにいるためにと、定期的に吸ってはおりました」


 「やるな。カルディアでは、お前がスパイだってことも、そもそもスパイがいたってことも、気付いてないんだろ?」


 「かと思われます」


 「笑えるな。で、連れてきたあの男は誰だ?」


 ふと、男の後ろにある大きな袋の中で蠢いている、人間と思わしきソレを顎で指しながら尋ねる。


 その袋を開けると、中には目隠しをされ、口にもタオルか何かを咥えさせられ、両手両足が縛られている男がいた。


 それが誰かと首を傾げていると、冷淡な表情でこう言った。


 「この男は利用価値が多少なりともあるかと思い、連れてきました」


 「身元は?」


 興味があるのかないのか、自分のことなど見えていないだろう目隠しされている男に近づくと、怪訝そうな顔を見せた。


 「クロエマからのスパイで、クリストと名乗っていました。本名はこれからでも聞けます」


 「勝手に連れてきたらバレるだろ」


 「人間そっくりの人形を置いてきましたので、それが人形だと分かる頃には、ワーカーも潰れていることでしょう」


 「だからか。変なもん作れって言うからなんだと思ったが。そういうことなら納得だ。で、なんでこいつなんだ?他に使えそうな奴はいなかったのか?」


 「ワーカーからクロエマへのスパイもいましたが、その男はちょっと癖がありましたので」


 「お眼鏡にかなわなかったってことか。で、こいつをどう使おうって腹だ?何か考えがあるんだろ?」


 「正直なところまだです。ワーカーの鼻の効く猟犬がいなければ、スパイと気付かれなかったかもしれませんし。今後、開発中の薬を投与して実験台に使うことも、洗脳して国の盾として使う事も可能かと思います」


 「ま、お前の人選なら確かだろう。それにしても、お前はその猟犬にもバレずによく行動出来たな。その猟犬ってのは、どういう奴なんだ?」


 「お話しするほどのことはございません」


 「そう言うな。猟犬がいるからには、その飼い主もいるってことだろ?興味があるとすればそっちだ。躾をどうやってるのかってな」


 「飼い主、ですか・・・。まあ、彼らがどのような人生を送ってきて、なぜあの道を選び、なぜあの場所に留まっているのかは、私にはわかりかねますので」


 「気に入らなかったのか?餌がまずかったか?」


 「そのような、人間らしい感情は持ち合わせておりませんし、生きて行く上での人間の3大欲求を損なった記憶もございません」


 「ワーカーでもクロエマでも、ましてやカルディアでも必要とされてきた男が、実は心の無い冷徹な奴だったなんて、一体誰が想像出来る?」


 「お褒めの言葉として受け取っておきます」


 「ああ、そうだ。褒めてるんだ。これは、そんじょそこらの人間には出来ないことだ」


 「ありがとうございます」


 「ワーカーの権力も司法も、クロエマの財力も領土も、俺のものになる。全てを手に入れるのはこの俺だ。そうだろ、ロゼ?」


 「もちろんでございます」


 「ワーカーもクロエマも、カルディアでさえ、面白いように踊ってくれる。たった1人の人間を信じたばかりに、こんなことになろうとは、誰も思っていないだろうな」


 「分かりかねます」


 「もし、もしだ。お前が潜入してなかったとして、あいつらはどうなったと思う?仲良く手を組み続けていたと思うか?」


 その問いかけも、ロゼは眉1つ動かさない。


 「私がいなくとも、結果は同じだったでしょう」


 「なんでだ?」


 「・・・ワーカーにもクロエマにも、確かに鼻のきく猟犬はおりましたが、それと同様に、信頼を勝ち取っている裏切り者も数名、おりましたので。これからまだ、かきまわしていくかと」


 「なんだ、そうなのか。お前はそれを分かっていながら、密告もしなかったのか。そうすりゃ、信頼の度合いが違うだろう」


 「密告というのは、リスクがあります。信頼を得られるからと、容易に密告してしまうと、密告相手が逆にこちらを疑う可能性が出てきます。下手に探られ、裏の顔を見られてしまった場合厄介ですので、出来るだけスパイが分かったとしても、見てみぬふりをした方が、自らを隠すためにも良いのです」


 「ほう・・・。まあ、お前なら大丈夫とは思うが、用心深いのは、さすがといったところだな。それで足元すくわれる奴もいるってわけか」


 「潜りこんだ以上、本来の自分を見られてはいけません。ましてや、捕まって口を割る程度のスパイであれば、自ら死を選ぶべきです。疑いをかけられた時点で、任務は失敗したも同然なのです」


 「手厳しいな。その疑いを晴らせばいいだけだろ。そのテクニックだって、実力のはしくれだと思うが」


 ロゼは捕まえてきたクリストを再び袋に詰め込むと、口を縛って背中に背負う。


 人1人、それも男が入っているのだから重たそうだが、ロゼは平然としている。


 「一瞬でも己を見せれば、それは脅威となり、いずれ、大きな過ちとなります。疑いが晴らせたとしても、疑いをかけられたという事実を変えられない限り、その事実に付き纏われることになります」


 「そういうものか。まあ、俺には分からない世界だな」


 「それでは、私はこの男を連れていきますので、失礼いたします」


 「ああ」


 背負った荷物を連れて部屋から出ていこうとしたロゼだが、ドアを少しだけ開けたところで、男が声をかけてきた。


 「なあ、ロゼ」


 「・・・なんでしょう」


 「お前、この国を恨んでるんだろ?」


 「・・・・・・」


 「俺のことも、恨んでるんだろ?」


 「・・・・・・」


 「どうして殺さない?お前の実力なら、俺を殺すことくらい出来るだろ。正直、お前の腕なら俺のまわりをうろちょろしてる衛兵たちだって倒せるはずだ。それでもお前は戦わず、こうして俺の命に従う。なにか企んでるってわけでもあるまい?」


 ドアノブにかけたままの手に力を込めることもなく、ロゼはゆっくりと男を見る。


 「先程から、何を仰っているのですか」


 「何か、おかしなこと言ったか」


 「私は、誰も恨んでなどおりません。ましてや、あなた様に手をかけようなどと、考えたこともございません」


 「お前を手に入れるために、俺や俺の父上がしたことを、赦すのか。大した聖職者になったものだな」


 「あくまで、過去の出来事です。あれから充分すぎるほどの時が過ぎ、その中で、忘れられぬ事は水に流すことにいたしました」


 「ご立派な考えだ」


 「ですので、下流でそれを拾った者がいた場合、私にはわかりかねますが」


 「?何を言ってる」


 「いえ、こちらのことです。では、失礼いたします」


 軽く握っていただけのドアノブを強く掴むと、ドアを開けた。


 荷物を背負ったまま廊下に出ると、ドアを閉める際、こちらを見ている男に向かって頭を下げながら、静かに閉じた。








 ロゼが出て行った部屋では、男は椅子に座って足を組んでいた。


 少し開けた下唇に人差し指を置き、数回動かしたかと思うと、ほとんど開けることのない引き出しを開ける。


 そしてそこに入っている、裏返しになっている写真立てを眺めた。


 「あいつは実に忠実な犬だ」


 そう言うと、男は椅子から強めに立ち上がり、朝日が昇ろうとしている空を仰ぐ。


 「剣の腕もさることながら、演技力も情報収集能力も見事なもんだ。・・・俺も、騙されてなきゃいいんだがな」


 次の瞬間、男は手に持っていた写真立てを顔より少し上まで持ちあげたかと思うと、そのまま重力に従って思い切り振り下ろした。


 パリン、と音を鳴らして写真立てが割れると、男はさらにそれを足で踏みつける。


 「いつか化けの皮剥いでやるからな」


 その頃、ロゼはクリストを置いてきた帰りで、自室とも言えない、埃だらけの部屋に足を踏み入れていた。


 そこには、何もない。


 テーブルもクローゼットもベッドも、間接照明も鏡も、そのほかの装飾品の類も、もっと言えば、洋服などの生活費術品さえ、見当たらない。


 誰かに処分されたわけでもなく、ロゼ自ら、このような部屋を望んだらしい。


 その理由ははっきりとは知られていないが、この部屋こそが、このロゼという男を知るうえでは重要なのかもしれない。


 無欲というより、自分がそこにいるという痕跡を何も残したくないのだ。


 カーテンもない空の部屋には、昼間の暖かさも、夜中の冷たさも、遠慮なく差し込んでくる。


 「今日は寒くなりそうだ」


 そう言って、ロゼは部屋から離れた。


 彼が一体何処で寝泊まりをし、どうやって生活をしているのか、それは未だ謎である。


 ただひとつ分かっていることがあるとすれば、彼は、これからも今まで通りに生きて行くということだけ。


 それは必ずしも、良い方向へ進むとは限らないが、それでも、そうすることしか出来ないのだと。


 しかし彼から言わせれば、今日までの人生の中で誤算だったことが、2つ、あるという。


 1つは、国が失くなってしまったこと。


 もう1つは、目立たないことで、目をつけられてしまったこと。


 最初の誤算は、仕方ないことだと思っている。


 国が国を乗っ取る、滅ぼす、奪う、そういったことは、起こり得る事象の1つで、民想いの王だったため、こうなるかもしれないという覚悟はあった。


 子供ながらに、大人というのは醜い心を持っていて、目に見えないもので簡単に付き動かされる生き物だと分かっていた。


 王のことは嫌いでは無かったし、自分の生まれた国なのだから、当然、愛着だってあった。


 しかし、上手く振る舞うことは出来たはずで、金の亡者たちが優先して作れというのなら、それに従えば良かったのだ。


 綺麗事も信念も正義も棄てて、王として本来守るべきものを守れば良かったのだ。


 新しい国では、毎日毎日働いた。


 やっていることは以前と変わらなかったが、多分、強制的に作らされているという気持ちからか、大人たちは奴隷にされたと嘆いていた。


 休みもなく働かされているのだから、そう思ってしまうことは仕方ないのかもしれないが、当時は子供だった彼から言わせれば、黙って仕事をしていれば一日過ぎるのだから、良い暇つぶしだった。


 食事だって、あまり変化はなかった。


 決まった時間に出てくるし、回数は減っていたのかもしれないが、黙々と作業をするのが苦ではなかったため、そこもあまり気にならなかった。


 目立っていたとは思えない。


 頑張ろうとか、認められたいとか、褒められたいとか、そういう気持ちで仕事をしていたわけではないのに、何を間違えたのだろう。


 ある日、彼の人生だか運命だかを変える、そんな出来事が起こってしまった。


 「お前、こっちへ来い」


 何か失敗をしたわけでもなく、かといって目を惹く様な素晴らしものを作ったわけでもなく、さぼってもおらず、懸命に働いてもいないのに、呼ばれてしまった。


 大人しく付いて行くと、王の前に座らされた。


 なぜか王の目に留まってしまい、なぜか気に入られてしまい、なぜか衛兵として訓練に加わることになってしまった。


 そんな予定ではなく、あのまま職人として平凡に生きて、誰にも見られずにひっそりと死ぬ予定だったため、まさに、誤算だった。


 訓練に加わってからというもの、特に努力をしたわけでもなく、媚びを売っていたわけでもなく、ただ普通に生活していたと思うのだが、そうではなかったようだ。


 自分の中に、自分ではない誰かがいるようだと、言われて初めて知った。


 これまで特に目立たなかったのは、明の輪では明に、暗の輪では暗になれていたためであって、明から暗へ、暗から明へと変わる瞬間を見た人間に、気付かれてしまった。


 まるで値踏みをされたようだと、少しだけ嫌悪感を抱いたのを覚えている。


 もともと器用でセンスがあったのか、実力を伸ばし続けていたのだが、これ以上目立つことはしたくないと、手を抜いて負けることも多々あった。


 強くなりたかったわけではないし、正しくありたかったわけでもない。


 彼はただ、呼吸を繰り返すためだけに。


 例え、自分の故郷を奪われたとしても。


 例え、大切なものを奪われたとしても。


 例え、自らを利用されたとしても。


 彼がその仮面を外すことは、ない。








 「赦されざるべきは、何にもなれない、この僕だ」


 「僕の存在は、“無”だ」


























 人間はだれでも、創造的な利他主義の光の中を歩むのか、それとも破壊的な利己主義という闇の道を歩むのか決断しなければならない。


            Martin Luther King



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