プロトタイプ・アカナ

うつそら

プロトタイプ・アカナ

 身の丈に合わない右腕の義手が奏でる金属音が、ただただ広がる樹海の夜に静かに鳴り響く。

 夜の静謐せいひつが空間を満たし、視界全てに広がる木の幹、葉の間から差し込む月光、梟の不気味な鳴き声だけがこの世界の総てだと錯覚する。

 流れる血潮を瞬時に冷却するような真冬の冷たさが容赦なく肌を覆った。

 最初こそ白いもやとして現れた吐息は、今はもう見えなくなっている。

 体を動かし続けなければ死ぬという直感だけを頼りに重い足を前へ進める。地面に張った霜を素足で踏む度にズキズキと刺すような痛みが脳へ送られる。

 少年は、何も覚えていない。

 無造作に伸びた艶が消え去り斑模様のように血に塗れたボサボサの銀糸の髪。ウィスタリアよりは少しばかり濃い紫の双眸。寝不足から生じた深いくま。体の至る所に切り傷や擦り傷があり、そこから流れ出した血液は固く凍り付いている。少年の体格にしては大きい襤褸ぼろ切れのような血で汚れた白い服を一枚だけ被っている。

 少年の体に不釣り合いな大きく黒い義手だけが、周りの影響を微塵も受けず綺麗に月光を反射して鈍く光っている。

 少年は何故自分が真冬の夜に一人樹海の中を歩いているのか、何故自分はこんなにも傷だらけなのか、この右腕の義手は何なのか、何も覚えていない。自分の名前も、言葉も、自分が何者かも、何も。そう、最初から無知だったのかさえも。

 ただ今この瞬間、あるいは数日前からの記憶であれば朧気にだが残っている。


 何日前だったかはもう既に記憶の空へと見えなくなるまで飛び去ってしまったが、意識が蘇ったとき少年は川のほとりで寝転がっていた。

 しんしんと雪が降る寒々しい曇り空の下、新雪に体を埋めながらウィスタリアの瞳を薄い陽光に当てた。久しぶりの光に目を細め瞬く。

 十分に冷えた雪の中に素肌を晒しているはずだが、少年は顔色一つ変えずに平然としている。

 左手で上体を支えながらゆっくり起き上がり、辺りを見回した。

 少年がいるのは表面が氷で覆われた川の畔。耳を澄ませば流水の音が微かに聞こえるほど辺りは静寂に満ち満ちている。

 雪を被った木々、姿を隠してしまった岩々、長い眠りに就いた動物たち。言葉にこそできないが、寂しいという感情を知った。

 右腕だけ冷たさを感じないと気付いた少年は不思議そうにその黒光りする義手を見遣った。

 中に背骨のような芯があり、その周りを小指ほどの高さしかない薄い円筒が幾重にも重なり覆っている。指先が異常に鋭利で、分厚い氷程度ならを穿つことができるだろう。体に不釣り合いなくせに、少年が動かそうと命令をすると左腕と何一つ変わらない動作で動いた。

 暫く呆けたように曇天を仰いだ少年だったが、不意に聞こえた連続する銃声の大音響で生存本能の赴くまま咄嗟に立ち上がって裸足で走り出した。


 それから数日、少年は不眠不休で機械のように走り続けていた。いや、もう既に走るとは呼び難く、踏み出した足とは反対の足を引きりながら進んでいる。

 夜も更け、真夜中の住人が生活音を奏で始める。

 不気味な静寂が静かな羽音と足音でさらに増幅される。生存本能が暴君のように少年の中で暴れ出し、一歩一歩前へ繰り出す足の機械的な駆動を加速させる。

 三本目の木を通り過ぎた時、大地を震わすような重低音がとどろいた。

 その音にビクリと痙攣したように体を震わせ、さらに足の駆動を速めた。

 音は、少年があの川の畔で耳にした音と酷似していた。あの時と同じように間髪を入れず銃声が連続する。その度に進める足が早まり、骨のずいから悲鳴を上げる。

 逃げなければ。

 ただその本能だけが周囲の木々から羽ばたく鳥と逃げ惑う白兎と同じように、少年の体を突き動かした。

 ただ未熟さ故にそんな時間も長くは続かなかず、少年は雪に薄く埋もれた木の根につまずき雪に顔を埋めた。幸い硬くはなく怪我はせずに済んだが、ぶつけた爪先がじんじんと痛んだ。燃え盛る業火のように熱く感じる。

 遅れて頬にも似た感触が走った。転んだ先の真横に植えられた低木の枝先に薄く汚れている白い頬を割られ、傷口から赤黒い血液がほとばしる。真白の雪に滲むように広がる。

 深夜の樹海に鳴り響く、生存本能を直接刺激するような重低音から逃げようと両腕に力を込めるが、右腕が薄い金属音を鳴らしながら微かに動くだけだった。だがそれもすぐに終わり、左腕と同様にフッと脱力した。

 先程まで全身に惜しみなく込めていた力が、傷口から溢れる血と共に雪へ滲んだ。

 言葉を知らない少年でも、死という概念は知っていた。自分を含めた全ての生物が辿り着く場所、何処かは知らないがただただ漠然と、記憶と呼ぶには相応しくない脳の深部に刻まれていた。

 雪に馴染むように全身から体温が引いていく。

 体に負った傷は致命傷ではないが、この数日間で蓄積した疲労感が体をむしばみ容赦なく殺していく。この瞬間まで気にも留めていなかった、血が固まり塞がっていたはずの傷口には鈍痛を感じ始める。全身から送信される信号が束になり激痛として脳に届く。

 叫びたい衝動に駆られるが、当然喉に力は入らず口端から隙間風のように吐息が漏れた。

 死という事象に対する現実味が増していき、体を突き動かしていた生存本能が凪いでいく。本能的に拒絶しながらも、突き付けられた現実に抵抗する力を失う。

 自分は死ぬんだ、という事実だけが少年の小さい体に重く伸し掛かった。

 言葉を知らない少年は、底なしの未来に対する恐怖だけを感じていた。

 気付けば銃声は鳴り止み、残響だけが響く夜の静寂が空間を埋めていた。

 真冬の風が痩せ細った枝を揺らし、僅かに音を立てる。梟の羽音と鳴き声が遥か遠方からと思えるほど鼓膜を小刻みに震わす。

 夜空を埋めていた星々が曇天に移り変わり、雪が舞い落ち始めた。褪せた銀髪に落ち、徐々に姿を消していく。汚れた肌を洗い流していく。

 一片、また一片と雪の結晶が落ちる度に意識がより深くへと沈んでいく。

 唯一右腕の義手だけが何一つ変わらず存在していた。

 月光が消え去り闇に包まれた中で確かに黒光りしていた。無機質な黒い右腕だけがこの現実から薄れゆく少年と違い、現実に残り続けていた。


 サクッ。


 この絶望の淵に似合わない軽快な音が鳴る。幾重にも積もり重なった雪を踏みしめるとき特有の湿った軽い音だ。

 元来聴力に優れている少年は遥か遠くへと飛び立つ意識の中で、その音を聞き取った。聞き慣れない音だった。

 続けて金属同士がぶつかり合う高音が心地よくなる。右腕が発するような薄い金属音ではなく、もっと重い、例えば銃器同士がぶつかり合うような音だ。

 その音の正体に関して思考を巡らす余裕もなく、少年は概念として存在するだけの恐怖で脳内を埋めていた。勿論、今聞こえた音ではなく先程から雪が融けるように徐々に広がる死への恐怖だ。

 何度か軽快な音と重い金属音が鳴り、一度止まったかと思うと突如加速した。雪を踏む音が確かな質量を伴う金属音に掻き消される。上書きした音と同様の重い響きをまとった衣擦れの音が雪に吸われていく。

 一際大きい音と共に少年の横で鳴り止む。

 遅れて銃器の音。意識が不明瞭な少年だが、今までよりも鮮明に聞こえ、何者かの気配を感じ取っていた。

 グローブに包まれた手が少年の頭へと伸びる。もう片方の手が何者かが立つ反対側の脇下伸びていき、胸辺りを這って反対側へと抜ける。少年の体を抱くように覆い被さり、雪に顔を埋めた少年を少し重そうに抱き上げた。

 少年は体が浮遊するような感覚を覚えた。いや、正確には吊られていると呼ぶ方が正しい。すぐに硬質と柔軟の間を往来する感触を背中の真ん中あたりに感じる。

 永遠とも思えるほど長い間、雪の中で目を薄く開いていたために視界が朧気だ。おまけに無限と呼べるほどの光の砂を散らした夜空は重く暗い曇天に覆われ、月光すら入らず世界が闇に包まれていた。

 鮮明に見えるものは何一つとしてなく、少し大きい他者の呼吸音だけが耳に届いていた。

 痛みが和らぎ、視界が上下の薄い門により閉ざされる。

 梟の鳴き声も、風が枝を揺らす音も、遥か遠くで鳴った衣擦れの音も消える。鈍痛が和らぐように消滅し、全身の至る箇所から脳へ送信されていた信号が途絶えた。


 少年は、まぶたの向こう側に暖色系の灯りを感じた。

 死んだところまでは記憶が残っていた。光が消え、音が消え、痛みが消え、体が消え、闇の中へ放り込まれた。それだけだ。

 聴覚から鮮明になり始める。記憶の奥底に封じ込められた、金属が小刻みに震える音が鼓膜を優しく揺らす。水が沸騰するとき特有の音がそれに重なり重奏と化す。その音に誘われて、意識まで鮮明になる。

 体を起こそうと左腕に力を込めて起き上がる。雪に埋もれている時と決定的に違う確かな暖かさを感じる。鈍痛も、雪よりも遥かに冷たいものに包まれる感覚も消え去っていた。

 相変わらず何も感じない右腕故に、左腕に感じた温かさは不確定要素など何一つとして存在しない確かなものだった。

 死んだ記憶を否定するほど、生の感覚が全身のありとあらゆる部位、臓物で増幅する。

 首、肩、胸、腕から指先へ。少し遅れて腹周り、太腿ふともも脹脛ふくらはぎ、足先へと体の感覚が蘇っていく。誰かに包まれるような温かさを感じた。懐かしさを感じた。

 錦糸の如き薄目を開ける。傍から見ればその微細な変化など感じ取れるはずはないが、確かに天井から吊るされたランタンの火がウィスタリアの瞳を照らした。

 人間が観測できる時間よりも細かな、時の流れ自体が、その流れを感じ取れないほど凪いだ川のようにゆっくりと進んだ。そう錯覚するほど、ゆっくりと双眸が開かれていく。目の中に火を取り込んでいく。

「あ。起きた」

 言葉を知らない少年には理解不能な柔らかい音が、艶のある薄い唇から発せられる。

 大陸西側の大部分を占める大国、ギルトの陸軍が指定している濃紺のアサルトスーツのえりで口元を隠した美少女が放った言葉だ。

 美少女という言葉をそのまま具現化したような風貌だ。肌は舞い落ちる雪片せっぺんのように白く、しかし健康的な肌の色をしている。ただ幾筋も切り傷のような痕が刻まれている。金糸の艶やかな肩まである髪は少し乱れ、前髪の先端から一切の不純物を排除したような雫が服の上に落ちていた。両目に嵌められた大粒のルビーは輝きを放ち、薄い色の中で一際目立っていた。

 少年は声の主をその目に捉え、二度瞬きをした。ウィスタリアの中に一点、金色の光が差す。二人の異なる色彩が放つ視線が宙で交差する。

 突如目の前に現れた彼女を、少年は興味津々といった瞳で見つめた。

 少女は襟から口元を出し、僅かに眼光の変わった少年を真っ直ぐ捉えたままニコリと微笑んだ。その反応を不思議に思った少年は軽く首を傾げた。

 少女は両手で包み込んでいたマグカップをかたわらに置くと、ゆっくりと優美に立ち上がった。

「おはよう。私はティファ・アメトン。君は?」

 円形の狭い室内の中央に置かれた円筒形ヒーターを迂回して少年の前に立った。

 その間、興味津々から不思議そうに色を移した目でティファと名乗る少女を追った。

 勿論、少年にとってその名前は単なる音でしかない。ヒーターの上には先程から薄い金属音を絶えず発している褪せた鈍い金色のポットが置かれている。

 出入口以外の壁際に沿って置かれた椅子の上で起き上がった少年と目線の高さを合わせるように、ティファは少年の足元に腰を下ろした。

 薄く汚れた毛布に包まれた少年ともう一度目を合わせて、今度は首を傾げる。

 ティファ自身は自分の言葉に少年が答えるのを待っているのだが、当の少年は全く理解していない。ただ、傍から見れば黙秘するように沈黙し首を傾げるのも無理はない。

 言葉を知らない少年は、彼女の名前も、問われたことも理解不可能なのだから。

 少年は、自分の名前すら知らないのだから。

 金糸の前髪が吹き込む外気になびいて優しく揺れた。沸騰する水の音が鳴り止まず、微かに梟の鳴き声が聞こえた。

 ティファは何も応えずにただ沈黙し続ける少年に疑問を抱き始めた。連日降り続いた雪が大地を埋める樹海の中で、少年を発見した時から感じていた疑問が今更になって肥大化していく。

 何故か近くに人の住む村の一つもない深夜の森の中で倒れていて、何故か襤褸切れのような汚れた服を着ていて、何故か体中に傷が刻まれていて、何故か右腕は体に不釣り合いな義手。

 記憶をさかのぼり、つい小一時間前の光景を脳内で再生すると不可解な点が無数に見つかる。

 口端に浮かべた微笑を引っ込め、片手で体を支えながら少年の方へ上体を乗り出した。ティファを眺めるのに飽きた少年は室内を見回し始ている。

 もう片方の手を伸ばし、その少年の頬を優しく撫でるように指先で触れる。顔を背けている少年と目が合うように優しく自分の方へ向かせる。

 抵抗はしないが、依然室内を見回し続ける少年に僅かな心配を孕んだ毛布のように柔らかい声音でもう一度、問いかける。

「君、名前は……?」

 その声に釣られるように、少年のウィスタリアの双眸がティファの赤い瞳を捉える。だが意味を持たない声を発することもなく、すぐに視線を逸らされる。

 その行動に、直感的に、ただ本能的に軽く恐怖を感じる。

 少年に対する恐怖ではない。

 何が、目の前に座る無邪気なまだ幼い少年を言葉も知らない人間に育て上げたのか。

 何が、少年をこの環境に置いたのか。

 姿など蜃気楼の中で見る敵兵の姿以上に見えない、その存在に悪寒を感じる。

 顔どころか視線すら微動だにせず、大粒のルビーをさらに大きく見開いて世界の異常とも思える少年を凝視する。

「言葉が……わからないのか……?」

 声の柔らかさはそのままに、驚愕で掠れた声を絞り出すように、僅かに開かれた薄い唇から漏らす。微かな残響を残して少年との間に落ちたティファの声は、時折舞い込む雪片に埋もれていきすぐに姿を消した。

 自分でも否定したいほどのおぞましい想像に、ティファは全身の毛細血管を含めた血の通う至る場所で悪寒を感じた。細胞一つひとつにまで伝播でんぱし、この体を構成する全細胞が胎動するのを感じた。

 ティファの母国、ギルトと現在敵対関係にあり、戦火を交えている大陸東側の大部分を占める大国、アルゲンにも義務教育が存在する。

 彼女が推測した少年の年齢は約七歳。どちらでも義務教育を受けているはずの年齢だ。そうでなくとも、自分の名前を言える程度には各家庭での教育は済んでいるはずだ。

 指先で触れていた片頬を掌で包み、もう一方の腕を伸ばして少年の華奢きゃしゃで弱弱しい体を抱き寄せた。右手の義手に生気を感じないが、抱いた少年の確かな体温が命の証明となっていた。

 夜通し、ティファは少年を守るように抱き締め続けた。

 着ているアサルトスーツと地中に設けられた簡易的な部屋を恨めしく思うほど、この瞬間まで少年の身を脅かし続けていたであろう何かから守った。母性……と呼ぶには少し違う、もっと本能的な、危険に包囲された誰かを救うような、偽善的な感情が体を動かした。

 抱かれた少年は暫く室内を見回したり、身をよじらせたりしていたが徐々に船を漕ぎ始め、ティファが気付いた頃には穏やかに寝息を立てていた。


 その夜は、空気がよく澄んでいた。

 化石燃料が燃える時特有の臭いは風に流され、代わりに舞い込んだ冷気が髪を揺らした。

 冷気を吸う度に不純物が微塵も含まれていないような空気が肺に流れ込み、肺に溜まった不快感の象徴と言えるほど気色の悪い空気を体外に吐き出した。

 名前も知らない少年の寝顔を見る度に、ここ三年程で刻まれた心の傷が癒える心地がした。

 今日も、昨日も、一昨日も、その前の日も、重い自動小銃を携え身を隠しながら樹海の中を歩く日々。

 引金を引くと鼓膜を激しく揺さぶる銃声。それに伴い吐き出される火薬の臭い。

 音に怯え飛び立つ鳥の羽音。

 敵のものか仲間のものかも判別がつかない血の臭い。

 真横で片目を貫かれ転がる仲間のむくろ

 悲鳴が響く度に感じる確かな殺人の感覚。

 何のためか、目的は嫌というほど自分に言い聞かせている。

 眠りに就く度に脳内で再生される銃声と火薬と血と骸。

 それらが、今の私に与えられた総てだった。

 想起したい記憶など、夢に見るはずもない。


 ティファが屈んで通るのが精一杯といった大きさの出入口から、僅かな光が差し込む。

 天井に開けられた複数の穴あから降る光は白く、寝惚け眼のティファは一瞬、銀世界の中で寝ていたのではと錯覚した。

 外界の光に目を慣らすために何度か瞬く。その度に深紅のルビーが室内に差し込む陽光に触れて輝く。金糸の髪が白光を照り返し、柔らかく煌めく。

 十回ほど瞬きを繰り返し目が光に順応すると、腕の中で寝息を立てる少年を見た。

 襤褸切れのような服の襟から穏やかに上下を続ける白い胸を見て、この華奢な体が命を持っていることに安堵する。

「良かった……」

 声と共に漏らした吐息は白い靄として口から零れ、瞬時に霧散した。

 澄んできた耳が外から届く鳥のさえずりを捉えた。昨日と変わらず甲高く柔らかい響きを持つ鳴き声に今日もまた、荒んだ心がやされる。人を殺した後、掌に残る不快感が微かに和らぐ。

 毎朝訪れるこの一瞬が無ければ、陸軍に所属し戦地に駆り出された数日後には与えられた銃で自分の脳天に照準を合わせ引金を引いたであろう。

 少しばかり冷えた手で眠る少年を椅子の上に寝かせて腰を上げた。出入口を目指し、狭い通路を通って外に這い出る。

 一面の銀世界に目が眩んだがすぐに慣れた。視界の端に映った白兎が地面の中から出現したティファに怯え、逃げるように跳ねて姿を消した。言い知れぬ寂しさを感じた。

「一度くらい、こっちに来てくれてもいいのに……」

 肩を落とし、溜息交じりに言葉を落とす。昨日降り積もったであろう新雪に埋もれていき、微かな反響すら残さず消滅した。

 手を組み頭上に上げて背筋を伸ばした。一気に脱力して腕を下ろすと同時に息を吐く。口と鼻から目一杯、昨夜よりは冷たさの和らいだ空気を吸い込む。純粋の化身とも思えるほど澄んだ冷気が肺を満たしていく。過剰に吸った空気を吐くと、白い靄として霧散した。

 雪に足跡を刻みながら毎朝欠かさず行う散歩を始めた。

 小気味好い音が真白の雪に覆われた地面を踏む度に鳴る。そこへ鳥の囀りが混じり、長らく聴いていない音楽と化す。

 今度ギルトへ帰る機会があったら、適当にオルゴールでも買おうと心に決めた。

 昨日まで数日を費やして近場の敵兵は一人残らず駆逐したため、今は比較的安全地帯のはずだ。先に陣を敷いて正解だったと心の中で思う。

 早朝であることも相まって近くに人の気配はなく、時折立ち並ぶ木々の間に動物が顔を出した。だが、先程の白兎と同様にティファの姿を認めるとすぐに逃げ去ってしまう。特段恐ろしい見た目で、銃を携帯しているわけでもないのに何故か怖がられる。

 逃げ去る動物の尻尾を見ながらこの道を選んだ自分を呪ってしまう。

 ギルトの陸、海、空軍に所属する人は九割九分が男だ。勿論、看護系に関する人を含めてもこの人数だ。さらにこの内、九割九分が看護に携わる。ティファのように兵士として戦場へ赴く者は異例とも呼べるほど稀だ。たった十人ほどで構成される分隊を指揮する立場にいる者は限りなくゼロに近く、その上には誰一人として女の名前はない。

 そんな環境下で女兵士として生きるティファの肩書は、第二十三分隊隊長。

 もっと長い名前だったが、所属していた小隊が壊滅状態になった末に勝利し自陣へ帰還したティファにとっては至極どうでもいい肩書だ。

 彼女が率いていた分隊の構成員十人の内、七人が銃撃戦の最中で死亡。瀕死になった一人を連れて自陣へ帰ろうと試みたが、道半ばで息絶えた。

 つまり、現在の第二十三分隊はティファともう一人だけの隊とも呼べない状態ということだ。他の分隊でも生存者は片手で数えるまでもなく、一人や二人。三人ほどだったとしても、内最低でも一人は瀕死状態だと噂で聞いた。

 撤退するか否か、昨夜、生き残りの分隊長とそれを束ねていた小隊長が集まり会議を行った。

 集合したのは初日の半分以下、分隊長の部屋より広い室内が寂しく感じた。

 言い表しようのない絶望感に苛まれている分隊長以外は口を揃えて『撤退』の二文字を出したが、小隊長だけは『臨戦』と口にした。

 屈強な彼曰く、五日もすれば応援が到着するためここで戦線を下げるわけにはいかないと。結局、その会議は小隊長の鶴の一声で臨戦が決定した。

 毎日戦線へ赴き、真横で仲間が息絶えるのにも構わず、視認できない弾丸が飛び交う中で引金を引き続ける。自分の背丈より遥かに小さい自動小銃から吐き出される銃声が大気を震わし、近くにいる動物は揃って逃げ出す。

 そのせいで、樹海の中で生きる動物にとって人間は畏怖の対象だった。現に、ティファが母国の山中で触れ合った動物は逃げずに近寄ってきた。

 兎も、鳥も、鹿も、ティファを無害だと認めていた。

 ティファは明確な目的を持ってこの地へ赴いたが、好かれたくない者に好かれ、嫌われたくない者に嫌われたのは初めてだった。

 辞めようと決意する度に、そこに生まれた一点の綻びを湧き上がった記憶が的確に突く。

 何度思ったことか。

 国へ帰り、また平穏な日々を過ごそうと。

 好きな人に囲まれ、好きな者に好かれ、好きな音楽を聴き、好きな世界で生きようと。

 たった一言告げ、少し面倒な書類を書き提出するだけで道を引き返すことができると。

 もう一度分岐点に帰り、そこから再び歩き出そうと。

 だが、どれもたった一つの記憶に一突きされ水泡のように虚しく弾けるだけで、一度も形を保ったままティファの眼前に姿を現さなかった。

 彼女の中に沈んだ記憶が、何時までもかせになっていた。

 先の見えない道を歩き続けることに対する恐怖が、日を経るごとに和らいでいく感覚に恐怖を覚えた。

 ティファは何度目かも忘れた考えごとをしながら、来た道を引き返して少年の眠る部屋に戻った。穴の中に足を入れ、両手を張って宙に浮いた体を支えながらゆっくり降りた。屈んで進み、外とは違い少しばかり暖かい室内で解放される。

 少年はまだ眠っていた。仰向けだった体勢を変えて小さくうずくまるように、義手ではない左腕で両膝を抱えている。

 その姿が狂おしいほど愛おしく思え、ティファは少年の枕もとに腰を下ろして優しく頭を撫でた。それに呼応するように少年が頭を揺らした。掌に広がる確かな温かさが心地よい。

 どれ程時間が経ったのか、外から鳥の囀りに足音が混じるようになった頃、少年はゆっくりとウィスタリアの双眸を見せた。依然消えない隈のせいで褪せて見えるが、ティファと同じく確かに輝いていた。

 頭を撫でられる感触に気付いたのか、膝を抱えたまま手を退けるように頭を捻って上を見上げた。差し込む陽光に目が眩んだのか、刹那固く目を瞑った。目頭に皺が寄り、それがまた可愛らしい。

 今朝のティファと同じく何度か瞬きを繰り返し外界の光に慣れた少年は、自分を見下ろしているルビーを捉えた。まだ寝惚け眼であるため何処か虚ろな瞳だ。

「おはよう」

 少年には単なる音として聞こえる言葉だと理解しながらも、毎朝分隊の構成員一人ひとりに掛けていた言葉を口にする。優しく微笑み、少年にここは安全な場所だと教える。念押しのつもりで頭を二度撫で、目にかかる前髪を分けた。

 その想いが伝わったのか否かは知らないが、少年はただ不思議そうに瞬きを繰り返した。その姿に再度愛おしさを感じ、頬を指先でくすぐり頭を撫でた。

「アメトンさん。おはようございます」

 不意に、出入口の方から声が反響して耳に届いた。空間自体が狭いため、近くで呼ばれた時と僅かな差しかない声量が鼓膜を震わす。

 部屋へ招こうか応える前に刹那逡巡したが、思い切って出入口へ向かって声を張る。

「入ってきていいよ」

「本当ですか?」

 ティファの言葉に間髪を入れず嬉しそうな声で出入口から返事が届いた。

 続けて盛大な衣擦れの音と共に着地音。ゴンという鈍い音と共に「いでっ!」と声が聞こえた。ティファが屈んで通るので精一杯の入り口から、四つん這いになった一人の青年が顔を出した。ティファより三歳ほど年上だ。

「アメトンさんが部屋に招くなんて珍しいですね」

 青年は四つん這いからゆっくりと立ち上がるが、膝を伸ばせず少し屈んで背中を丸めた状態になった。

「たまには部下を労わないとね。で、どうしたの?ガラサ」

 ボサボサの茶髪に鮮明な色の黄色い瞳を持つその青年、ガラサは後頭部を指で掻きながらティファの正面にある椅子に腰を下ろした。

 彼女と同じ濃紺のアサルトスーツに身を包み、手にはグローブをしている。服は所々切られたように破れ、溢れ出した血が黒いシミを作り、また付着した仲間の血痕が同じシミを作っている。顔にも痛々しい切り傷が刻まれている。

 ガラサは、いわゆる孤児だ。

 丁度ティファが生まれた頃に始まったアルゲンとの戦争で両親を亡くしたと、部下になった数日後に彼女は聞いた。身元の特定もできず、運よく入れた孤児の養護施設でガラサと命名された。

 唯一はっきりしているのは、ガラサがギルトとアルゲンを隔てる樹海に隣接した村で発見されたことだ。十数年前に始まった戦争は二年を費やして傷み分けで終了し、三年前に再度勃発した。それが今の戦争だ。

 物心がついた頃には既に平和な世の中へ時代が移り変わっていたティファにとって、戦争は歴史書に登場する遥か昔の御伽噺おとぎばなしのような内容だった。が、その戦争に直接関わったガラサを目の当たりにして噺は現実だと知った。

 人殺しを初めてから常々思っていた事実が、より一層近くへ寄ってきたように思えた。

 椅子に腰を下ろしたガラサは顔を上げた瞬間に、ティファの隣で横になっている少年に気付いた。当の少年は彼が入室した時から興味深そうに目で追っていた。

 少年を目で捉えた刹那、ガラサの思考が鈍化する。水路を流れゆく水が鉛と化したように、到底受け入れ難い事実に狼狽する。

 思考が再び水に戻った瞬間には既に腰のホルスターから拳銃を抜いていた。

 慣れた手つきで少年の心臓に照準を合わせ、引金に指を掛ける。その様子を見ても少年は小首を傾げるだけで、それがガラサの殺意を増幅させる。

「アメトンさん。こいつ、殺していいですか……?」

 ただただ冷徹に、普段のガラサからは想像もつかない低く冷たい声を放ち、視線だけは少年を捉えたまま動きを止める。

 余りの速さに反応が遅れたティファは、僅かに目を見開いた後に鋭く言い放った。ルビーは真剣そのものだ。

「やめ」

 銃撃戦の際に出す指示と同じ声音で、けれど僅かに感情を孕ませた声音で目が殺意に染まったガラサを制止した。だが銃口が上下左右に細かく揺れるだけで下がりはしなかった。

 もう一度、今度は柔らかい声音で命令をする。

「だめだよ。ガラサだって、同じ時期があったでしょ?」

 諭すように言い放つ。その言葉に殺意が折られたガラサは、目頭に深い皺が刻まれるほど固く目を瞑り、力んで小刻みに震える銃口を下ろした。そのままホルスターへと拳銃を収める。

 先程の殺意を完全に自分から切り離すように暫く目を瞑った後、一度だけ大きく溜息を吐いて力んだ全身から力を抜いた。壁にもたれかかり、足を前へ投げ出した。

「アメトンさん……。それは卑怯っすよ……」

 安堵の溜息を漏らしたティファに向けて溜息交じりに愚痴を零した。

 元孤児であるガラサは、同じ孤児である少年を無下に扱えない。それを知った上でティファは言葉を選んだ。

「別に卑怯じゃないよ。私もガラサも、こういう子を無くすために兵士になったんだから」

 少し悲しい響きを纏った声を放ち、依然ガラサを眺める少年を抱き上げて膝の上に乗せた。

 背後へ垂れ下がっていた右腕の義手が露になった。やはり華奢な体に不釣り合いな黒光りする大きな義手は異質な雰囲気を放っていた。

 澄んだウィスタリアの瞳でティファを見上げる少年の義手を見たガラサは、驚愕に目を見開いた。息が詰まったように声を絞り出す。

「何すか、その腕……?」

 少年の右腕だけを切り離して見れば少し不思議な外見の黒い義手だ。

 ただ、少年の体の一部として見れば異様な物体として目に映る。昨夜の一件を経て既に慣れたティファでも、樹海の中で倒れている少年を発見した時は一瞬助けるべきか躊躇した。

「義手……じゃないかな?戻る途中で拾ったから私もよくわからない。自分の名前どころか、言葉も知らないみたいだから問いただせない。ガラサに銃を向けられても微動だにしないところを見ると、無知に近い状態じゃないかな?」

 少年の頭を撫でながら淡々と現状を伝えた。

 ティファの言葉通り、彼女も少年に関しては言葉が喋れないこと以外は何も知らない。

 出身地に関しては大体の予想が出来るが、それ以外は何もわからない。義手も、服も、体の傷も、樹海の中を彷徨さまよっていた理由も、何も。

「無知って……まぁ、命令なら俺は殺しませんけど、他の隊の奴に見られたら結局殺されますよ?それに、四日後には応援も来ますし、その間に何処かへ逃がせるかって言われたらそんな場所なんてありませんよね?」

 ガラサの真剣な声に少年の頭を撫でる手がピタリと止まった。ティファを見上げるのに飽きて天井の穴から薄目で空を眺めていた少年も、それに合わせて再度彼女を見上げた。

 俯いたティファの瞳に、少年の顔が反射する。

 この純一無垢を具現化したような少年を拾った時からずっと思っていた。

 この少年が他の兵士に見られれば、銀髪であるという理由だけで捕獲され処刑されるだろう。

 今は一人で部屋を使えているが、四日後に到着する応援の中に女性兵士が一人でもいればティファと同じ部屋を使うことになるだろう。そうなれば、少年が逃げる場所は何処にもない。死は免れない。

 いや、違うな……。守りきれない……

 長い逡巡を挟み、ティファはやっとの思いで絞り出すように口を開いた。諦めとそれに対する悔しさが声音に寂しげな音を滲ませていた。

「……わかってるよ。わかってる……。私じゃこの子を守れない。たった四日の命だってわかってる……。綺麗事なのも自覚してる。ギルトにとってこの子が憎悪の対象になることぐらい、当然知ってるよ。でもさ、言葉も知らない、それどころかたぶん幸せなんて知らないこの子にも、少しぐらい、この四日間ぐらいは、幸せな人生を生きて欲しいんだ」

 ティファは少年を抱き上げ、目線の高さに掲げた。右腕が落ちそうなほど垂れ下がり、天井に開いた穴から差し込む白光に照らされ輝く。

 不思議そうにティファを見る少年だったが、彼女が僅かな寂しさを孕んだ笑顔を見せると一瞬呆けたように口を半開きにし、目を点にした後に初めてニコリと笑った。

 少年が初めて見せた笑顔に、ティファの笑顔から寂しさが吹き飛ぶ。いつぶりかも忘れた満面の笑顔を、抱き上げた銀色の光に向けた。控えめに声を出して笑った。

 その様子を見ながらガラサは呆れて大きく溜息を吐いた。

 唸りながら、ただでさえ乱れた茶髪を乱雑に掻きむしる。十回ほど前後に動かした後に、ピタリと動きを止めて逡巡し始める。唸り続けて十数秒ほど時間を置き、観念したように言葉を吐いた。

「……わかりました。このことは秘密にしておきます。ついでに、俺も手伝います」

「え?」

 初めて見せる少年の笑みに夢中になっていたティファには、意味を持った音が届いていなかった。要は、普通に聞き逃したのだ。

「だから、俺も手伝います」

「本当?」

 ティファは少年を膝の上に下ろしながらガラサの瞳を真っ直ぐに射貫く。満面の笑みは引っ込み、驚きで目を見開いている。

「本当ですよ。ただし、期限は三日後の夜まで。四日目は応援で来た奴らに見られるかもしれないですし、もしそうなったらそのガキだけじゃなくアメトンさんも俺も殺されます。貴方も、こんな辺境の地で死ぬつもりはありませんよね?」

 少しばかり顔を背けながら、ガラサは無愛想に言い放った。彼の条件を少し不服に思いながらも、水底に沈んだ記憶が後押ししてティファはコクリと頷いた。

「ところで、期限って言ったけどこの子は最後どうするの?」

 話を聞いている最中に脳裏を掠めたことだが、結局は最後まで少年を守れないため気にはしなかった。

 ガラサは作戦を伝える時と同様に姿勢を正し腕を組んだ。頭を捻りながら唸り始める。

「えー……。俺たちの手で殺す……は罪悪感ありますし、森の中に置いていくとか……」

 意外にも優しい結論を出したガラサに向けて、クスクスと小さく笑いながら皮肉を言う。

「ガラサにしては珍しく優しいね」

「そうっすか?」


 二日後、早朝。

 ティファと少年は、布陣した地点から少し離れた雪原の中にいた。

 この辺り一帯は何処までも樹海が広がる場所だと思っていたが、白兎を追う少年を追って丘を越えると少し開けた場所に着いた。雪原は銀世界特有の冷えた風音を感じる静謐が空間を満たしていた。

「アメトンさん、こんなことしていいんですか?」

 念のためと言い残して雪原を囲う森の中を索敵していたガラサが、子気味好い音を鳴らしながら戻ってきた。吐息は白い靄として姿を見せ、数秒滞留しながら徐々に霧散した。

「大丈夫でしょ。任務まで余裕はある。それに、ずっと部屋の中にいるより、たまにはこういう場所で遊んだ方がいいでしょ」

 ティファはそう言って屈み、地面に座って雪玉を作っている少年の頭を優しく撫でた。

 それに対して少年は微塵も反応を見せず、無我夢中で降り積もった真白の雪を左手で掬い取り、未だ指の自由は効かない右腕を動かし雪玉を作っている。

 今の少年は襤褸切れ姿から厚手の毛布姿へと変わっていた。

 ガラサが他の部屋を物色して入手した毛布をティファが縫い合わせた簡易的なものだ。

 襤褸切れと外見は変わらないが、少しは温かくなったようで少年は着た直後に船を漕ぎ始めた。体の至る所に刻まれた傷は軽い手当てをした後に包帯を巻いた。

 この二日間で、少年は義手の使い方をなんとなく掴んだ。

 指が動かせず細かい動作はまだ不可能だが、僅かに揺れるだけだった右腕は完全に制御下に置いた。ティファとガラサが教えたわけではないため、自分でその感覚を会得したのだろう。最も、義手など装着したことはない二人にとって教えようがないのだが。

 ティファと同じ型の紐付き自動小銃を肩に掛けたガラサは少し不服そうな顔をした後に、彼女の横に腰を下ろして少年と同じように雪を搔き集め始めた。

「何やってるの?」

 屈んだ状態から腰を下ろし、足を前へ投げ出したティファは不思議そうに訊いた。

「雪玉作りですよ。見ればわかるじゃないですか」

「まぁ……」

 自分より三つは年上であろう青年の精神年齢が、一瞬にして雪玉作りに夢中になる少年と同等になったことで目が点になる。

「その雪玉で何するの?」

「雪玉と言ったら、雪合戦ですよ」

 雪原に到着した時からずっと雪玉制作に勤しんでいる少年よりも遥かに早く掌サイズの雪玉を作り終わり、それを少年の背中に向かって優しく投げた。

 毛布に直撃し、爆ぜた後は崩れ落ちるように銀世界へ溶けていった。

 小さく身を揺らした少年は首を捻って後ろを向いた。ガラサの黄色い双眸をウィスタリアの瞳が真っ直ぐ射貫く。彼の行動を咎めるような視線でも、哀し気な視線でもなく、不思議そうな視線を向けていた。

 じっと見つめてくる少年に怖気づき、口を尖らせて少し乱暴に言い放つ。

「何だよ」

 その言葉にも少年は小首を傾げるだけで特に何も言わない。

 普段なら短気なガラサは憤慨して銃口を突き付けているだろう。だが、この二日間で否という程思い知らされた無知という事実から許してしまう。

 その様子を静観していたティファが突如、背中を丸め声を出して笑い出した。

 滅多に見せることのない無警戒状態のティファの笑い声にその他二人は思わず目を遣る。

「何で笑ってるんすか?」

 少し気まずそうに控え目な声でガラサが訊く。内心、突然笑い出した普段は真面目な上司に目が点になる思いだ。心の内で収めようとしたガラサの努力も虚しく、現実にしっかり現れている。

 雪が土の大地を覆い隠すように徐々に声量を落としたティファは、目尻に浮かんだ澄んだ涙を拭いながら答えた。声には依然止まない笑いが混じっている。

「いやー。二人が歳の離れた兄弟に見えちゃったから面白くて。ガラサにわかるかなぁ。自分より十以上年下の弟と必死に遊ぼうとするけど相手にされない兄、みたいな光景」

「何ですかそれ?」

 独り身の孤児として育ったガラサにとって、兄弟というものは未知の対象だった。

 入れられた養護施設で何人か目にしたが、実情はとんと知らない。

 やはり傍観するのと身をもって体感するのでは雲泥の差があ。そのことを、戦地に身を置くようになってから思い知らされた。

 ガラサの返答も可笑しく思ったのか、再び盛大に笑い出した。

 それに釣られて彼も肩を揺らしてクックッと笑いを漏らしてしまう。少年も声には出さないものの、手の動きを止めて二人を交互に見ながら微笑した。


 実に、幸せな時間だ。

 心の底からそう思える。

 地獄のような日々が遥か遠くに起きた昔話、いやもっと遠くにある御伽噺のように思えてきた。銃声と火薬と血と骸が脳内から薄れゆき、三人で暮らす日々の情景を脳内で再生した。

 恐怖すら感じない不思議な感覚に、温かさを感じた。


「じゃあ、そろそろ戻ろうか」

 使い古した腕時計に目を遣ったティファは時間を確認して立ち上がった。予定以上に長居してしまった。服に付いた雪を払い落とし、少年の頭を撫でた。

「そうっすね~」

 少年と同じように雪玉を作り、さらにそれを磨いてたガラサが応える。今まで研磨していたそれを遠くの雪原へ放り投げる。白光に照らされ神秘的な輝きを放つ雪玉は、綺麗な放物線を描き音もなく銀世界の中へ姿を消した。

 立ち上がり、ティファと同じように服に付いた雪片を手で払い落した。

 二人に気付いた少年が手を止め、背後を振り仰ぐ。何度か瞬きを繰り返し、小首を傾げた。

「ほら、帰るよ」

 ティファが腰を曲げて手を差し出し微笑を浮かべると、力の強い右腕で体を支えながらひょいと立ち上がった。

 少年が右腕を制御下に置いた時から二人はずっと、義手であるはずの右腕の方が強力であることを不思議に思っている。少し特殊な形で少年には不釣り合いな大きさの義手は、確かに華奢な左腕よりも強そうに見えるが、やはり本物の腕に勝ることはないのではと思ってしまう。

 左手には今まで無我夢中に作っていた雪玉が握られていた。ガラサが少年に投げたものより一回りほど小さく、少年の手には少し大きかった。

 何故か、差し出された手を暫く見つめて動きが止まってしまう。

「どうしたの?」

 普段なら差し出した手をすぐに握り返してくれる少年が、今この瞬間だけは逡巡する様子を見てティファは不思議に思い首を傾げた。口端に浮かべた笑いを引っ込め、微動だにしない少年の前髪から覗くウィスタリアの瞳を見た。

「どうしたんすかね?」

 念のため一度辺りを見回して軽い索敵を済ませたガラサも膝を曲げ、故障して突然動きを止めた機械のように固る少年を見た。ティファの指先に視線を固定させ俯いている少年の顔を覗き込むようにしゃがんだ。

 不意に動き出したかと思うと、口をパクパクと小さく動かしながらティファの指先と左手に握られた雪玉を交互に見た。

 その様子をただ静観する二人は益々意味がわからなくなり、顔を見合わせて首を傾げ合った。

 五回ほどじっくりと雪が舞い落ちるよりも長く時間をかけて視線を往復させた後、少年がか細く声を出した。

 少年の顔を覗き込んでいたガラサでも聞き取れないほどの声量で吐き出された声は、降り積もった雪に沈んでいく。

 何と言ったか訊こうととしたガラサだが、少年の声が音になる前の声を遮った。

「…………ア……、……アメ……、ト、ン…………」

 ティファは、軍に所属する以前、ギルトで平穏な暮らしを送っていた頃にたしなんでいたヴァイオリンの姿を思い出す。それも、弾いている瞬間を。

 ピンと張られた四本の線が、目の錯覚と疑うほど細かく震え音を奏でる。

 少年が絞り出すように出した声は、それに似ていた。

 緊張故か小刻みに震え、しかし声帯が奏でる音はヴァイオリンの音色のように澄んでいて、尚且なおかつ美しい。

「……ア……、アメトン……」

 再び、少年が同じ音色を奏でる。だが先程より僅かに、声に芯ができる。

 何故このタイミングなのか、ティファには皆目見当もつかなかった。ただ目を見開き、思考が停止する。活動を止めた脳内では依然少年の声が反響している。

 何と言ったのか、今の状況でも理解できた。

 名前を、呼ばれた。

 確かに、はっきりと、奏でる一音一音が鮮明に、ティファの名前だった。

「アメトン!」

 もう一度、今度は先程と比べて圧倒的に声量の大きい幼い声でティファの名前を呼ぶ。左手の雪玉を右手を添えて差し出す。

 その声に、止まっていた彼女の思考が弾丸のように速く流れ出す。同じくき止められた川のように停止していたガラサの思考も、同等の速さで動き出す。処理する情報が一瞬だけ爆発的に増加し、その処理で手一杯になるがやはり少年の声だけは反響し続けていた。

 やっとの思いで絞り出した声は、たった今眼前で起こった奇跡の事実確認。

「今、私の名前呼んだよね……?」

「ですね……」

 少年が差し出した雪玉に困惑しながら手を伸ばし、指先が表面に触れる。

 氷の如き冷たさが指先をじんわりと冷却し、指先を通う興奮して熱された血液が冷やされ、体を駆け巡った後に脳を冷やす。

 鮮明になった思考は正常を知らず、気付けば少年の両脇下に手を入れ持ち上げていた。顔は満面の笑みに昇る朝日を重ねたように、眩しい程の輝きを放っていた。

 ただ一つ、嬉しいという感情が全身を駆け巡る。

「名前呼んでくれた!」

 少年は危うく雪玉を落としそうになるが、慌てて固く握り直した。目の下に入った一筋の隈が消えるほど大粒の瞳を丸くする。

 ティファは何度も同じ言葉を連呼しながら少年を天高く掲げて、泥酔したような足取りでクルクルと回った。

 ガラサも初めて耳にする、心の底からの笑い声がどこまでも遠くへと風に乗った。


 タン。

 久しぶりに聞く乾いた銃声に、ティファとガラサは目を覚ました。戦地へ赴くようになってから会得した望まぬ能力だ。ただ戦地では身を守るために必須であるため、仕方がなく受容している。

 椅子に座りガラサの肩に頭を乗せて眠りに就いたティファは、瞳を白光に当てると同時に収縮したバネが元に戻るように立ち上がった。隣のガラサも背中を丸め少し屈んだ状態で起立。

 昨日の早朝にティファの名前を呼んだ少年は、二人の正面の椅子で穏やかな寝息を立てている。薄い唇が微かに開いて、定期的に靄が吐き出されている。

「アルゲンの残党……生き残りがいたのか……!」

 ガラサは続けて鳴った爆発音と銃声、悲鳴に音を発する正体を暴き短く叫んだ。

 椅子に放置したグローブを両手に装着しながら、真剣な顔つきで天井の穴を見上げるティファに向かって端的に言い放つ。

「俺が様子見てきます」

 言いながら部屋の最奥に置かれた二丁の自動小銃の内一本を手に取り、四つん這いになって出入口に通ずる狭い通路を抜けた。立ち上がり目だけを出して一度周囲を見回す。

 地面に開けられた他の穴から生き残りの兵士が顔を出し、敵に銃口を合わせ引金を引いている。その数も一人、二人と着実に減っていく。

 一際大きい銃声が絶え間なく鳴り続ける方を見ると、こちらと同じく傷を負った、ギルトとは違うアサルトスーツに身を包んだ兵士が引金を引いては歩き、引いては歩きを繰り返していた。その中に数人、無傷の者も混じっていた。時折手榴弾を投げ、数秒後に爆発音と悲鳴が大気を震わすように轟いた。

 一度頭を引っ込めたガラサはしゃがみ込むと、室内にいるティファに向かって慣れた口調で報告をした。

「この前の残党とたぶん応援の計二十人弱っす。どうしますか?」

「……伏せて」

 暫時、銃声と悲鳴と爆発音が空間を満たし、ティファの籠った声が短く応えた。声に緊張が滲み、闇に覆われた空から雪片が降った夜と同じ声音になる。椅子の上で寝ている少年の方へと歩いていくのがガラサの目に映る。

 言われるがままさらに身を低くして伏せると、直後鼓膜を破壊するような爆発音が轟いた。

 遅れて地面がボロボロと崩れる音。背中に細かい何かが落ちる感触がする。灰色の煙が視界を満たし、鼻腔を濃い火薬の臭いが刺激した。思わず咳き込む。

「大丈夫?」

 依然視界を埋める煙の向こう側から、ティファの声が聞こえた。

「生きてます」

 数日前から吹く冷風が煙を穴の外へ押し出していく。形成された部屋より少し広いくぼみの中に朝日が差し込み、視界を鮮明にしていく。

 顔を上げたガラサは身を低くしながら晴れた視界の中を前進した。

「そいつも大丈夫そうっすね」

 ティファの腕の中にある少年を見て、安堵の溜息を吐く。至近距離で轟いた手榴弾の爆発音に耐えかねて流石に起きたようだった。

 周りの状況を把握するようにキョロキョロと見回している。か細く縋るように「アメトン」と繰り返している。その少年をティファが頭を優しく撫で、抱き締めて宥める。銃声で掻き消されているが、微かに嗚咽も聞こえた。

「この様子だと即全滅だろうね。耐えられて数分……五分ぐらいかな……」

「ですね。どう―――」

 顔を出さずに敵兵がいるであろう方向を睨んでいたガラサは、ティファの意見に同意しながら彼女の方を振り向いた。そして口に出した言葉を瞬時に切る。

 ガラサの黄色い双眸に映るのは、まるで自分の子どもか、それに相当する少年を抱き締めるティファの姿だった。

 愛という漠然としたものが存在するのなら、この光景を呼ぶのだろうと、そう思ってしまう。

 目を伏せ唇を固く噛み締め、勢いよく立ち上がると、慣れ親しんだ自動小銃を敵兵へ向かって構え引金を引いた。顔の真横を弾丸が通り過ぎていく。

「何してるの⁉」

 珍しく感情的な声を出すティファに、再び唇を噛み締めてしまう。決して彼女に顔を見られることのないように、視線だけは敵兵を捉えて鋭く言い放つ。

「逃げてください!貴方なら、木を遮蔽物にして逃げられます。何のためにそいつのこと守ったんですか!何のために!ここにいるんですか!」

 感情的に叫ぶ自分に嫌気が差す。

「あの日、本当は貴方とここから逃げ出すために部屋まで行ったんですよ。今になって考えれば全部自分勝手な考えで、貴方が逃げるなんて選択肢を選ばないことも心の何処かで知ってました。でも!こんなろくに敬語も使えない、アルゲンの連中を殺すことにしか考えてない自分を誘ってくれた貴方を、ここで死なせたくはないんですよ。俺が孤児だって言った時、言いましたよね。『寂しい思いをする人を無くしたい。そのためにここにいるんだ』って。ギルトにいる妹さん、一人にさせていいんですか?」

 ガラサを制止しようとするティファの思考を、記憶の断片が一突き刺す。薄い唇に血が滲むほど悔し気に固く噛み締め、頭を二度左右に大きく振って立ち上がった。

「ガラサ……私を守れ」

 これで最後になるであろう命令をガラサの背中に向かって下す。

「了解です」

 地面に倒れている自動小銃を手に取り、少年を抱えたまま助走を殆どせず窪みの中から駆け上がる。

 即座に横にある太い幹に体を隠し、素早く辺りを見回して敵の射線を確認する。真横を弾丸が無数に通り過ぎていく。進行方向にある身を隠せそうな木を確認しながら、手に持った銃を背負い少年を抱える。

 一度大きく深呼吸をして駆け出す。

 決して少年が被弾しないよう敵兵に背中を見せて銃弾が飛び交う樹海を駆ける。当然のように一番目立つティファに銃弾が集中する。何度か服を掠めるが、致命的な一撃は負わずに木の幹に再び身を隠した。

 再度大きく深呼吸をして、銃撃戦の中へ駆け出す。

 二本、三本と身を隠しながら着実に前へ進んでいく。三本目から四本目に移動し身を隠す。ここまで来ると流石に銃弾も減るが、気を抜けば被弾する量ではあるため安心はできない。

 四回目の深呼吸で、乱れ始めた呼吸を整える。

 駆け出す。

「ツッ‼」

 一歩目を踏み出した瞬間、右足に焼けるような鋭い痛みが走る。鈍化したティファの肩と背中、横腹、足に数発、容赦ない追撃が入る。

 唐突の激痛に呻きながら倒れ、雪の中に顔を埋める。融けるまで熱した鉄を直接肌に押し付けられているような痛みが脳の奥を刺激する。今まで体感したことのない痛みに脳が支配されるが、侵食されず残った一部分で下敷きになっている少年を外へ出す。

「アメトン……」

 ティファの下から這い出た少年は彼女を見て何処か寂しそうな声音で名前を呼んだ。その上を無数の弾丸が飛んでいく。

「グッ!」

 ティファが発する普段の声からは想像できない、濁った音が苦しそうに出る。足に打ち込まれた感覚と同じ感覚が首の付け根のやや下に走る。

 今しかない……!

 体内から溢れず全身を巡っている血液を右腕に集中させ、自分の名前しか知らない無知の少年に行き先を示す。少年の顔を見ながら、たった一言絞り出す。涙は、出なかった。

「生きて…………」

 何を感じ取ったのか、言葉がわかったのかは知らないが、少年は這いながら前進し徐々に立ち上がって駆け出した。小さい体が、懸命に駆けていく。浅はかだが、少年の小さい体であれば、生き残れると思った。

 右腕の血を全身へ。背中の銃を前へ回し構えて引金を引く。

 君を拾うことに躊躇ためらったのは、君がアルゲンの人に多い銀髪だったから。

 君を守ろうと思ったのは、純粋に、私が寂しかったからだと思う。

 銃声と火薬と血と骸の中で、君に、昔の生活を求めていたんだと思う。

 君を、妹と重ねて見ていたんだと思う。

「結局、私も同類だったよ……」

 一言寂しげに呟いたティファの脳天を、銀の弾丸が貫いた。

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