第42話

「それに俺の彼女から電話で訊いた筈だ。コーヒーは好きなんだよ」


 堂々と言い、まだ熱いコーヒーを啜る。

 以前は、面白いくらい見事に紺乃の罠に引っかかった。


 だが、回りくどい真似が仇となったのだ。

 あれは罠ではない事にしてしまえば、滑稽な茶番でしかない。


 噓から出た実。本当にコーヒーが好きであれば、俺と萌奈さんが交際しているという事実を紺乃は切り崩せない。


「まさか、そんな……でも、兄さんはレモンティーの方が好きじゃないですか。幾ら冷房が利いているとはいえ、ここでコーヒーを飲む事はないでしょう」

「ああ、そう言えば、少し前まではレモンティーの方が好きだったな。今はコーヒーの方が気に入っているんだよ」


 その目が節穴じゃないなら、今見ている光景こそ、俺がコーヒーを好んでいる証拠だろう。

 お得意のコールドリーディングが、紺乃自身の首を締め付ける事になる。


「それは……嘘じゃないですか」

「いいや、嘘じゃない。隠し事や誤魔化しが嫌いな紺乃に、俺が嘘を吐く筈ないじゃないか。これ以上、恨まれたくないからな」


 人は変わる。日が沈み、黄昏に夜の帳が降りるように、変化は訪れる。


「……そう、ですか」


 紺乃は泣きそうな顔になりながらも、涙を流さなかった。


 俺の目に映ったのは……失恋をした少女の顔。

 そっか、紺乃は……本当に俺のことを好きでいてくれたのか。


「……兄さんの顔を見て嘘ではないことを確信しました。好きな人の恋する顔というのは、どうしてこんなにもわかりやすいのでしょう」

「そう、だったのか?」


 何となくわかる気がする。

 しかし、言われてすぐにそう自覚することは出来なかった。


「あれ、気付いていなかったんですか? 物心ついた時から一緒で、懐いていたのに、鈍感なんですね。それに、憧れているって言ったじゃないですか。才能だけじゃなくて、兄さん自身にも。そういう意味で言っていたんですよ」

「憧れの兄さんだと、理想の兄って意味に聞こえるだろ。気付かなかったよ」


 ずっと一緒だから、変化が無かったから、全く気が付かなかった。

 幼馴染であることは言い訳に過ぎない。俺がヘタレだっただけだ。


 俺が紺乃の恨みを勘違いしていた時点で、この恋には終点が無かった。


「彼女さんって、あの日私が話した人ですよね?」

「そう、小笛萌奈さん」

「一歩、私の行動が遅かったということですか」

「いいや、どの道惚れざるを得なかったよ。本当に素敵な女の子なんだ」


 惚気を話すのも申し訳ないか。

 結ばれたから思えることかもしれないが、萌奈さんに恋しない可能性を想像できなかった。


「ふふっ、兄さんにそこまで言わしめるなんて、降参ですね」


 紺乃は、失恋から目を逸らさず、受け入れているようだ。

 ああ、やはり紺乃は強い女の子だ。


「では、私は兄さんと小笛萌奈さんの婚約を祝福します」

「……ありがとう。紺乃」

「兄さんの恋が成就した事については、心から祝っているのです。だから、そんな顔をしないでください」


 紺乃に求めた祝福は、約束で取り決めたこと。

 だが、それが理由ではなく、本心からの気持ちであることを教えてくれる。


「私に残酷なことを言わせたとは、思わないでください。私が恋心を吐露したんですから、気にするのは当然かもしれませんけど、私が求めていないのです」


 そう言われると逆に気にしてしまうけど、出来るだけそう心がける事にしよう。

 またコーヒーを啜ると、紺乃がやや好奇心を顔に表しながら覗いてくる。


「コーヒー、気になるなら、飲むか?」

「いえ、気にならないと言えば嘘になりますが、コーヒーは好きじゃないので」

「苦くて飲めない紺乃は子供だよ」

「苦いから嫌いなんて……言っていません。私は、果実の甘みが愛おしいのです」


 俺がまだ幼かった頃、俺達が仲良くなった発端がレモンティーだった。

 この優しい味をくれた紺乃との思い出は、決して忘れない。


「子供の舌じゃあ、まだわからないかもしれないな」

「私だって、二、三杯飲めば、味くらいわかります!」


 そりゃ、紺乃は良い物ばかり食べて舌が肥えているから、間違ってはいないのかもしれない。


 もう紺乃の方が大人びている。

 初めて口喧嘩したあの日は、泣いていたのに……紺乃も変わっていたのだ。


「そうだな。とにかく、俺はコーヒーを好きになれたんだ」

「そっか。兄さんは、大人になったんですね」

「さぁな。ただ俺は……紺乃を妹のように見ていたのかもしれない」

「そう、ですね。私もそう望んでいたのかもしれません。いつまでも、タメ口で話せませんでしたから」


 言葉遣いにそんな理由があったとは初耳。

 単純に俺の方が年上だから、なのかと思っていた。


「妹は兄にタメ口を利いてはいけないなんて常識はない筈だけど、紅葉家ではそんな慣習があるのか?」

「いいえ。……兄はいつまでも妹の先を歩いてほしいじゃないですか。事実、兄さんはずっと理想の兄のような人でいてくれました。尊敬がないなんて、ありえません。敬語、気にしていたんですか?」

「紺乃がそうしたいなら、俺は気にしない。今までも、これからも」


 俺を兄のように呼んでいたことも、子供の頃の名残だと思っていた。

 しかし紺乃にとっては意味を持っていたことだったのか。


「……私も大人になればわかることなのでしょうか」

「それは、何を?」

「今、兄さんが抱いている恋情のことですよ」


 この温かさは、萌奈さんがくれたもの。

 紺乃が与える側になるか、与えられる側になるか定かではないけど――。


「いずれ、わかるよ。紺乃だって、好きになれる相手ができる筈だ」

「私の好きな人は兄さんですよ。失恋した今現在、とても複雑な心境です」

「そうだったな。悪いことを言った」


 好きでもない相手の為に許嫁計画なんて大掛かりなこと、普通は賛成しない。

 紺乃の答えは、すぐそこにあったのに……なんで今まで気付かなかったんだろうな。


「ねえ、兄さんをカッコいい兄のような存在として好きでいることくらいは、許してくれませんか?」

「カッコいいと付け加えると、ハードルが上がるだろ」

「……小笛さんも、本気を出す兄さんの方が好きになると思いますよ」


 回りくどいが、これからも才能を見せてくれ……という意味だろうか。


 正直、今更勉学やスポーツに打ち込む気はないのだが。

 でもまあ……萌奈さんにカッコいい姿を見せたい気持ちまでは、否定できない。


「まったく、紺乃は言葉が上手いな」

「それはもう当然じゃないですか。兄さんの才能の1%くらいは受け継がれているかもしれませんね。血は繋がっていなくても、兄さんの妹ですから」

「おいおい、兄のような存在じゃないのか?」

「そうですよ。是非、可愛い心の妹にもカッコいい姿を見せてください」


 見せて……って、紺乃はまだ中学生だろう。

 俺の学校へ入学くらいは権力を使ってできるかもしれないけど、学年が違う。


 いや、次会う時も誇れる自分でいてほしいってことかな。


「わかったよ」

「ふふっ、やった!」


 落ち着いて、再びコーヒーを嗜もうとした瞬間、扉が開いた。


「二人とも話は終わったか?」

「お父様、遅い!」


 そこに現れたのは、紺乃の父親である紅葉辰未さん。

 現れると思っていたけど、遅かった。

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