第41話

 二週間が経った。

 萌奈さんと協力して勉強した結果、俺は無事に学年一位の成績通知を受け取った。


 因みに萌奈さんは僅差で二位。彼女とは本気で競争しようと約束していたが、英語科目の予測点数が満点だと聞いた時には、流石に焦ったものだ。

 しかし、悠々としている暇は無い。


 父さんから突然連絡が届き、俺は紅葉家の屋敷へ入ることの許可が告げられた。


 加えて、少なからず情報も貰った。

 今の紅葉家には、紺乃の支持者が多い。

 先代当主の圧政に嫌気が差していた者は、予想以上に多かったらしい。


 しかし幾ら紺乃を支持していても、俺が過去に問題を起こしたのは知られている。


 そこで、彼らに許嫁計画を賛成してもらう為、俺の試験結果が決定打になったのだ。

 最初から、彼女は俺の外堀を埋める算段を立てていた。


 だが、俺もただで転んでやるつもりはない。

 辛子の抜かれたマフィンの件を思い出す。あれは滑稽な茶番だった。



 今日、久しぶりに紅葉家の広大な屋敷の門を叩いた。

 初めて見る使用人達が、すぐに歓迎してくれる。

 数年前とは、明らかに雰囲気が変わっていた。


 案内してくれる使用人は、椿さんと言うらしい。大学生くらい女性だった。

 この家の変化に戸惑うこともあったが、敷地内にある庭園などは懐かしい形を留めていた。


 夏にしか見られない絶好の緑。

 奥ゆかしさを残しつつも綺麗な水が風景を反射し映し出す池泉。

 何もかもは変わっている訳ではないらしい。


「椿さんは紅葉の分家なんですか?」

「そうですよー。使用人しているのは、ぶっちゃけ割の良いバイトだからですねー。お姉さんのこと、気になりますか?」

「ええ、まあ……見ない顔だったもので」

「ふふっ、ナンパなら今度にしてくださいねー」

「しませんよ」


 椿さんは中々フランクな人だったので、色々と訊いてみた。


 辰未さんを含めた紅葉家の重鎮達は今日も多忙で、顔を合わせることはないらしい。

 しかし彼らに俺を認めさせたい紺乃の策を考えれば、嘘だろう。


 或いは椿さんが知らないだけかもしれないが。

 紺乃の部屋へ着いて椿さんは去ろうとしたが、俺は彼女にあることを耳打ちしておいた。


「来たよ、紺乃。久しぶりだな」

「お待ちしていました。兄さん」


 ニッコリと微笑む紺乃が、俺に座るよう誘導する。

 テーブルに置かれた水面で氷が躍っているグラスが目に入る。


 朝から外は暑かったので、遠慮なく手に取った。

 懐かしい紅葉家の黄昏色レモンティー。


 市販のものより一層果汁が含まれて且つ、甘みを引き出している。

 でも、萌奈さんと飲むコーヒーには叶わない。


「紺乃は、支持を得るために俺の実力を表面化させる必要があったんだろ? 以前の演技には、恐れ入ったよ」

「こちらこそ、電話をした時に、気付かれているのかと思っていました。もう、最後の手段を取らざるを得なかったのです」


 俺が試験で才能を示さなければ、紺乃の野望も空中分解したはずだ。


 余計なことをしたと思わせて主導権を奪いたいのだろう。だけど、既に魂胆を見抜いている以上俺が怖気づいてしまうことはない。


「皆、口を揃えて言うのです。天才とは、世間に認められている者を指す、と。頭の固い大人たちは、世間の目ばかりを気にして、能動的に知ろうとしない。だから、兄ちゃんの才能を見せつけるしかなかった」


 紅葉家は分家が少ない。

 逆に言えば、少人数を納得させるだけで良かったのは紺乃にとっても好都合だった訳だ。


 口振りからして、もう殆どの支持が集まっているのがわかる。

 随分と世渡りが上手くなったものだ。


「紺乃は、俺が自分の意思で天才であることを望んでいたと思うのか?」

「兄さんには認められたいという意思があるはず。私は知っているのです」


 紺乃の俺に対する怨恨を勘違いしていた時点で、俺は才能を悪と捉えた。

 そう思っていた筈だった……が、本心は隠せないらしい。


(仕方ないか……そもそも俺が紺乃に惹かれたのは、彼女が世界で唯一俺を認めてくれる人だったからだ)


 しかし、それは過去の話である。


「紺乃が理解してくれていることは嬉しいよ。だけど――」

「だけど……?」

「もう終止符を打とうか。紺乃の願いと俺の願いは、決定的に分かれてしまっている」

「……兄さんの意思は、そこまで固いのですか?」


 人は変わってしまう。

 この家の庭園のように、その姿をとどめ続けることは出来ない。

 人間の心は脆くて、簡単に挫折を覚える。


「この世に、誰一人にも認められない天才はいない」


 凡人だって何か抜きんでた結果を残した時、自分に才能がある可能性を考える。


 俺も、そのような錯覚を抱いていた。

 もし、自分が凡人だったなら……それは酷く恐ろしいアイデンティティの欠如。


 時々天才である俺を見つけ出してほしくなって、こっそりと本気を出したこともあった。

 紺乃はいつも俺を認めてくれて、その言葉に俺は安心していたのだ。


「紺乃が、俺をいつまでも認めてくれるから、自信を無くさないで済んでいたんだ」


 多分、紺乃は俺に充実した日々を送ってほしかったんだ。


 昔の事件で心の後遺症が残っていたのは紺乃も同じだったのに、彼女は強かった。

 黄昏時の地平線に見られるような優しい光が、俺には眩しすぎた。


 その強さは俺の中には無かった才能で、理解から最も遠いものだったのかもしれない。

 だからあの日、誰かに認めてもらえたのが久しぶりで、喫茶店でレモンティーを注文してしまったんだろう。


 愛しい人の顔を思い出し、覚悟を決めた。初恋を終えて……そろそろ、自律しよう。


「あのぅ失礼します。コーヒーをお持ちしました」


 丁度その時、椿さんが扉を開き、頼んでいた物を持ってきたらしい。


 目を丸くする紺乃。椿さんは半笑いになりながら去って行った。

 この家も丸くなったもんだ。昔はもっと厳格な人が多かった。


「じゃあ、話の続きをしようか」

「何故、コーヒーを頼んだのですか? 懐疑的です」


 俺の変化に対する紺乃の驚きは、ありありと表情に出ていた。

 紺乃にとって、これは信じたくないことなんだろう。


「何もおかしい事はないだろ。喉が渇いていたからレモンティーは早々に飲み干してしまったし。丁度いいタイミングで、あのお姉さんがコーヒーを持ってきてくれた。それだけだろ」


 あくまで誤魔化す。そこから導き出される答えは、紺乃自身から出してほしい。


「兄さんはコーヒーを好んで飲みません。それも私の目の前でなんて――」

「そんなに変なことか?」

「当然です! 私達が共有している秘密の質問の答えは、ずっと変えないって約束したじゃないですか!」

「人の好みなんて、変わってしまうものだろ」


 はぐらかすが、紺乃はきっと気付いている。

 態々コーヒーを頼んだのは、それがレモンティーよりも好みだという宣言なのだと。

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