第34話
伊織さんが、帰ってしまった……というより今日ばかりはあたしが追い出してしまった。
雲一つ見えない青い空に、さようならを唱える。
あたしは、窓の外の夕焼けを見上げながら、その場に佇んだ。
鮮やかに移り変わる外の世界と違って、あたしのいる場所は殺風景に思える。
皮肉にも、伊織さんが早く家を出ていったために静かな時間だけは残っていた。
その時間を使い、過ちを思い出す。
気付けば、まるで懺悔するように自問自答していた。
「あたしはどうして、鹿波を演じなかったんだろう?」
伊織さんを説得させた理由は、筋が通っているだけで本心ではなかった。
本当は、自分でも戸惑っていたこと。
演じるつもりだったのに、あの時出なくなってしまった声。
あの時、無意識じゃないけど、金縛りに駆られていて、自分の名前を出してしまった。
実際、伊織さんの彼女を名乗った時、何かから解き離されたように気が楽だったのだ。
「あたしはどうして、伊織さんの好みを知らなかったんだろう?」
答えは単純明快、騙されていたから。
そんなことわかっているけど、その回答に納得できない自分がいる。
好奇心で、ロシアンティーとハニーコーヒーのどっちが好みなのかまでは訊いていた。
もう少し彼の好みに踏み込んで問うていれば、レモンティーについても訊くことが出来た気がする。
そうすれば伊織さんが嘘について教えてくれていたんじゃないかって、可能性を探って後悔が見つかる。
だって、あたしは伊織さんがレモンティーに特別な思い入れを持っていた事を何となく察していたから。
それは、今日のことを踏まえてのデジャヴなどではない。
以前、レモンティーを嗜む伊織さんの顔が印象深かったからだ。
何かに一途な想いを寄せるような顔が、あの一度きりで、あたしはもう一回その顔を見たかったんだ。
何度か家に招待した際、伊織さんの好みに合わせてハニーコーヒーを出すことで、あの時以上の顔を見ることができるんじゃないか……って内心考えていた。
それでも見ることができなかったから、友達に目新しい紅茶の存在だって訊いた。
あたしなりに頑張った……でも、あの顔は引き出せなかった。
「あれ、何でこんなにも伊織さんに気を遣っているんだろう? ……おかしいよね」
勝手にお節介な気持ちを抱いて、それが叶わなかったから悲しんで……そんなのただの自己満足。伊織さんと一緒に過ごすこと事態が、もう既に自分を満足させていた筈なのに、あたしは欲張り者だ。
思い返してみれば、昔から欲求の強いことばかり空回りしてきた。
ツインテールがわかりやすい証拠。
やりたい事を自ら拒んで、その場しのぎで誤魔化す。
役にも立つから悪い癖とは言えないけど、今回に関しては伊織さんの要求を拒んでしまった。
隣にいて欲しかったのに、帰らせてしまった。
欲求に素直じゃない自覚はある。
「じゃあ、些細な嘘に感情が昂ったのは、どうしてなんだろう?」
好きな飲み物程度嘘吐かれたところで、一体何だと言うんだ。
多分あたしは気付いちゃったんだ。
――伊織さんが紺乃さんの事を想っていることに。
電話越しの声に耳を傾ける伊織さんの顔は中々見ないもので、印象深いものだったから。
紺乃さんと話している彼の顔は、レモンティーを飲んでいた時の顔とそっくりだったから。
初めてあたしと喫茶店でお茶した時でさえ、きっと心の中にはさっきの子がいて、思い出すだけで悔しくなってくる。
まるで取られたような感じがした。
伊織さんはあたしのものではないけど、伊織さんの隣はもうあたしの居場所なのだから。
「……寂しい思いは、もう限界なの」
いつからなのかは、わからない。
少なくともあの日には、我慢できなくなっていたんだと思う。
それは、伊織さんと仲良くなったきっかけの日のこと。
あの日は元々、あたしにとって特別な日だった。
それまで隠していたオタク趣味を誰かと共有したくなって、初めてパパに我儘を言った日だったのだ。
男子達は論外として、ママや鹿波、真澄相手には反応が怖くて出来なかったから。
でも、誰かと楽しい思い出を作りたい、と思うのはおかしいことじゃないと思う。
パパに自分の趣味を知って欲しかった。
お世辞でも理解を示してくれれば、最高に幸せな日になると思い描いて、止まなかった。
心が躍り過ぎて、燥いで、新刊の発売日だと思い出して、パパを置いて走り出したくらいだ。
興味を示す素振りの一つでもあれば、充分だった。
そんな自己満足が強く色濃く吹き出すくらいに、孤独から生まれた飢餓感に苛まれていたのかもしれない。
あの時、あたしの充実は最高潮だった。でもあのままだったら、あたしはダメになっていた。
また独りに戻った時の喪失感で、同じ苦しみを繰り返したんだと思う
だけど、その日は本当に幸せで、パパの代わりに満たしてくれる人が現れた。
ううん、満たしてくれると見込んで、パパの代わりを押し付けてしまった。
パパが仕事に行ったことで生まれた喪失感が、そばにいてくれる存在を強く求めていた。
同じ趣味を持つ理解者で、パパに劣らない才能を感じさせる伊織さんは適格だったのだ。
それなら、その後伊織さんと過ごした時間の楽しさは、あたしの依存が引き起こした錯覚?
まさか、そんな訳がない。
それが真実であることを胸の奥で芽生えた何かが教えてくれた。
「この……淹れたてのコーヒーのように温かい想いは、なんだろう?」
初めての感覚で戸惑ったけれど、ようやく理解できた気がする。
苦い真実と紙一重の甘い想いが、心に浮上した。
「空っぽの心を満たしてくれたのは……この温かみをくれたのは、誰?」
先ほどまでよりも、はっきりと声にしたからなのか、閑散とした部屋に雑にも木霊した。
あたしの質問を聞いた者が答えた。
あたしが断言した。
「伊織さんだよ」
恋をしていたんだ。
それが、寂れた部屋にばら撒いた全ての質問、その白紙の回答欄を埋める唯一無二の正解だった。
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