第33話

 紺乃との電話が終わり、丁度……萌奈さんが緑茶を運んできてくれる。


「お疲れ様。はい、お茶」

「ありがとう。お陰で、思ったよりも簡単に解決できそうだ」

「それは何よりだよ~」

「それはそうと、さっきの、一体どうしたんだ? 自分の名前を出して」

「……あー」


 萌奈さんは目を逸らし、訊いてほしくなかったという思いをひしひしと醸し出す。


 鹿波さんを演じるという予定だった筈だろう。


 どうして、自分の名前を出したのか。

 結果的に、それで都合が良かった事もあるけど、説明はして欲しい。


「もしかして、ジョシュさんに彼氏として伝わったから、仕返しのつもりとか?」

「え……? そんなつもりじゃないよ。ほ、ほら、鹿波にだって悪いでしょ? 勝手に名前使われたら。そう思い直して……ごめん」


 萌奈さんの言う事にはもちろん一理ある。

 一通り俺の事情を話した後、萌奈さんには分かりやすく迷いがあった。


 だから元を辿るならば、これも紺乃からの電話を利用しようと考えた俺の責任だ。

 なのに、どうにも神経質になってしまう。


「それも、そうだな。鹿波さんの事を考えれば、これで良かったんだよな」


 俺の言葉に対して、今度は萌奈さんの方が辛気臭そうな顔をする。


 何をそんなに苛立っているのかわからないが、この話は一旦やめた方がいいだろう。

 俺だって萌奈さんと雰囲気を悪くしたくない。


「じゃあ次の質問、俺を引き離して、紺乃に何を言われたんだ?」

「あー、あれね……あたしも意味がわからなかったよ」

「何の話だ?」

「伊織さんの好きな飲み物は何か、教えてほしいって言われただけ。伊織さんの好みをただ知りたかったんじゃ――」

「……嘘だろ」


 手に持ったコップを静かに置くと同時に、手が震えているのがわかった。


 それは些細な質問じゃない……紺乃の罠だ。

 当然のように、紺乃は俺達を疑っていた。


 紺乃が最初に詮索してくるなら、その部分だとは思っていた。


 その質問の答えは、俺が紺乃と共有している秘密の合言葉。

 俺が本当に信頼している相手にしか話さないと、紺乃もわかって尋ねたのだ。


「伊織さん……? どうしたの?」

「その質問に、コーヒーと答えたんだろ?」

「うん。そうだけど……え、そうでしょ?」


 俺は頭を抱えた。あまりにもタイミングが悪すぎた。


「そうだよ。でも、違うんだ。それは最近の話で、少し前まではレモンティーが最も好みだったんだ」

「ってことは……」

「ああ。だから、その回答は不正解で……俺達の演技は見破られた」


 紺乃は確実に俺と萌奈さんが恋人関係でないことを見抜いた。


 俺が本気なら、これを警戒して本当に好きな飲み物を教えるだろうことさえも、紺乃は見抜いている筈だ。


 いや、落ち着け。よく考えるべきだ。少なくとも、約束を守れば紺乃の意思を拒絶することは出来る。


「ねえ、少し前っていつ?」

「萌奈さんと出会った後では、ある。黙っていて、ごめん」

「……そう、なんだ」


 寂れた声が、部屋を木霊したようだった。

 好きな飲み物を知らないだけで、演技が見破られたなんて、普通はおかしいと思うだろう。


 しかし、萌奈さんは状況を理解しているみたいだ。

 そっか、俺の顔は表情を見れば、とても分かりやすいのだった。参ったな。


「でも、萌奈さんの事を信頼していなかったから、教えていなかった訳じゃないよ」

「……うん。それは、わかるよ」

「この家のコーヒーは本当に美味しかった。噓から出た実になってしまっただけなんだ。不運な事故だったんだよ」


 真剣な言葉を投げかけると、萌奈さんは頷いてくれるものの、顔を合わせてくれない。


「もしかして、鹿波は知っていた?」

「……知っている。前回のデートの時に教えていた」

「そっか、あたしが鹿波のフリをしたところでどの道誤魔化せないことだったんだ。あたしは、鹿波じゃないから、結局あの質問を間違えていた」


 萌奈さんは一切ふざけた様子がなく、落ち込んでいた。

 どうにも、自分に責任を感じている様子。


「これは、俺が悪かったよ。俺の目的を自分の事のように付き合ってくれるのはありがたいけど、一旦情報を整理しよう」

「そうだね。でも、ごめん。ちょっと一人になりたいかも」

「…………え?」


 思いもしなかった言葉に、動揺が隠せない。


「今日は、お開きにしておこうよ。ね?」


 萌奈さんはバッサリとそう言った。

 説得するための言葉が、全く頭に浮かんでこない。家主にそう言われたら、ここは苦々しくも退くべきだろう。


「……わかった。ごめん、萌奈さん」


 俺は無言で支度を済まし、自ら外に出ることにした。




 ああ、なんで逃げたんだろう。人と関わればこういう事もあるとわかっていた。


 なのにナイフのように鋭く突き刺さるのは、萌奈さん相手だからだろう。


 萌奈さんの自室は、趣味で溢れた空間などではなく、無数の書物が積みあがった勉強部屋だった。萌奈さんはあの寂れた空間を居場所にしている。


 それを知って気が引けていたから、邪魔をしたくなくて逃げたのかもしれない。


「本当に……それだけなのか?」


 そこで、心から湧いてくる妙な感覚に気付いた。

 この気持ちは……甘いのに苦くて、さっき飲んだロシアンティーを思い出してしまう。


「でもはっきり言って、今感じている後味は良くないだろ」


 過去の事件とは違い、燻る余燼もない気がするのに、欠けているものを感じる。

 それを示すように、心が窮屈で苦しくなっていた。


(きっと萌奈さんの優しさを無碍に扱ってしまったから、こんなにも後味が悪いんだ)


 兆候はあった。妙な気持ちがずっと心に引っかかっていた。

 鹿波さんとデート途中でさえ、度々湧いてきていた想い。


 さっきも、萌奈さんに負担がかからない事を考えて、それが油断に繋がった。


 他人と広く浅くの関係を続けてきた俺にとって、萌奈さんといる時間は新鮮なものだった。

 突き放されて初めて、そこにある気持ちを自覚した。


「好き嫌いに迷いが生まれる訳がないなんて、嘘だった訳だ。我ながら鈍い」


 彼女がくれた甘みと苦みが混ざってしまえば、気は楽なのかもしれないが、この気持ちを自覚できなかっただろう。


 だけど、曖昧な生き方はもうやめよう決めた。

 大人になろう、なんて考えてきたけれど、自分に嘘を吐いて誤魔化していただけに過ぎなかった。

 だから、これからは認めたい。


 萌奈さんと過ごす時間が、大好きになっていたんだと。

 萌奈さんの事を異性として好きになっていたんだと。

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