第32話

 さて、萌奈さんはどう答えてくれるのか……。


「はっ、はい? えぇそれはもう当然! あたしと伊織さんとはそういう仲なんだし……愛していますとも」


 滅茶苦茶動揺しているが、恋人を演じる上での反応としては悪くない。


 こんな状況なのに、ちょっと本気で萌奈さんを意識してしまったくらいだ。

 そして、次には大きな溜息が聞こえ出す。


『はあ……どうやら、本当みたいですね』

「紺乃、俺のことは今まで通り恨んでくれていい。でも、今回は祝福してくれないか?」


 自分でも驚くほどポロッと出た大胆な言葉に、萌奈さんが驚いた表情を見せる。

 いっそ、今だけは俺も騙されてこの演技に興じたかったのかもしれない。


 祝福するという事は、紺乃が俺と萌奈さんの婚約を認めるという事と同義だ。

 すなわち、許嫁計画の破綻を果たせる。


『祝福は、イヤです。でも、そうですね……兄さん、少し小笛さんと二人きりで話させてくれませんか? そうして納得したら、考えましょう』


 何の意図があるのだろうか。

 もしや、小笛家という存在が、俺と萌奈さんの婚約に介在している事を疑っているのか?


「あたしはいいけど、伊織さんが決めてくれる?」

「……紺乃の提案を飲もうと思う。部屋から出て行けばいいか?」

「そうすれば、まぁ聞こえないとは思うけど」


 なんだか不安そうな顔を見せる萌奈さん。

 確かに怪しい提案だが、断るメリットが俺にない。


 萌奈さんには言いたいことが沢山あって、信用していいのか戸惑う部分も無いと言えば嘘になる。それでも俺は、萌奈さんを信じたかった。

 目が合うと、ニッコリと笑って頷く萌奈さん。


「終わったら声をかけてくれ。……頼りにしているから」


 冷房の利かない廊下は暑かった。

 扉を背に向けてみるが、会話の声は一切聞こえない。


 すると閑散とした廊下から、漏れているらしい光が見える。


 確か、萌奈さんが自室だと教えてくれた部屋。

 どうお願いしても見せてくれなかった部屋の中に近づくと、少しだけ中が垣間見えた。


 もうちょっと近づこうとしたところで、背後から声がかかる。


「伊織さん、お話終わったけど、代わってくんない?」

『兄さん、代わりましたか?』

「ああ、萌奈さんとの話は十分なのか?」


 リビングへ戻ると紺乃は相変わらず少し寂しげな声色。


 どうやら何事もなかったのだと安堵した。

 そして再び食器洗いに戻る萌奈さん。

 役目を終えたのだと目配せしてくれた。


『ええ。小笛さんがとてもいい人物であることは理解できました。ですから、私も祝福したいのです』

「なんだよ……最初からしてくれればいいだけの話じゃないか」

『乙女心は、複雑なのです。ですから、兄さんへ最後のお願いがあります』


 萌奈さんに電話を代わる際、紺乃が言った「祝福を『考えましょう』」という曖昧な表現が引っかかっていたが、まだ何かを諦めていないらしい。


 しかし祝福されるだけのために、変なお願いを受け入れる必要はない。

 断る準備は出来ている。


「なんだ? それで祝福してくれるなら、聞くよ」

『もう一度だけでいいので、兄さんの才能を見せてください。そろそろ、期末試験が近いんじゃありませんか?』


 俺の学校の話が当たっていて、俺は警戒を高める。

 今までも俺の才能を恨んでいる筈なのに、何故そんなことを望むのだろうか。


 既にこちらの旗色は良い。

 断ってもいい提案だが、俺は乗る。


「わかった……って言っても、紺乃は中学生だし、何をどう見せるんだよ」

『紅葉家を甘く見ないでください。結果を残すだけで私も確認できます』


 学校の高い位置に紅葉家の人間がいるのだろうか。

 そうなると、やはり今俺が学校にいるといった嘘を吐いていたら危うかった。


「それだけで、いいのか?」

『はい。私は、ただ信じたいだけですので……学年一位を取ってください』


 まあ試験で才能を見せるって考えるなら、それは数字を出すことを意味する。

 しかし簡単に言わないでほしい。


「……中々難しいんじゃないか?」


 試験教科には当然俺の苦手な英語が含まれている。

 それを紺乃はわかっているはずだ。


 だからこそ首位を勝ち取れば俺の才能が本物であるとでも、信じているのだろうか。

 流石に無茶な提案だ。


『冗談を言うんですね。もしも、私のお願いを叶えてくれたら、もう私から許嫁になることを求めたりしません。兄さんと小笛さんの恋仲を邪魔しないという意味です』

「……なっ」


 願ってもない報酬に言葉を失う。


「約束、忘れるなよ?」

『もちろんです。では、小笛さんとの時間をこれ以上奪うのも申し訳ないので、これで失礼致します。試験の結果、楽しみにしていますね』


 最後の一言だけ、やけに本心からの嬉しそうな声色。


 どうして、そんなに俺の才能を見たがるのか。

 やはり、俺に罪を思い出して反省してほしいのだろう。


 気付けば期末試験まで二週間を切っている。

 英語ばかりは少し心配だけど、萌奈さんがいるし、そこは何とかなる気もしている。


「ちょっと待て、紺乃。元々は何の用で電話してきたのか、教えてくれないか?」

『ああ、あー、兄さんと話したかっただけですよ? お気になさらず』


 何かを取り繕うように、引っ掛かりのある前置き。

 まるで、要件が思わぬ形で叶ったような……そんな声音だった。


「……そうか、わかったよ。また、な」

『はい! また近々に』


 ようやく悲願と言ってもいい願望を果たせる目途が立った。

 通話が切れて、身体に力が入らなくなった俺はソファーに寄りかかる。


「はっ、はは」


 勇気を出してみるものだ。

 今まで紺乃に向き合うのが怖かったのかもしれない。


 乾いた笑いを自分で聞いて、俺はただ――喉が渇いていた。

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