7

 目が覚めた。あたりを見回して、ここを海だと認識する。神様の体はふわふわとしていて、妙に軽かった。


 海子への感謝を噛みしめながら陸に出た。街は冠水していた。泥色の液体が建物や人々を飲み込み、消化せず胃にたまったままだった。どんよりとした光景を前に、僕の足は動かなかった。いっそのこと海に戻ってしまえば、とも考える。


 動かないのであれば戻る足もない。僕は立ちすくんでいた。やがて右足が、なんとなくの一歩を踏み出す。きっかけはわからない。僕の意思とは裏腹に、その足は、一歩一歩と、濁流で汚れた地面を踏みしめた。


 この足は神社に行き着いた。そこはもぬけの殻も同然だった。


 瓦礫の一つに座り込む。完全に壊れてしまっては、再建にどれほどの時間を要することやら知れたもんじゃない。それに加えて、再建されても僕はそこでは祀られない。何故なら僕は神社とリンクせずに海から直接生まれたからだ。だからこれから先、海神を信じてここへ参る人をずっと騙すことになる。


 心苦しいが、少しでも島民を救うにはこうするしかなかったんだ。


 もう一度言うが、この選択に後悔はない。ただ、島の惨状が受け入れられずにいるだけだ。だけ、と言っても、それは随分と巨大で残酷でどうしようもない事実なのだが。


 水がしみ込んで色濃くなった木を呆然と眺める。木々も見事に薙ぎ倒されていた。深緑の葉は泥に塗れ、その美しさは失われている。


 こんなところで物思いに耽ったってどうしようもないことぐらい、わかっている。でもそれ以外に僕に何ができるというのか。島民と合わせる顔がない。


「夏樹」


 聞こえてきた声に顔を上げる。幻聴なのは承知でその行為に及んだ。しかし、目の前には、ポニーテールを揺らす、泥まみれの少女がいた。たしかに存在していた。何十年も傍にいた人。僕の決断を導いてくれた人。


 大切な人。


 チープな言葉しか浮かばない。僕はその学の浅さを恨んだ。


「落ち込まないで」


 海子が背中合わせに座る。


「声にハリがない。海子も落ち込んでるだろ」


 返事はない。代わりに鼻をすする音が聞こえてきた。海子らしからぬひどく震えた呼吸だった。


「せめて神様だけは元気でいて」


「無理だよ。神様だって、心を持ってるんだ」


 神様なんて、人間の延長線上にある存在だ。心があって、でもちょっとだけ人間と違う。


 だからこそ、時々迷子になるし心を腐らせる。陸の神だってそうだ。神様は暴挙に出ないと信じられてきたが、陸の神はその期待と信仰を裏切った。彼の心がそうしてしまった。


 そして世界は一変した。大地が揺れ、建物は崩れ去り、心には虚しさ、世界には虚が去来した。


 島に残されたのは泣き叫ぶ島民の心と不甲斐ない神様だけ。それ以外は空っぽだ。


「だから、僕には何もできない」


 結局、海子の生存を確認できても、高揚感は訪れなかった。




 目が覚めると、薄暗がりの中だった。僕はそこで気づく。あのまま座ったまま眠ってしまったのだ。


 背中越しに海子の寝息が聞こえる。呼吸のリズムに合わせて揺れる体は、昨日よりも断然、華奢に思えた。


 立ち上がると、さっきまでなんともなかった体に、突如として眩暈が襲い掛かってきた。立ち眩みの比ではない。


 朦朧とする意識の中で僕は原因を探した。それにはすぐに思い当たった。


 昨日から水を一滴も口にしていないのだ。海神は料理よりも断然水分が命だ。うっかりしていた。何故それを忘れてしまっていたのだろう? 海神になったという自覚が足りていなかったんじゃないか?


 徐々に意識が遠のき始める。やがて、体は平衡感覚を失う。直後、硬い感触が全身を支配する。地面だ。


「夏樹!」


 口に何かが当てられる。ゆっくりと生ぬるい液体が流し込まれていく。

  

 体が生気を取り戻していくのを感じた。


 開けた視界に映ったのは海子だった。ペットボトルを片手に、潤んだ瞳でこちらを見つめている。そういえば、昨日も同じのを持っていたな。僕は水分補給品を見ていながら水分補給を忘れてしまっていたのか。飛んだ間抜けだ。


「ごめん、僕」


「気にしないで」


 屈みこんでいた海子は立ち上がる。どこかに歩いていく。僕はその光景を寝転んだまま眺める。


「どこにいくの」


 まだ声は本調子ではなかった。しかし、行き先を知らないのは不安だった。


「水、海で汲んでくる」


「僕も行く」


 僕は重々しい動作で立ち上がる。その直後にはもう転びそうになった。海子が肩を貸してくれたのでなんとか負傷せずに済んだ。そのまま歩いていると、数分後には一人でも歩けるようになっていた。危うく脱水で死にかけたとは思えない立ち直りぶりだ。


 その一方で、気持ち的な整理は未だ着地点は見えず。僕は靄のかかったような心をどうにもしてやれなかった。


「私たち、何してるんだろうね」


 まだ海を見下ろすには余裕のある中腹辺りで、海子は立ち止まった。


「現実逃避」


 海子は笑った。それは口元がうっすらと笑った程度だった。こんな状況で心から笑ったならば、僕は彼女を突き放していたことだろう。薄い微笑みで感傷に浸るぐらいが、今は丁度良い。というか今はそうするべきなのだ。笑顔は人間を救うと言うが、それは必ずしもとびきりの笑顔というわけでもあるまいし。


「逃げたってどうしようもないのにね」


 海子はぽつりと呟く。


「結局、僕も海子も、自分さえ逃げられたら十分なんだ。最低だ」


 海に水を汲みに行って、どうする? 


 神社に戻る。それだけだ。


 海神と出会った——否、出会ってしまった地を、ずっとずっと懐古するんだ。はかない夏の記憶を思い出しては前に進まない。僕らは停滞して感傷に浸り続ける。


 砂浜はプラごみや缶、瓶、その他破片で足の踏み場もなかった。人間が見て見ぬふりをしてきた、海に捨て去られたゴミたちは今何を思うのだろう。「足の踏み場をなくしてやったぜ、へへ」とせせら笑っているのだろうか。


「こんなに汚いと、汲みたくなくなるね」


 海子は波打ち際まで歩く。しかし水を汲むことはなかった。砂浜に座ってぼんやりと水平線を眺めていた。僕もそうしていた。


「おい、そこの嬢ちゃん。暇してんなら手伝ってくれねえか」


 背後から威勢の良い、年を食っていそうな声が聞こえてきた。振り返ると見知らぬ中年が立っていた。首に巻いたタオルからは水滴が絶え間なく滴っている。


「人手不足だ。子供に重労働させるわけにもいかねえし……ほら、立て立て。ここで黄昏てても、何も始まらないぞ」


 中年が声をかけたのは海子だ。瓦礫の撤去作業をしている方向を指さして言う。僕には目もくれず、歩いていこうとする。


「あの、夏樹が見えないんですか?」


 海子が言った。中年は首を傾げ、「ナツキ?」と尋ねた。


「そうです。さっき私の隣にいた」


「いや、俺が見た時は嬢ちゃん一人だったぞ。今もな」


 中年には僕が見えていない。


「あ! なつきくん」


 と、奥から小学生ぐらいの子供が走ってくる。それは見たことのある顔だった。いつも神社で遊んでいた子だ。一人じゃない、三人いた。全員が僕を目掛けて走ってきた。


「なんだ、そのナツキって奴が見えるのか」


 子供たちは神社で僕とよく遊んでいた。海子は幼馴染で、ずっと僕と過ごしてきた。しかし、この中年は……そこそこ広い島だ。顔ぐらいは見たことがあるだろうが、関わり合いに発展した記憶はない。


 つまり、僕を視認できる人間は僕とリンクしているのだ。あの神社のように。


「うん! 前と違って透明で、すごいきれい! ねえねえ、どうしたらそんな綺麗になれるの?」


 子供がはしゃぐように言う。その途端、中年の目の色が変わった。


「透明ってまさか……海神様じゃないか!」


 中年は声を張り上げた。


「お父さん?」


 子供が中年を怪訝そうな顔で見上げる。彼らは親子なのだろう。よく見ると顔立ちもそっくりだ。


 中年は自分が取り乱していることに気づき、「いや、多分気のせいだ」と続けた。


「まあ……嬢ちゃん、手伝ってくれ」


 中年は困ったような表情を浮かべて立ち去った。海子も僕のほうを振り向いて苦笑いを浮かべる。


 僕が手伝いに向かったところで、一部の人間にしか見えないのだ。となると、僕にできることは限られてくる。それどころか何一つないかもしれない。恐らく、海子のこの表情は、それを懸念してのことだろう。僕を邪険にしたくないのだ。全員に見えてほしいのだ。


 それは、叶うことのない願い。


 心配してくれるのはありがたいが、状況的に僕のことを気にしている場合ではないだろう。


「行ってきなよ」


 僕は薄笑いを浮かべた。


「でも」


「君は手伝いたいと思ってるんだろ? つまり現実と向き合ってるんだ。せっかくいい方向に向かってるというのに、僕といっしょに居るとそれも逆戻りだ」


 海神ゆえに何もできないと決めつけてしまった僕と、スタート地点に立とうとしている海子。正反対な僕らは、今、何があってもいっしょに居ちゃいけない。


「ここでお別れってわけじゃない。また会えるよ」


 海子は目尻にたまった涙を拭こうともせず、僕に抱きついてきた。


 もしかしなくても、僕は彼女に比べて楽観的なのだろう。この期に及んでも、「また会えるからいいや」と思ってしまっている。


 それは別れるには都合が良い。でもほんとにそれでいいのだろうか。僕は今ここで海子と別れて、海で暮らして、堕落していくのだろうか。


 最後まで僕は変われなかった、とこの日を悔やみ続けていくのだろうか。


 せめて、僕にできることがあれば——。


 そんなものは、いくら考えても思い浮かばなかった。


 僕はなまじ海神になったわけでもない……と信じていたが、どうやらそれは傲慢だったようだ。


「また会える、なんて偶然には期待しないよ。私は自分の足で夏樹に会いに行く。どうせ、すぐそこの海にいるし」


 僕の胸の中で海子が笑った。

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