6

 目を開くと真っ黒な天井が飛び込んできた。数秒後にそれを空だと認識する。どうやら僕は長い間眠っていたみたいだ。


「起きた?」


 海神の声だ。


「ごめん、辛かったよね。私が調整を誤ったばかりに君を苦しめちゃった、本当に、ごめん」


 僕は突然体を包み込んだ温もりに、「別に構わないよ」と言いかけた口を閉じた。


「よかった、夏樹……!」


 海子が抱きついてきたのだ。海は冷たいけれど、彼女の体温と吐息、心は温もりをもって僕を包み込んだ。


「ごめん、海子」


「謝らなくていいんだよ」


 僕らは、夜が明けるまでずっと抱きしめあった。




「ここが、陸の神の住処さ」


 一夜が明けた午前六時。僕らは陸の神の住む山に来ていた。


その山は仙人の住処のような、荘厳な空気感だった。山道はまるで富士の樹海のような他とは違う異質さを放っていた。


 でも、それがなんだ。僕は海神の合図をもらうと構わず破壊していった。握りしめた拳にたぎる衝動を山にぶっ放した。木が揺れ、かさかさと葉が擦れ、大地が揺れた。空をも裂きそうな轟音と僕の叫び声がやまびこになっては消えてゆく。


 海神は海神で生まれ持った力があるらしく、雨を降らし続けていた。途中から雹に変わったときは痛かった。


「何をしている、海神! 人間!」


 突然声がした。僕は破壊を中断して振り向くと、そこには少年がいた。


「ここは僕、陸の神の住処。神聖な場所だ——!」


 なるほど。この少年が陸の神か。


「お前だって海を汚したくせに! 文句言われる筋合いはねえよ!」


「黙れ人間! 貴様らが陸を汚したのが悪いんだ!」

 神を気取った子供のような、生意気な口調だった。


「でも陸を綺麗にする方法なら他にもあっただろ! 何故海に投げるなんて馬鹿な真似をしたんだ!」


「嫉妬したんだよ! 海神ばかりが参られて、僕のとこには誰も来ない。悲しかった。だから海神が憎かった!」


 僕を指さして散々怒り狂った陸の神は唇を嚙みしめる。その涙目は僕に「降参しろ!」と訴えかけているように見えた。降参する気なんて毛頭ない僕は彼を睨みつけた。両者にらみ合いが続いた果てに、陸の神が先手を打つ。彼は自らの手から巨木を生成したのだ。僕は食らいつくように彼のもとに走った。巨木を投げられる寸前のところで破壊し、陸の神を突き飛ばす。突き飛ばすなんて言うと生易しく聞こえてしまうが、実際は拳で思い切り殴っていた。


 陸の神は即座に体制を立て直し、球の形をしたコンクリートを生成する。


 投石が始まり、それはあちこちに衝突して砂埃を立てた。大好きだった陸地を破壊する陸の神。それはどこか滑稽にも思えた。


 せめて海子には当たらないようにと、僕は警戒した。


「くそ! 当たらない!」


 地団駄を踏む陸の神。その隙をついた海神が雹の塊を降らした——。


 それは陸の神に大打撃を与えた。砕け散った雹の後に苦痛に顔を歪める彼が見えた。神様が苦痛に顔を歪めているのを見ると心臓が締め付けられるような感覚に陥る。だが戦いをやめると僕がここに来た意味はなくなる。そんな虚無感を味わうぐらいなら、心を殺してでも戦うべきだ。


「勝った!」


 僕はガッツポーズをしてみせた。

しかし、勝利を確信するにはまだ早かった。陸の神はほくそ笑み、巨木を生成。


「危ない!」


 海神が叫ぶ。


僕は海子を抱きかかえて走った。その途中で何かに躓いて転んでしまった。けれども巨木は陸の神の僅かなコントロールミスで僕らの眼前に墜落。死は免れた。


反撃するための体力が僕にはなかった。海神も顔中傷だらけで、青い半透明の肌に赤い血が滴っている。


「結局逃げることしかできない! だって愚かな人間だから!」


 陸の神は再び巨木を生成し、投げた。それが飛んで行ったのは僕らの方向じゃない。神社のほうに向かっていた。


 神社が壊されると、どうなるのか。答えは明々白々だった。

 

 ——海神が死ぬ。


海に次ぐ第二の命ともいえる神社。それが壊されると、彼女の存在は跡形もなく消えてしまう。そして、神の統制を失った海は、荒れだす。


 こればっかりは僕にはどうしようもなかった。


「海神……!」

 

 海神の体が徐々に透明化していく。いずれ実体だけでなく、存在も無くなってしまうのだ。彼女の声がやがて聞こえなくなり、彼女を触ろうとした僕の手は空をかすめた。


 波音が轟いた。海は荒れ始めている。


「降参か!」


 陸の神は満足したのか、攻撃をやめてこちらに近づいてきた。海神から力をもらった僕には陸の神が見えているが、海子には見えていない。彼女

は陸の神が近づいてきてもなお平然としていた。陸の神に殴られ、よろめくようにして倒れた。


 陸の神は涙でぐちゃぐちゃになった僕の顔に拳を強打した。僕は情けなく仰向けに倒れる。波音が着実にこちらに近づいてくるのを聞くことしかできなかった。波音が大きくなるほど僕の焦燥感は駆り立てられる。早鐘を打つように鼓動する心臓を今だけ殺してしまいたかった。


「夏樹……? 夏樹! ちょっと!」


 海子がなんとか立ち上がって駆け寄ってくる。


 冷静になるいい機会かもしれないと僕は思った。今までの行動を振り返って、どこで間違えてしまったのか探すのだ。その行為は何も生まない。それは死ぬ前の走馬灯を早めに見る感じの、そんな軽いノリに過ぎないが。


 まず、僕は海神と出会った。サイダーを渡した。そして海神の復讐に誘われ、僕は承諾した。その後は海神から力をもらった——と、ここで僕はひっかかりを覚えた。いや、本当なら海神が死んだ時点で気づいていたはずだったんだ。僕が罪悪感に駆られて、見落としていたというだけで。


 僕は立ち上がった。陸の神とにらみ合う。警戒を再開した彼は掌を僕に向けてきた。また何かを生成するつもりなのだ。


 僕はあえて何もしなかった。陸の神の手から巨木が生成されるまでの数秒間をじっと待ち続けた。


 生成されたところで僕は拳を突き出した。たちまち巨木が大破。四散した木片が軽やかに転がる。


 陸の神はあっけにとられた顔をしていた。


 そこまで見届けて僕は確信した。やっぱり、海神を失っても僕の中に力は残っている。ひっかかりは解消した。となると、僕が海を統治することも可能かもしれない。海神から授かったこの力があれば、疑似的に海神の役割を担えるかもしれない。


「僕、海に行くよ」


 海子をなんとか負ぶった僕は駆け出した。荒波はすぐそばまで押し寄せていて、気づけば僕は泳いでいた。


「待て!」


 陸の神が巨木を飛ばしてきた。


「このまま水が流れてくるとお前の存在も消えてしまう!」


 それを破壊した僕は振り返らぬまま言った。陸の神は納得したのか攻撃

を続けることはなかった。


 荒波で押し流されそうになる。破壊の力を使っても精々、一瞬だけ割る程度のことしかできなかった。水はすぐに元の敷き詰められた形に収束する。僕はモーセのようにはなれなかった。


 人々の悲鳴や泣き叫ぶ声を無数に聞きながら海に向かって進んだ。もはや街が海のようだが、僕の目的地はそこではない。


 濁流の下にかすかに見えた堤防の手前で僕は止まった。今にも流されてしまいそうだが、ぐっと踏ん張る。


「頼むから静まってくれ! 君たちの神はここにいる! 

……ああ、そうとも。僕じゃないし、背中の女の子でもない。でもね、僕の心の中にいるんだ!」


 その瞬間、魚や水の透き通った高い声が聞こえた。


「ああ、確かに聞こえます……。海神様の声が……。私たちは勘違いをしていたのです。海神様がこの世を去ってしまったと、そう思い込んでいただけなのです。ああ、私たちはなんて愚かなんでしょう」


 徐々に荒波は引き、数秒後には無事落ち着いた。


「……ですが、私たちには海神様が見えないのです……。そなたの心の中にいるのなら、どうかそなたが海神様を顕現させてくだされば」


 それはできない相談だ。


 つまり、できる相談も僕は知っている。そもそも僕はそれを実行するためにここに来たのだ。


「海子、神様になっても、いいかな」


 荒波の音は僕と海子の間に漂う哀愁をかき消す。ここにあるのは迫る決断の時と残り僅かの時間のみ。早々にこれからの方針を決定しなければタイムリミットだ。


「死ぬわけじゃないんだ。神様になるだけ。でも、海子と過ごせる時間は減ってしまう」


「それで復讐が終わるなら、行っておいでよ。夏樹がどうなっても、死んでいないなら、私は毎日でも会いに行く」


 ああ、やっぱり彼女は——


 僕には、なくてはならない存在だ。

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