2
その夜は眠れなかった。僕はブランケットすらも暑苦しく感じた。起きてキッチンに向かい、水道水を飲んだ。
どうせベッドに戻っても眠れやしないのだ。僕は寝巻きのまま、外に出た。夜は家よりも外のほうが涼しい。夜風が頬を撫で、少しばかり皮膚が粟立つ。
静けさの中に風鈴が鳴る。うるさくは思わなかった。その音は静けさをより一層引き立てているように感じられ、風情があった。
おもむろに足を動かして、一歩、二歩とあてもなく歩き続ける。その道中で野良猫に睨まれた。僕は睨み返す。この猫は中々しぶとかった。一向に退こうとしない。
僕が近づくと、近所の庭に逃げていった。ふん、虚勢を張るんじゃない!
さっきの野良猫のようにゆっくりと歩を進める。駄菓子屋の前を通った。店の印象が昼間と全く違うのが神秘的だった。オカルト好きが見れば不気味な雰囲気のそれでしかないのだろうが、僕の目には、その木造建築は昼間よりも味があるかのように映った。
「おや、こんな時間に。珍しいねえ」
店のドアが開いて、お婆ちゃんが中から出てきた。彼女は店の前のベンチに腰かけると、再び僕を向いた。
「散歩してるんです。眠れなくって」
「それなら、海に行くといいよ。夜の海は星空が反射して、綺麗なんだよ」
お婆ちゃんは柔和な笑みを浮かべる。
「そうなんですね。行ってみます。ところでお婆ちゃんは何を?」
「ぼんやりと、外に出てみただけだよ」
「いつもは出てこないんですか?」
「少なくとも冬はしないよ。寒いからね。夏は、ほぼ毎日のように出てるけど」
「そうなんですね」
しばしの沈黙。僕はこれ以上用もないなと思って「じゃあ、行きますね」と呟いた。
「そうかい」
会話が途切れて、それと同時に僕も歩き出す。
僕は慎重に砂浜を歩いた。なんてことはない。寝ているかもしれない海神への配慮だ。
砂浜で足音を立てないのもあほらしいけど、念には念をということで僕はそのあほらしいことを実践していた。それでも完全に足音を消すことは難しかった。じゃりじゃりと僅かに砂と靴裏が擦れて音を立てる。
ふと海を見る。お婆ちゃんの言う通り、たしかに海は、白く淡く輝いていた。月明りの反射は明々としていたが、星は満点でもなく、点在しているだけだった。
ふいに足音が聞こえた。背後だ。
振り返ると、そこには海神が立っていた。起こしてしまっただろうか。
「なんだ、君か。音もたてずに海に近づいてくるから、悪い奴かと思ったじゃない」
「僕だったらなんだ。またサイダーを買いに行かせようとでも言うのか。悪いな、店はもう閉まってるんだ」
僕は不敵な笑みを浮かべる。
海神はクスクスと笑った。僕の隣で腰を下ろす。僕は寝巻が汚れるのが嫌で、そのまま立っていた。
「深夜にそんなことはしないさ。なんでこんな時間に、ここに来たのかなあって、気になっただけだよ」
「眠れなかったんだ」
「海神である私と会えたのが嬉しすぎて? それとも光栄すぎて?」
「さあ、そうかもね」
海神はひどく驚いた後、照れたように「へ、へえ」と言った。強がっているようにも見えた。
「そういえば」
僕は呟く。
「さっき、駄菓子屋のお婆ちゃんと話してたんだ。お婆ちゃんは『海神を起こさないように』って言ってた。海神とお婆ちゃんは知り合いなの?」
僕が言うと、海神は呆れたように「はあ?」と零した。
「知り合いも何も、いつもサイダーを買ってるのはおばあちゃんのとこさ」
「ああ、そうか。たしかにそうだな」
普通に僕がばかだった。さっき、あほみたいな行動をしたからかもしれない。頭が鈍っている。
「私って案外遅い時間まで起きてるから。気ぃ遣わなくていいよ」
「次からはそうするよ」
話題も無くなって、波音だけが響いていた。カニが近くまで歩いてきた。僕はそいつに手を振ってみた。振り返されなかった。
「君みたいなのは、初めてだよ」
海神は唐突に、優しい声で言った。
「いきなりなんだよ」
「今まで、私が出会ってきた人間は、君みたいに自然に話してくれなかった。みんな『あなたは神様なので——!』とか言って、誰も相手にしてくれなかった」
そりゃ随分と贅沢な悩みだ。
「だから、君みたいな人をずっと待っていたのさ」
海神は立ち上がって、僕の手を握ってきた。さすがの僕も狼狽して、尻餅をつきそうになった。
「だから、君を大切にしたい」
僕よりも僅か数センチ低い海神は、背伸びをして僕の顔を覗き込む。青色の瞳が何かを訴えかけるように、力強く、僕を穿った。
「それってどういう……」
「冗談冗談。じゃあ、私はもう寝るから。明日午後四時に堤防集合で!」
勝手に約束を取り付けられた僕はため息を吐く。
波と海神を背に、僕は歩き出した。
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