第26話

痛みに耐えながら、日々の生活を取り戻していくことで精一杯であり、喜びでもあった、退院後の日々。


そんな私的なこととは関係なく、世間は動いていた。

小学校に通う子どもを持つ親の宿命、来期のPTA選びの時期が来ていたのだ。


この学校では、1〜6年生まで使い回す、保護者の役員経験カードが存在する。

そのカードの端には、今年役員を引き受けられない場合の理由記載欄がある。

その理由が正当でなければ、役員免除を申し出る権利がない雰囲気を漂わせている。

逆に、「まだやってない人から決める」という経験者免罪ルールの中で、役員経験を表す「丸印」さえカードに記されていれば、堂々と次期役員決めの話し合いから離脱できるのだ。


誰もがやりたくないけれど、誰かがやらなければいけないPTA。

今まで引き受けてくれていた方々に感謝しつつ、自分だけ何もやらずに卒業して逃げてしまおうだなんてズルいことは許されない、不文律。


役員決め会議にもれなく訪れる、恐ろしい駆け引きの、沈黙。


今回は、子どもの登校班のリーダー兼役員を兼ねたポジションを決める連絡だった。

今その役員を務めている人からの、「役員を今まで一度もやっていない人は返信してください」というメールだった。


自分は、まだ小学校での役員経験はない。


幼稚園の年少では、沈黙会議に負けて引き受けてしまった。

あの時は、ただ単に自分が年長の保護者というだけで、年少の保護者にマウントを取ってくる輩に辟易しながら、何度も幼稚園に出向き、1年間務めあげた。

代表を務めたクラスの保護者ランチ会では、「1年間ありがとう〜」と最後に歌のプレゼントがあった。

何それ、要らないんだけど。

全然、嬉しくなかった。

嬉しいふりは、当然、したけど。


一難去って、また一難。

子どもは、学校に預けるだけでは済まないらしい。

小学校の役員を先に引き受けていた保護者さんの苦労話は、リアルタイムで何度も聞いていた。

とにかく、集合回数が多いのだ。


ホルモン治療を開始し、これからは放射線治療も始まる。

体力に自信がないことももちろんだが、ホルモン治療のダメージがどれくらい強くなるのか、想像がつかない。

病院からもらった冊子には、ホルモン治療による副作用がいくつも表記され、ダメージマックスの抗がん剤治療程ではなくても、体調不良を覚悟しなければいけないと思い知らされていた。

さらに、放射線治療の連続通院というスケジュールも、負担に感じていた。


まだまだ、始まっていない治療に対する不安と、手術跡の痛みを堪えている今の自分には、数ヶ月後から始まる役員の仕事のことなど、全く考えられなかった。

そんなことは、自分の死を考えてもいないくらい健康な人が引き受けて欲しいと、心底思った。


しかし現実は、役員経験の有無のメールをしなくてはならない状況になっていた。

仕方なく、サクッと、未経験であることを送っておいた。

すると、すぐにサクッと「では、返信してきたのがあなただけなので、よろしくお願いします」とメールが来た。


おいおい、本当かよ。


今の役員は、6年生の保護者で、とても感情が表に出やすい人だ。

登校班で顔を合わせた時は、きつくて感じの悪い人だという印象が強かった。

次期役員を決める役割は大変そうで同情もするが、「あなた以外の人が返信をしてこなかったから、あなた以外の人は全員役員経験者」と決めつけて話を進めるメールの内容が、納得できなかった。


すぐに、「大変申し訳ありませんが、私的事情によりお引き受けかねます。取り急ぎ、ご連絡いたします」という返信をした。

反感を買うことを覚悟で。

当然、イラッとするだろう。


結局、数日後の登校班の集まりで、役員のくじ引きをすることになった。

どうやら、メールの返信は、私以外していなかったようだ。

今の役員が「役員経験をした人は、手を挙げてください」と集まった保護者に言うと、パラパラと数人の手が挙がった。

数人だ。

挙げなかった人の方が、多い。

・・・だと思った。


今の役員が、くじを引いてもらうために、手を挙げなかった人たちを順に廻った。

自分のところに来た時に「先日メールしていたのですが・・・」と言うと、全部言い切らないうちに、「全員、平等ですからっ!!!(怒)」と、怒鳴られた。

凄い形相だった。


仕方ない。

登校班だから、他にもご近所さんが何人もいる。

揉め事は、ご法度だ。


くじを引いて、皆でそれを一斉に確認するタイミングを待っていると、遅れて、男性の保護者が子どもを連れてやってきた。

年配の女性の保護者が、その男性に向かって言った。

「おはようございます〜。奥様が入院中なんですよね〜。だから、役員決めのくじ引きは、しなくていいですよ〜」


えっ?


今の役員は、無言だった。


年配の女性保護者は、今の役員と同じ6年生の保護者だ。

対等の立場という認識を持たれているのかもしれない。


今、言うしかないと思った。


「あの、すいません。私は、先月に手術をして、退院したばかりで・・・。来月から、また治療が始まって。その治療では、副作用があるかもしれないので、役員の仕事が務まるのか自信がないのですが・・・」と、男性に声を掛けていた年配の女性保護者に向かって、言った。


彼女は、「あら〜、そうなんですね〜。じゃ、くじはいいですよ〜。ねぇ」と、さらに他の保護者に同意を求めてくれた。

あっという間に、他の保護者からも「いいですよ、いいですよ〜」と声が上がり、くじ引きが免除された。

「定期的に参加しなければならない役員は無理でも、学校のボランティアなら自分のペースできそうなので、調子が良くなったら参加したいと思います。今回は、すみません。ありがとうございます」という言葉が、自然と自分の口を突いて出た。


そんな配慮をしてくれた保護者達には、今でも感謝だ。

風向きは思わぬところで変わるのだと、知った。


今の役員は、その間、何も言わなかったが、手に持ったプリントを眺めている振りをしながら、般若のような顔をしていた。


同じ登校班の、子ども同士が仲のいいご近所さん二人は、なんとなくポカンと、そんなやりとりを傍らで眺めていた。


病名は伏せていたが、自分の病気や入院のことは一切話していなかったので、びっくりしているのだろう。

誤解を避けるためにも、ちゃんと伝えないといけないと思った。


伝えなければいけない・・・。


田部井さんのように、誰にも知られることなく治療をして寛解したかった。

そういう生き方を選びたかった。


なぜ、そうできないんだろう。

なぜ、させてくれないんだろう。

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