先生

「で、航。どうして俺を呼んだんだ?」

「え、先生が呼んでるって先輩に言われたんですけど。」

 職員室に行くと、会話が噛み合わないことに気がついた。そしてわかった。俺は、先輩に騙されたのだ。気づいたってもう時すでに遅し。先生のペースに飲み込まれる。

「最近航、部活来てないみたいだけど。なんで来ないの?」

「えっと、俺退部届出しましたよね?」

 そして先生は会話がいつだって通じないのだ。

「あー、受理しません。航はまだ部員です。」

「なんでですか。」

 少しむっとして、強い口調になってしまう。ここで食い下がるわけにはいかない。俺はもう決めたんだ。男に二言はない、そう思って先生の言葉に耐える。

「だって航、まだ野球やってるんだろ? 中学の方が難しいなら、高校だってあるじゃないか。」

 いつもは茶化した雰囲気の先生も、この時ばかりは真面目な顔をする。そんな顔をされたら、俺はどう答えればいいんだろう。答えはただ一つしかなくって。それでも、それを言うのは怖くって。

「でも、高校生についてけないですよ。」

 自分を真っ直ぐに見つめるのが怖くって、口先だけのごまかしをまだ続ける。

「航。一年生の最初、お前が言ったこと覚えてるか?」

 先生は、真っ直ぐに俺を見つめてくる。ハッと息を呑む。ここだけ、世界が止まったみたいだった。

「航、お前は言ったんだ。陸上部がこの学校にないってそう知って。

『ペースは違っても走れますよ。てかそんな理由で俺の無限の可能性を潰さないでください! 』ってさ。」

 記憶が戻る。あの頃、俺は未来に無限の可能性を抱いてこの学校の門をくぐった。今はどうだろう、その頃には戻れない。心臓が鷲掴みにされるような、そんな感覚。今俺は、呼吸が苦しい。そんな暗闇の中を生きている。

「あの言葉があったから、先生は航を信じてるんだよ。あの言葉で、先生は気がついたんだから。」

 先生は、続ける。

「今は周りとペースが違うのかもしれない。それでも、航は続けたいんだろ。それなら野球を辞める理由なんてないじゃないか!」

 スッと、心が軽くなった。目の前が、急に明るくなるようなそんな妙な感覚。それは、先生が俺に気が付かせてくれたから。

「航、お前には無限の可能性がある。それを言ったのは航自身だ。どうしてって、答えはいつだって航の中にあるんだからさ。」

 そう言うと、先生は少し口角を上げる。俺も同じように笑いかけようとして、それが出来ないことに気がついた。頬をなにかがつたう。俺は、泣いていた。

 気がついて欲しかった。その言葉を待っていたんだ。無意識に、そして必然的に。

「でも、俺にはそんな資格は無いですよ。俺は、辞めたんです。諦めたんです。どんな顔して行けって言うんですか。」

 歯を食いしばって、そう言った。弱音を吐くのは嫌いだ。自分が弱いと認めたく無いから。だから強気な姿勢を取る。そうすれば、自分が大きく見えるから。

「そんなの、航のせいじゃないだろ。もっと周りを頼れって。」

 ふと顔を上げる。泣いている顔を見られたくなかった。それでも、ぐしゃぐしゃになった顔で先生を見ずにはいられなかった。頼る。それは簡単に見えても俺にとっては一番難しいことだった。

「なんでも一人で決めるなよ。航はさ、やりたいことに突き進めばいいんだ。」

 目を細めて、先生は俺の背中をさすった。それからのことはあまり覚えていないけど。

 ただ、鉛のようだった心は羽のように軽くなっていた。

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