入部

「え、陸上部無いんですか⁉︎」

 陸上部。それは、もっともポピュラーな運動部と言っても過言ではないだろう。それが、うちの中学校にはなかった。

「先生、高校には野球部あるじゃないですか! なんで中学だけないんですか?」

「航、それには事情があって…。」

「もしかして、複雑な…?」

先生の神妙な顔つきを見て、俺も少し真面目な顔をする。しばらくの間、先生は言葉を選ぶように押し黙った後、こう言った。

「陸上部だと高校生と走る場所が被るからね。中学生が高校生と同じレベルでは走れないでしょ?」

「いや、ペースは違っても走れますよ。てかそんな理由で俺の無限の可能性を潰さないでください!」

 わりとふざけた答えに、思わずツッコんでしまう。俺の入った学校は中高一貫校というやつだった。高校生には認められていても、中学生には入れない部活というものが数多くある。陸上部もその一つで、この学校を選ぶ際に部活を調べておかなかったことが悔やまれる。

「高校入ってから陸上部入ればいいだろ? 中学では我慢してさ。」

「先生、でも俺は高校生になったらバレーやりたいんすよ。だって俺背高いし!」

 ちょっとドヤ顔でそう言ってみる。しかし、たかが中学生と言ったものか自分が先生を見上げていることに気がついて少し気まずくなって俺は思わず目を逸らした。

「じゃあ、中学校では体力作りするってことか。」

「そうです!」

 だから、誤魔化すようにいつもより大きな声で返事をする。それが運命の別れ目だったのかもしれない。

「じゃ、航。野球部入るのはどう?」

「そうですね! …って、え?」

 さっきまでの勢いで、思わずそう答えてしまう。

「そうか、航は野球部か!先生と頑張ろうなー!」

「待って、え、待って入らないですよ?」

「楽しくなりそうだなー。」

「え、先生、俺入らないですよ?」

 楽しそうに先生は笑い、俺はそれを否定する。野球部。そんなこと考えもしなかったのだ。野球なんて暑いし、汚れるし、坊主だし。あまり良い印象がなかった。そんな俺を見て、ニヤニヤとしながら先生はこう尋ねる。

「なあ、ところで『わたる』ってどういう字書くんだ?ちょっとここに書いてくれない?」

「え、良いですけど…。」

 唐突に変わった会話内容に驚きつつも、渡された紙にボールペンで文字を書く。この時、急だったから俺は油断していたのだ。テスト用紙に名前を書くような妙な緊張感が襲う。

「じゃ、入部おめでとう。」

 ニカっと笑って先生はそう言った。俺が渡された紙の一番上には『入部届』の文字が踊っていた。どうして気が付かなかったんだよ、俺。

「先生に騙されたーっ!」

 俺の絶叫が、職員室中をこだまする。周りにいた先生方も、そんなことは慣れっこであるのか微笑ましそうに笑っていた。

 正直に言おう。入部届は親の印鑑がないと受理されないのだから、ここで先生の冗談として終わらせることもできたのだ。それでも、俺は野球部に入った。それがどうしてだったのかは生涯わからないだろうし、それで良いと思う。でも、俺の人生は確かにここが分岐点だったのだ。

 職員室を出ると、桜の花びらが春風に乗って舞っていた。ひらり、一枚が俺の髪の毛に舞い落ちる。

「髪、切ろっかなぁ。」

 誰に言うでもなく、ぼんやりとそう呟いた。

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