自分だけのチュートリアルを終えて
それはまるで奈落。太陽でも照らすことは敵わない、月の明かりでは一寸先すらも見ることができない、そんな谷の底を俺は覗き込む。心なしか風を吸い込んでいるような、そんな不思議な引力を持つ『始祖の谷』は人間の根源的な恐怖を煽る自然の凄みを醸し出していた。
ゴーゼンが谷に呑まれてから40秒程が経った。今頃、谷底に叩きつけられている頃だろうか。モンスターを撃破したという通知は現れない。環境を利用したモンスターの討伐は撃破としてカウントされないのか、それとも単純に生き延びているのだろうか。……恐らく後者だろう。AoUが環境撃破を認めない不寛容なゲームだとは思えない。だからこそ俺は『次こそは正々堂々と』と心に決めたのだ。
「リンドウさん」
谷底を覗いていると背後の脇道からイェンカが這い出てきた。ぼさぼさの髪に葉っぱをくっつけて。傷こそ負っていないが、その姿は辛くも激闘を制した勝者の姿であった。
「イェンカ、よくやった。作戦成功だな」
よろよろと立ち上がるゴブリンハーフに手を貸しながら、俺は谷の上を遊覧するランタンムシへ視線を巡らせた。
「さ、不慮の事故が起きないうちにさっさと引き寄せようぜ」
そう言いながら谷の際に突き刺したナイフの元へと歩み寄る。そこに結び付けたロープを手繰り寄せるとランタンムシの一匹がこちらへと寄ってきた。
「落ちなくてよかった……」
そのランタンムシにはロープが、そしてそのロープに厳重に巻き込む形でイェンカの『
イェンカはそのランタンムシを抱き込むようにして捕まえると、一斉に光が落ちた森の中で無我夢中に首飾りを解いて握りしめた。
ゴーゼンに対して仕掛けた
ゴーゼンは呪詛を用いてイェンカの両親の形見を追跡していた。ある程度の場所がわかるというだけらしいが、視覚情報が失われてしまえば曖昧な情報でもとても重要な意味を持つ。真っ暗な森の中で、イェンカを襲う為に必ず呪詛がもたらす情報をあてにすると俺は踏んだのだ。
『英雄カフの首飾り』をランタンムシに括り付けて『始祖の谷』に放つという作戦に、イェンカは納得できない表情で渋々乗ってくれた。その代わり、後から回収できるようにランタンムシに縛り付けるロープは絶対に外れないように慎重に結ぶこととなった。
逃げながらランタンムシにロープを巻き付け結び、『始祖の谷』の断崖へ辿り着くと、絶壁にイェンカのナイフを突き刺してそこへロープを固定した。あとは二人でゴーゼンを出迎えると、イェンカが逃げる時間を俺が稼ぐ。イェンカが断崖へ辿り着いて用意しておいた仕掛けに首飾りを固定すると、あとはそれを谷上空へと投げて放つだけ。そうしたら常に暗闇を保つことでゴーゼンの認識を『イェンカ』から『
結果、ゴーゼンは谷をイェンカが立っている道だと誤認して足を踏み外したのだ。
最後の砲弾のような超速タックルは流石に焦ったが、元から脇道へ逸れて逃げる予定となっていたのが功を奏したようだ。暗闇を保つという作戦も相まって何とか二人そろって死線を潜り抜けることができた。
「リンドウさん、本当にありがとう。おかげで私は今日もまた生きていけます」
徐々に森へと光が戻る中、イェンカのセリフを背景に白金色の枠がフェードインする形で現れた。
『ユニーククエスト ゴブリン鬼ごっこ
クリアしました』
『レベルが42に上がりました。
ステータスが上昇しました。
スキル<リップスラッシュ>を習得しました。
スキル<イラプションスターター>を習得しました。
スキル<エアステップⅡ>を習得しました。
スキル<ヴァイスグラップル>を習得しました。』
『称号<光甲虫の乱獲者>を獲得しました』
徐々にフェードアウトするそれを、俺は無言で見つめた。否、それだと少し語弊がある。正しくは「絶句して」だ。
レベル……42……?
……ユニーククエストだ。経験値が多めに設定されているのだろう。それにゴーゼンのレベルを見れば一目でわかる。適正レベルもかなり高く設定されていたのだろう。オーケーオーケー、レベルについては納得だ。
思いのほかレベル上昇の伸び幅が大きくてうれしい反面、薄れて消えていく習得スキルの羅列を虚しく見つめる。
………………なんか少なくね?
………………………………なんか少なくねぇ!?
唖然としながらも、脳の裏側の日陰になっていそうな部分で一つの心当たりが浮かび上がる。
AoUにおいてはレベルアップするごとに、それまでの経験をAIが判断してステータス上昇、スキル習得が行われる。
ということは、だ。俺がレベルアップまでにしたことと言えば、一匹のウッズハウンドを<アボイドステップ>の実験がてら倒し、逃げるイェンカに追い付く為にパルクールもどきを披露し、ゴーゼンから逃げる為にぴょんぴょん必死に跳ね回ったくらいだ。それらがレベルアップ40回分全てに反映されていたとしたら、即ちそれは40回分のスタイル多様化の機会を失ったということで……。
「…………せめて獲得したスキルが強いことを祈ろう………………」
「大丈夫ですか?」
クエストクリア通知のウィンドウが消えて同時にESも終了すると、下からイェンカが心配そうに四白眼をこちらへ向けた。
「……なんでもない」
そうとしか答えられなかった。NPCにこの虚しさはわかるまい。
谷へと繋がる森を切り拓いた道、煌々と空からこちらを見下ろす月光、散々お世話になったランタンムシの諸君。イェンカとの間に何だかよくわからない沈黙が流れた。
クエストクリアした後は大体NPCの言動でストーリーや場面が動くものだが……イェンカは何やらもじもじして口を開かない。
「ど、どうした……?」
静寂に耐えかねて問いかけると、それは現れた。
ああ、これは。
「あの……、あのですね……?」
目は口程に物を言う。イェンカの不安そうな視線は、次に何を言おうとしているのかを口漏らす。
なんと イェンカが なかまに なりたそうに こちらをみている!
「迷惑じゃなければリンドウさんに着いて行ってもいいかな……と……そう思うん……ですが……」
それ、つまりは白金枠のウィンドウがすぅーっと現れた。
『ユニークストーリー 或る少女の用心棒
開始しますか?』
<はい> or <いいえ>。
「ゴーゼンもまだ生きているはずで……、谷底に落ちたからには当分心配はないと思うんですけど……、でもリンドウさんみたいな人が一緒にいてくれると安心というか……。パーティーに美少女がいると旅も楽しくなると思うのでお買い得だと思って――――」
「わかったわかった」
さも、身寄りのないゴブリンハーフの少女による心からのお願いに折れた、かのような雰囲気を醸し出しながら俺は<はい>をタップ。まあ、イェンカに同情しているのもあるが、『ユニークストーリー』という文言を見て断る道理があるわけない。むしろ即決でオーケーしたかったくらいだ。
「ほんとに!? 美少女で良かった!」
「いやお前のことを美少女とは認めないからな。せいぜいただのB少女だ」
「B!?」
「美少女がAランク。お前はBだ」
「……上から二番目」
まんざらでも無さそうなイェンカをよそに、俺は再び浮き上がってきたミッション通知に目をやる。
ユニークストーリーと言われて何をするのかと身構えてみれば、次のミッション内容はえらく単純なものだった。
『ゴブリンハーフ「イェンカ」を「強奪者ゴーゼン」から守る』
……これまた難易度の高いミッションだ。
「リンドウさんは――」
イェンカがBランクであることを受け入れたのか、何かを問おうとしてくるが。
「そうだ、一つだけ」
一旦それを遮断。
「なんです?」
何だか無理をしているように見えるんだ、その口調。
「敬語なしでいいぞ」
ここから長い付き合いになるんだ。ゲームライフを快適にするためにも、敬語からタメ語にするタイミングを逃した気まずい関係は遠慮願いたい。
「ほんと? ありがと、楽で助かるよ。私みたいな活発系Bランク美少女は敬語じゃない方が映えるからね」
……切り替えが早くてこっちも助かる。つーかBランクは美少女じゃねえ。
「…………で、さっきは何を言おうとしてたんだ?」
「そうそう、リンドウは『開拓者』なんだよね?」
その言葉について記憶を引っ張り出す。たしかキャラクリの前にミスィリアが『開拓者』について言及していた気がする。
「『U』の正体を求めて世界の謎を探るんだっけか」
それがこのゲームのメインストーリーだ。
「そうそう。大妖精ミスィリア様の予言に出てくるUの正体をみんな血眼で調べてるからね。リンドウも一番乗りして名声を得ようとしてる駆け出し開拓者なんでしょ?」
あの妖精、そんな偉い存在だったのか……。
「ウン、マアソウダヨ」
ロールプレイングロールプレイング。若干棒読みになったのはご愛敬。
「なら一つお願いがあるんだ。その冒険のついででいいから、私の故郷にも寄ってくれたらうれしいなって」
そう言うイェンカの顔は、何とも寂しいような、それでいて期待が浮かんでいるような。とても一言では形容できない表情であった。
「……久しぶりにお墓参りしたいんだ」
そんなことを言われて断るプレイヤーがいたら、それはRPGをやるべきではない人間だ。
「もちろんだ。途中いろいろ寄り道するかもしれないが、それでもいいなら一緒に行こう」
そう答えると、イェンカは満面の笑みで派手に喜ぶのではなく、ただ薄く儚く微笑んだ。
「ありがとう」
そんなゴブリンハーフの少女の背後に通知が一つ。
『ゴブリンハーフ「イェンカ」を「強奪者ゴーゼン」から守り、「ノークス渓谷」へと連れて行く』
どうやらミッションが更新されたようだ。その半透明のウィンドウは、月光に照らされて明るく輝いていた。
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