精一杯の強がり
深層心理に潜り込むのは何回やっても不思議な感じがする。
深海に潜るような、という比喩が一番近いだろうか。
纏姫の内部に潜り込み、その核心に触れる。
カノンの内面世界に入り込んだ僕が最初に見たものは、彼女の過去──元の学校に居た頃の記憶だった。
◇
エイブル小隊は関西圏を守護する西校のエリート部隊だ。
『虚構の浸食』の撃破数はトップ。個々の技能もトップクラスだ。
小隊長であるカノンが優秀であるのは当然として、その下にも優秀な纏姫が揃っている。
弱点と言えば、アンカーの力不足だろうか。
アンカーとして着任した彼は決して無能ではなかったが、個性の強いエイブル小隊の面々と心を通わせるには少々常識的過ぎた。
ゆえにこそ、悲劇は起きた。
その日は新月の夜だった。分厚い雲に覆われた夜空には星の煌めきも月の明かりも存在しない。
「カホ。周辺に適性反応はないですか?」
「はい、ありません!」
隊長であるカノンの呼びかけに、偵察能力に優れた隊員のカホがハキハキと答える。
「そうですか。しかし、この妙な雰囲気はいったい……」
嫌な予感が消えない。カノンは豊富な経験が、身の危機を訴えてきてやまないのだ。
周囲を見渡す。古都内部は、東の都心と同じように完全に『虚構の浸食』のテリトリーだ。かつては帝の膝元として栄えた古都は、今では人の気配が存在しない。
冷たい夜風が吹き、カノンは身をすくめた。
消耗を抑えるために、交戦前のカノンは『現世浄土』を展開していない。寒さを凌ぐために力を使うわけにもいかないだろう。
敵が接近すれば必ずカホが知らせてくれる。
カノンはカホの能力を、そして他の仲間の力を信じていた。
──けれど、その信頼は裏切られることになった。
「…………え?」
カノンの左腕に、鋭い痛みが走った。
強い脱力感。
全身の力が抜け、カノンはその場に座り込む。
左腕に突き刺さったのは注射針だった。
カノンの左側にいた隊員が、取り出した注射をカノンに突き立てている。
彼女は薄気味悪い笑みを浮かべていた。
その心中は全く読み取れない。
「どう、して……?」
仲間が自分を害そうとするなど考えたこともなかった。
普段は冷静沈着なカノンの脳内が混乱の渦に巻き込まれる。
倒れ込んだカノンの耳に、笑い声が聞こえてきた。
「はっ……はははははは! やっとだ! やっとこの時が来た! ああ、最高だ! お前が地べたに這いつくばっているのは、たまらない!」
「サ、サトミ……?」
高らかに笑っていたのは、頼りになる副隊長、影宮サトミだ。
普段の面影はどこにもなく、彼女はただ狂気的な笑顔を浮かべていた。
「な、なぜ、このようなことを……?」
「黙れ。お前が私に気安く話しかけるな」
「ぐっ……」
サトミに頭を踏みつけられたカノンが苦痛に呻く。
その様子を見たサトミは、喜悦を滲ませた。
「はっ、はははは! あの救世カノンが、私を前に這いつくばっている! ああ、素晴らしいな!」
狂気的な瞳をしたサトミがカノンの頭を二度三度と踏みつける。
カノンの綺麗な黒髪が足跡に汚れていく。
「どう、して……?」
呆然としたカノンはそれしか呟くことができない。
「理由か? ああ、支配者の声が私たちの頭に響いたんだよ」
「支配者……?」
「そうだ! 崇高なる支配者の囁き! それこそが私たちを導き、この悦楽を教えてくださった!」
語るサトミの瞳には狂気が渦巻いていた。昇天とは違う、底知れぬ狂気に呑まれた瞳。見れば、他の隊員も同じ目をしている。
「サ、サトミ! いったい何を言ってるんだ……!」
声を上げたのは彼らのアンカーたる一条拓真だった。彼の目は狂気に飲まれていない。しかし、カノンと同様に地べたに倒れている。彼もまたカノンと同じ注射針を受けていた。
「ああ? ああ、そういえばお前もいたな。もう殺していいぞ」
「ッ! 待って……!」
彼の背後に、斧を構えた影が現れる。
風切り音と共に、拓真の首が跳ね飛ぶ。血飛沫が身動きの取れないカノンに降りかかった。
「──ごめん、カノン。僕は君の力になれなかった」
彼の最期の言葉は、カノンの耳に焼き付いた。
「あ、ああ……」
人が死ぬ。命が終わり、未来が潰える。
その瞬間が、カノンは大嫌いだった。
彼と話した記憶が走馬灯の如く駆け巡る。
少し頼りないところのある彼だったが、ちょっと照れながらもこちらを気遣う姿がカノンは好きだった。
「だっはははは! おい、面白い顔するじゃねえか救世カノン。いつもの余裕綽々な態度はどうした?」
仲間を殺した尚狂気的な笑みを浮かべたサトミが、カノンの髪を掴み無理やり引っ張り上げた。
「ぐっ……」
「お前はあの方への生贄だ。お前のように強力な力を持つ纏姫を取り込めば、世界の支配はより速やかに進むことだろう」
「な、なぜ……」
カノンの口から出るのは、理由を問う言葉ばかりだった。
「あ、あなたは、私の理想を応援してくれるって……『虚構の浸食』を、嘘を消すために全力を尽くすって……」
「──嘘に決まってるだろ、そんなの!」
「…………え?」
カノンの思考が止まった。
「全部嘘だ! 気に食わないお前と話したことは全部! 理想に共感だとか、頼ってくれだとか、反吐が出そうだった!」
「あ……」
無意識に出た呟きは届かない。
「──だからお前はここで死ね! 支配者様の侵攻を受け入れろ!」
彼女の怒号に応えるように、何もない空間が音を立ててヒビ割れ始めた。
何か、この宇宙の法則を徹底的に否定するような、見ているだけでも恐怖に襲われるような光景だった。
空間に入ったヒビはついには裂け目となり、向こう側から「何か」が姿を現す。
ぽっかりと開いた暗闇。その先には、ぬらぬらと揺れ動く触手が蠢いていた。
それを目にしたサトミは恍惚の笑みを浮かべ、五体投地して歓迎の意を示した。
「ああ、ようこそいらしました、偉大なる方! 我らを支配すべき御身を目にできたことを光栄に思います!」
恍惚とした表情には既に理性などどこにも存在しなかった。
見れば、他の隊員も似た表情をしていた。
カノンはようやく先ほどの嫌な予感の正体を悟った。
敵はもう既にカノンのすぐそばにいたのだ。
外なる世界から、ソレは既にこちらを捉えていた。カノン以外の纏姫を魅了し、機を伺っていたのだ。
『虚構の浸食』は人の嘘から生まれた存在。
空想の神話上の生物であるこれら外宇宙の生命もまた、その対象だ。
触手が空間の裂け目から這い出る。
この世にあってはならない存在を前に、カノンの体はまだ力が入らないままだった。
触手はゆっくりとカノンたちの元へと接近し──やがて、平伏していたサトミの体を捕らえた。
「なっ……なぜですか、偉大なる方! 私は、私はあなたの言う通りに働きました! なのに、なぜっ!? ……ッ、アアアアアア!」
触手がサトミを飲み込む。それは、優しい抱擁とは程遠いものだった。
触手の中から人体の壊れる音が聞こえてくる。
骨の砕ける音。血の噴き出る音。言葉にならない悲鳴。
触手が再び動き出すと、後には原型すら残らない赤い肉塊だけが残った。
「あ、あああああああ!」
悲鳴が上がり、他の隊員たちが触手から逃げ出した。
悲鳴と共に、誰かの体が持ち上げられる。
人間がすり潰される音がして、血液が地面にぶちまけられる。
恐怖はやがて狂気へと伝播する。
狂気の渦は、動揺するカノンをも捉えていた。
裏切りの衝撃。サトミに告げられた言葉がグルグルと自分の中を回る。
『全部嘘だ! 気に食わないお前と話したことは全部! 理想に共感だとか、頼ってくれだとか、反吐が出そうだった!』
カノンは自分の理想を肯定してくれた小隊の皆のことが好きだった。
みんなが嘘をつかなくていいような平和な世界が作りたい。
嘲笑われることすらあった幼稚な理想だったけれど、それでも彼らが肯定してくれるだけで良かった。
「──ああ、そうか、全部嘘が悪いのですね」
カノンの瞳が真っ赤に染まる。その背後に観音像が出現する。観音像は大きく手のひらを振り上げると、触手に向かって振り下ろした。
轟音が鳴り響き、地面が激しくえぐれる。
異界より現れた旧支配者は、規格外の一撃によって一瞬にして粉砕された。
圧倒的な破壊をもたらしたカノンは、バラバラの死体に囲まれて誰に言うまでもなく呟いた。
「なるほど、対処療法では根本的には何も救えない。私としたことが、当たり前の摂理を忘れていたのですね。──ならば、やはり。私が世界を救いましょう。根本原因たる嘘を消し去ることで、この世界に安寧を」
厳かな宣言は、けれど精一杯の強がりだった。
つまりは、救世カノンの「噓のない世界」を作るという理想は、最初から嘘だったのだ。
その罪悪感を無理やりに己の中に押し込めて隠し通そうとした時点で、カノンの理想は破綻していた。
◇
「──強がりっていうのは自分が思っている以上に疲れるものだよ」
真っ白の世界の中で、僕は彼女に話しかけた。
ひどく殺風景で、恐ろしいほどに真っ白な世界だった。カノンの内面世界。
その中で、彼女はいじけたみたいにうずくまっていた。
「けれど、皆さんは上手くやっているではありませんか」
その声はひどく疲れているように聞こえた。
「私にはできません。顔で笑って心で憤り、口で称賛して腹で罵る。……私は嘘が嫌いなのではなく、嘘が怖いのです。目の前の人間がそれを持っているかもしれないと思うと、怖くてたまらない。だからいっそ、なくなって欲しかった」
「カノンは、正直な人だね」
「ええ。愚かだと笑いますか? けれど私は噓つきに──噓葺ライカのようになれない」
泣き出してしまいそうなほどに弱弱しい言葉だった。
僕は俯いてしまった彼女と視線を合わせるとように、その場にしゃがんだ。
カノンと視線を合わせる。
「カノンは自分のそういうところが嫌いみたいだけど、僕は君のそういう潔白なところは好きだよ」
「…………え?」
顔を上げた彼女に向かって、僕は語る。
「僕も前は、嘘なんて無くなって欲しいと思っていたんだ」
「翔太さんも……?」
「うん。僕は人の嘘っていうのが何となく分かったからさ。嘘つかれてるなって思うたびに、モヤモヤした気分になっていた。別に今だって、その気持ちを完全に克服できたわけじゃない」
同じだよ、と僕は語りかける。
超然としていた救世カノンも、根っこのところは凡人である僕と同じだ。
「だから、せめて僕だけは、強がっていない君と接したい。……我儘だけど、でも、君を見ていると不思議とそんな欲求が湧き上がってくるんだ」
「ですが……ですが!」
カノンは、まるで迷子の子どものように言葉を吐いた。
「……あなたもまた、嘘をついているのではないか。そういった恐怖が私を支配するのです。……弱い、ですね。誰もが当たり前に乗り越えた恐怖を、私はずっと抱えたままです」
きっとそれは、幼い頃に誰もが味わったことのある恐怖だ。
そして、だからこそ、単にアンカーの適性を持ってしまった誰で、凡人である僕にも言葉をかけることができる。
「──じゃあ、約束するよ。僕は。僕だけは、カノンを傷つけるような嘘はつかない。僕はカノンが強がらなくても接することができる相手になりたい」
「どうして、そこまでしてくれようとするのですか……?」
「僕にも覚えのあるような話だったからね。変に肩肘張って、勝手に疲れて。……そういう時に話を聞いてくれる人がいることがどれだけ救いになることか、僕はもう知っている」
僕の頭の中にあるのは、最初に幻想高校に来た頃のことだ。
右も左も分からず、ただ立派な人間に見せようとしていた頃。
うっかり煙草を吸っている彼女に会って、僕は救われてしまった。
「だから僕はカノンが普通に過ごせる一助になりたい。理想のために多くの人を犠牲にする選択肢を君が選ばなくてもいいように。……カノンには、甘えられるような人がいてもいいと思う。だから、僕がなる」
「ッ……!」
彼女の濡れた瞳がこちらを見る。真っ赤な唇が、恐る恐る言葉を紡いだ。
「……嘘は、ないですか?」
「ないよ。僕はカノンを傷つけるような嘘は言わないからね」
安心させるように笑うと、彼女は大きく開いた瞳から一粒の涙をこぼした。
その雫が地に落ちると、真っ白だったカノンの世界には淡い赤色が広がった。
ボトルいっぱいに注がれた水に赤い液体を一滴垂らしたような、些細で、けれども決定的な変化だった。
次の瞬間、僕たちの意識は内面世界から現実世界へと帰っていった。
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