第11話ハヅキの覚悟
まるで念仏みたいな説明が私の耳を通り抜けていった。
相変わらず数学教師は何を言っているかよく分からない。
こんな時間を過ごすくらいなら素振りでもしていた方がマシだ。
そんなことを思っているうちに授業終了のチャイムが鳴った。私はペンを置いてため息をついた。
同じクラスのヒバリが近づいてくる。
「ハヅキ、さっきの分かった?」
「すまん、全然分からなかった」
「だよねー。またライカちゃんに聞こうかなー」
ヒバリはからからと笑うと自分の席に戻って行った。
それを見届けた私はパラパラとノートをめくる。
要点を纏めたはずのメモは自分で読み返しても何が書いてあるか分からない。
今度ライカかマナが暇そうな時に聞いてみよう。
私はこの場での理解を諦めてノートを閉じて片づけを始めた。
ホームルームが終わればもう放課後だ。
今日も翔太に剣を教える約束をしている。
そのことがちょっとだけ嬉しい。自分が誰かの役に立っているという実感は良いものだ。
少しウキウキした気分を抱えて、剣道場に向かおうとした。
すると、珍しく私のクラスまでライカが来ているのに気づいた。
彼女は私の姿を見つけるとこちらに歩いて来た。
……少し、表情が硬い。雰囲気が若干暗い。また夜更かしでもしたのだろうか。
「ハヅキ、最近はどうだ?」
「む? いや、たいして変わりない。それはお前も知っているはずだが」
彼女らしくない歯切れの悪い物言いだった。
「いや、違う。その、彼との剣の特訓はうまく行ってるかな、とか」
そう言えば、ライカは頑なに翔太の名前を呼ばない。お前とかあいつと呼んでいるところしか見たことがない。
理由は分からない。
彼女の内面はいつも窺い知れないところがある。
「お前に心配されることもないぞ。翔太は努力している。最初はただおどおどした男だと思ったが、接してみると意外と芯がある」
「ほう、ハヅキにしては珍しく素直に称賛を口にしたな」
ライカがニヤリと笑う。その声には、からかうような色があった。雰囲気が少し明るくなった。
「ここに来てから男と接する機会なんてほとんどなかっただろう? ちょっとドキドキしたりするんじゃないか?」
「なっ!? ……そ、そんなことはない」
慌てて否定するが、ライカはニヤニヤという笑みを深めるばかりだった。
「おお、結構意識してるようなリアクションだな。どんなところが気に入った?」
「気に入ったってほどじゃないが……ただ、私は性格が悪いからな。自然体で受け入れてくれる人は貴重だ」
悪いと思ったことは悪いと言わないと気が済まない。
間違いは正さずにはいられない。
我ながら性格が悪いと自分でも思う。
けれども、家族はそういう人ばっかりだったから自然とそういう常識が身に付いたのだろう。
「ハヅキの性格が悪いんじゃねえよ。社会が悪い」
唇を尖らせて、ひどく珍しい年相応な顔でライカが答えた。彼女はこの話になるととても頑固だ。
「ハヅキみたいに正直に物を言う奴の方が正しいに決まってる。悪いのはそれを認められない嘘つきだ」
ライカは、そういうことを言う時だけ本当に子どもみたいだ。普段は思慮深い大人みたいな立ち振る舞いをするくせに、ふとした時にこういった一面を見せてくる。
彼女は嘘が嫌いらしい。自他共に認める嘘つきなのに、だ。
「強情な奴だな」
自分を嫌っているという意味では、私とライカは似ている。
「じゃあ、ハヅキはあいつに救われたか?」
「救われた……? 急にどうしたんだ。お前は何を言っているんだ?」
私の言葉を聞いて、ライカは一瞬だけ顔を歪めた。
驚嘆と、嘆きと、それから決意。一瞬見えたはずのそれらは、次の瞬間には彼女の顔から消えていた。
「お前が何を言おうとしているかは分からないが……救われた、と言うなら私はお前に救われたのだろう。意固地になって、自分で自分を縛って、それで勝手に絶望した。──それで、お前に出会って少しだけ視野が広がった」
彼女の表情はうかがい知れない。私の言葉が届いているのか分からない。けれども、私は言葉を紡ぐ。正直に、誇張せず、ありのままを語る。
「『武士道と云うは死ぬことと見つけたり』。私があの頃取り憑かれていた言葉だ。どうすれば自分の赦せる自分になれるかと迷っていた。だから、聞こえの良い古い言葉に飛びついた」
死に場所を探していたのかもしれない。家族の重圧。自分の期待に応えられない自分。人類滅亡の危機。
悲劇的で価値ある死を迎えるのには、おあつらえ向きの舞台だった。
己の志に、何か箔をつけたかったのだ。
「それで、お前と出会ってそれを捨てた。お前は自分を噓つきだと嫌悪するが、私にとってお前のような噓つきは新しい正しさだった。杓子定規じゃない正しさがあると知った。……お前は、嘘で他人を幸せにした。私を含めて仲間皆をだ」
彼女は顔を上げない。
「だから、お前は噓つきの自分を肯定していいと思っている。少なくとも、私はそんなお前が好きだ」
「……それで」
彼女が顔を上げる。貼り付けたような無表情。彼女が嘘か本当か分からないことを言う時の顔だ。
「ハヅキは、自分を認められたか?」
「以前よりは、な。私とて、数か月でガラリと変わるような単純な人間じゃない」
ああ、これはきっと照れ隠しだ。私の悪癖。天邪鬼な性格の生んだ欠点。
普段のライカなら、「そうかそうか」なんてニヒルに笑っただろう。
しかし、今の彼女は私の言葉に小さく頷いただけだった。
「いや、変なことを話したな。悪い。ちょっと飲み過ぎたのかもしれない。ウォッカをストレートで飲み直してくる」
「おい、お前は未成年だろ」
彼女が背中を向けて、スタスタと自室に帰っていく。
私はそれを、不思議に思いつつも黙って見送った。
「やっぱり、噓つきじゃ救えないか」
その言葉は、他の誰の耳にも届くことはなかった。
◇
今日も剣道場での鍛錬が終わった。僕は防具を外して一息する。
すると、同じく防具を外したハヅキが、やけに真剣な表情をして近づいてきた。
汗をかいている時は僕にあまり近づいてこない彼女は、僕に必要以上に接近してきた。
色気より先に威圧感を覚える行動に、僕は少し身を引く。
「翔太。今日はお前に頼みがある」
「ハヅキが頼み? ……それは本当に珍しいね」
人に頼ることは恥じる彼女にしては本当に珍しい。
何を言うのだろうか、と彼女を観察する。
すると、彼女は僕の想像を超える行動に出た。
ハヅキは僕の手首をぐいと掴むと、自らの頭へと押し付けた。
初めてしっかりと触れた女の子の頭。
彼女に理由を問う前に、視界に異変が訪れた。
まるで、ハヅキの頭に全身が吸い込まれるような感覚だった。
視界が黒く染まっていき、どこか知らない場所に入っていく。
こうして、僕の意識は知らないところに連れていかれた。
〈TIPS〉アンカーが信頼を築いた纏姫の頭に触れると、その過去が見えることがあります。
最初に見えたのは、古風な日本家屋の内部だった。
足元には上品な畳が規則正しく敷き詰められている。
まるで幽霊になったみたいにその場に立っていた僕は、ふとライカの言っていたことを思い出した。
アンカーが纏姫の頭を触ると、その過去──幻想の元になった重要な過去が見える。
上座に厳めしい顔で正座をする男性。その顔には深い皺が刻まれていて、驚くほど冷徹な瞳で目の前の少女を見つめていた。
「葉月。あのざまはなんだ。家の教えを忘れたのか?」
まだ7、8歳程度の少女──小さなハヅキは、震える声で言葉を紡いだ。
「も、申し訳ありませんお父様……私は」
「立浪家の者がそんな風に謝るな!」
ハヅキの父親が勢い良く床を叩いた。
「何度教えたら分かるのだ! 我らは誇り高き維新志士の血を継ぐ一族! 義によって大事を為す者なのだぞ! それをこんな、小学生の剣の打ち合い程度で負けてどう世界を変えられるのだ!」
大声を聞くたびにハヅキがびくりと肩を震わす。
「お、お父様、小学生の剣と言っても」
「ふざけるな! あのような腰の抜けた剣が立浪の人間のものであっていいはずがない! 私はお前にどれだけ教えればいいのだ、この出来損ないめ!」
ハヅキがうつむく。今にも泣きそうな娘を前に、父親は深いため息をついた。
「情けない。士族の血もここまで墜ちたとあっては先祖に顔向けができん。貴様は物置で寝て凍死してしまえ」
「ッ……ぁ」
震える娘を背に、父親は戸を開けて部屋の外へと出て行った。
◇
再び視界が暗転する。次に見えたのは、木製の床と大きな建物。どうやら剣道場のようだった。
「情けない!」
バンッ、と竹刀が床を叩いた。どこかあの父親を思い出す声は、中学生程度まで成長したハヅキのものだった。
「そんなザマで全国大会に勝てるものか! 私たちは勝つためにここにいるのだろう!」
しん、という沈黙が下りる。 責された剣道着の部員たちは、おずおずと互いに目を合わせた。
「そんなこと言われたって……」
「私たち立浪さんみたいに強くないし」
「私たちなりに一生懸命にやってるのにね」
それを見たハヅキは深いため息をついた。失望した、という感情を言葉以上に表現したような態度に、部員たちが肩を縮こまらせる。
ハヅキが冷たい目で周囲を見渡してからその場を後にする。ちょうど、僕に顔が見える形だった。
「ハッ。──私もお父様と同じだったってことか」
深い自己嫌悪に塗れた声で吐き捨てて、彼女はわずかにうつむいた。
その表情は、この世で最も嫌いな人を見つめているみたいに険しかった。
視界がガラリと変わる。
それはハヅキが纏姫になってからの記憶のようだ。荒廃した都心の景色。「虚構の浸食」によって破壊された景色は、僕にとってもはや見慣れたものだ。
ちょうど朝日が昇ってきていた。ビルの残骸から顔を出した陽光が、彼女を見つめる白髪の人物を後ろから照らしていた。普段は暗く淀んでいる瞳に光が灯る。ニヒルに歪めてばかりの口端は、優しく微笑んでいる。パンツスーツに身を包んだライカが、ハヅキに優しく話しかける。
──それはまるで、後光を纏う天使のようだった。
「──いいじゃねえか、それで。正直者で自分にも他人にも厳しい。普通の学生なら爪弾きだが、オレたちがやってるのは生存競争だ。だからお前が正しい。お前はお前の正しさを信じていい」
「しかし、私のせいで連携が取れなくなっては……」
「違う。優れた人間が周りに合わせて凡庸になるのは間違ってる。正直者が正直なまま生きれる方が正しいんだ。だから、ちょっとオレに任せてくれ。オレはお前が得意なことはできないが、お前が苦手なことはできるんだ」
「私が苦手なこと?」
「そうだな、ブラックコーヒーを飲むとか、ダンスを踊るとか、折り鶴を作るとか」
「そ、それは今関係ないだろ!」
「──あと、人を騙すこと」
ニコリ、という笑み。瞳の奥は、伽藍堂のように空っぽだった。
「お前にも負けない自我と個性の強さの奴を集めればチームになる」
「とても集団行動できない一団ができそうだが……」
「オレが手綱を握る。お前らはせいぜいオレの嘘に騙されるといい。まず、最初の嘘だ。ハヅキ。お前のあわよくば戦いの中で死んでしまおうという気持ちは」
ハヅキが息を吞む。ピタリと言い当てられた気持ち。
「オレといるうちにどうでもいいことになっていくさ」
その笑顔は、たしかに本当のことを言っているようだった。
◇
回想が終わる。ハヅキは顔を真っ赤にしながら僕に話しかけた。
「私が恥を偲んで……一生分くらいの恥を偲んでこれを見せたのにはわけがある」
「そんな恥ずかしがることじゃないけど……」
良い思い出じゃないか。
恥ずかしがりな彼女だが、今まで見た中でも一番顔が赤い。目にちょっと涙すら浮かんでいる。
「私を救ってくれたライカを、今度はお前が救って欲しい。……私じゃ、無理なんだ」
「え?」
ハヅキらしからぬ弱弱しい言葉に、僕は思わず聞き返した。
「ライカは何か企んでいる。いつもの嘘だ」
「……いつものことだとは思うけど、何か事情が?」
「予感だ。あいつが自分の嘘で自分を傷つけようとしているという予感。あいつと同じ自分嫌いの直感とでも言うべきかもしれない」
少し前の僕なら、彼女が何を焦っているのか分からなかったかもしれない。
けれど今の僕なら。噓つきで、底が見えなくて、そのくせ変に子どもっぽい噓葺ライカのことを見てきた僕なら、ハヅキの懸念が分かった。
「あいつは何でもない風に他人を助けようとする。私が助けられたみたいにだ。私たちフォックス小隊はみんなそうやって少しずつあいつに助けられてきた。でも、今のライカからはそれ以上のことをしでかすような危うさを感じる。私では、嘘も吐けない私では彼女のことは分からない。だから、お前に頼みたいのだ。人の嘘が見抜けるお前に、ライカが何を考えているのか暴き立てて欲しいのだ」
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