第1章 第5話
美しい、だが全身が真っ黒で不気味な印象を与える少女が、泉に立っていた。泉に手を向け、ぶつぶつと何かを唱えている。
人間。最初はそう思った。だが、水の上に立てる人間など見たことも聞いたこともない。子供だから知らないだけかな、と一瞬思ったが、その考えはすぐに振り払った。そんな人間がいるわけがない。アッサムは剣を向けた。
「そんなおもちゃの剣を向けて、アタシに何か用?」
彼女は泉の表面を歩き、森に着地した。額には二本の角があった。やはり、魔物だ。
「お、お前、魔物だな! 僕と勝負だ!」
なかば剣に振らされるような形で、重い鉄の剣を振り下ろした。重力以外の勢いに乗れず、ふらふらな軌道を進む剣の先を、角の彼女は二本指で摘まんだ。
「こんなおもちゃ振り回してんじゃないわよ」
彼女が少し手首をスナップしただけで、アッサムは吹き飛ばされてしまった。柔らかい地面のお陰で怪我は無いが、剣が離れた場所に飛んでいってしまった。魔物を目の前にして、丸腰になってしまった。
「遊ぶなら、他に行きなさい。邪魔よ」
「ま、魔物のくせに、偉そうに!」
「人間のくせに生意気言ってんじゃないわよ。……待って。アンタ、どうやってここに来られたの?」
一度はアッサムに興味を失いかけた彼女が、ふと何かに気づいて顔を向ける。その圧に漏らしそうになったのを少量に留め、ばれない程度に湿った下着を手で隠しながら剣に向けて駆けた。
足がもつれて四つん這いになりながらも、手を伸ばせば剣に届くところまで来られた。実際に手を伸ばすと、剣の前に二本の華奢な脚が現れた。
「どうやってここに来たのかって訊いてんだけど」
「ひ……ひぃっ」
腰が抜けた。残っていた勇気と尿が全部漏れていった。
「はあ……世話がやける」
彼女が右手を泉にかざすと、泉からぽこんと水の玉が現れた。手をアッサムに向けると、水の玉は勢いよく飛んでいき、アッサムの顔を容赦なく殴打した。全身ずぶ濡れになった。
カーネルに貰ったタオルが、情けなくだらんと垂れてきた。立派なはずの刺繍まで、なんだか情けない染みのようになっていた。
「そのマーク……」
タオルに伸ばしてきた手を振り払い、アッサムは這う這うの体で逃げ出した。腰から下が言うことをきかない。違う生き物の上半身と下半身を無理やり繋げて、電気信号をやりとりさせているみたいだった。
「アタシは魔王。この命が欲しかったら、いつでも奪いに来るんだね。小便漏らし」
それだけ言うと、彼女は一瞬にして姿を消した。
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