月光の下で待つ2

 

 「お月様が見ている」という言葉が、子供の躾に使われているのをよく聞く。

 三つある月のいずれかが必ず空に浮かび、生活の間近に存在するためだ。

 大人が自身を律するために使うことも多い。

 日本でいうところの「お天道様が見ている」に近い言葉だろうか。

 ただし、他人の言葉や視線を意識することを示している「お天道様」は、「お月様」と比べると随分と可愛い物だ。

 見ているだけの「お天道様」と違って、「お月様」は光に照らされた罪を裁かずにはいられない。

 「お月様」は本当に見ている。

 

 月光派にとって、明言されることは無いが月こそが神である。

 空の事象を信仰する宗派にとっても、程度の差はあれども同様だろう。

 光の輝き、移動の軌跡、生じる影……。

 それぞれが崇めるのは月を中心とした事象であり、月そのものではない。

 理由は単純に畏れ多いからだ。

 書にも記されている通り、月の奇跡は国すらも容易く滅ぼす。

 月とは神と同義であり、神とは力と同義でもあった。

 

 神に伝令として天使がいるように、月にも天使がいる。

 原典によれば月の光は八番目の天使が管理し、月の軌跡は九番目の天使が記録している。

 月が二つだった時代から天使の存在は語り継がれ、強い力を宿す言葉となった。

 天使を呼ぶ音は失われ、正しい文字は誰にも読めず、それでも口伝として継承された。

 その八番目の天使を示す言葉こそがアンバーエイトであり、祝福された子どもに与えられる力ある名前でもあった。

 

 

 

 

 

 寝起きだからか、寝足りないのか、アンバーの銀色の瞳が揺れていた。

 パンを差し出せば黙々と口に含んでいく。

 次々と渡せば頬が膨れるくらいに限界まで詰め込んで、上半身を伏すように机に体を預けた。

 長い銀髪がさらさらと流れ、床に付きそうになっている。

 朝と夜、毎日掃除しているが汚れというのは下に溜まってしまう。

 折角綺麗な髪の毛をしているのに、扱いが雑なので放っておくとすぐに汚してしまう。

 さっと長い髪を掬いあげれば、アンバーは無言のまま大きな黒いリボンを手渡してきた。

 簡単に髪を纏めたが、結局本堂で好きに寝てるから汚れるんだよな。

 

「ねえ」

 

 もごもごと咀嚼していたパンを飲み込めたようで、机に伏したままのアンバーが視線を向けてくる。

 ぼんやりとした瞳には、期待の籠った色を秘めていた。

 

「あたしの本、貸してあげる。ツバキは本が好きでしょ」


 はい、と目の前に置かれたのは新品にしか見えない書物だった。

 この後のやり取りは一種の定型として決まっている。

 アンバーはそれでも期待しているのか、ただこのやり取りが好きなだけなのか。 

 

「うっわ、聖奠せいてんじゃん……。貸してくれなくていいよ。読めない本は好きじゃないから」

 

「やだ。勉強して一緒にお祈りして」

 

 月が二つだった古い時代から月光派が受け継いでいるとされる『文書機密』だ。

 奇跡が纏め上げられた聖奠せいてんで、助祭位以上となった者が希望すれば手に入る。

 それは他の書物と同様に時間の経過や環境の影響で劣化し、火で燃え滓になり、水でふやけて、力を込めるだけで破れる。

 そして、月の光によって再生する。

 この書を手にした者は、特別な祈りを学ぶことができる。

 いにしえの宗教国家を滅ぼした奇跡の起こし方、と言い換えてもいい。

 

「じゃあ夜は部屋に籠って勉強しないといけなくなるけど」

 

「ここで勉強しよ。ね?」

 

「いや、危ないし」

 

「あたしとツバキなら危なくないよ?」

 

「お祈りに来た人たちが危ないからダメなんだよなあ」

 

 聖奠せいてんを持ち主に戻す。

 「なんでー」とアンバーが不満を露にしたが、俺の方がなんでだよ。

 絶対に要らない。

 欲しいと思うだけで枕元に現れるらしいじゃん、もうそれ呪いの書だよ。

 教会では勉強したくない項目ですからね……。

 

「ツバキは意外とわがままだよね? 何ならいいの?」

 

聖奠せいてん関連以外ならほとんどなんでも……」

 

 言葉を最後まで発せずに、ついあくびが漏れた。

 意識すれば、黄色がかった白に近い室内の光は、淡い赤が混じるようになっていた。

 夜も深まり、本月が隠れ、遊月も昇る時間が近付いている証拠だった。

 

「なに? もうおねむ? ツバキは寝るの早くない?」

 

「早くないよ。遊月ゆうづきが昇る頃に寝てるんだから遅いくらいだって」

 

「そうかな。影月かげつきが出るまで起きてたほうがよくない?」

 

「それもう一緒に日が昇ってるから朝なんだよなあ」

 

 俺が部屋に戻って寝るとなると、大体アンバーは朝まで一人ここで過ごすことになる。

 年若い女の子が真夜中から明け方まで戸締りのない空間で一人残されていると考えると心配になるかもしれないが、奇跡を引き起こせるからなあ。

 ちなみに助祭になるには洗礼を受けなければいけない。

 ちなみに俺はこの世界に迷い込んだその日に洗礼させられた。

 怪しかったから仕方ないね。

 

「ファティエルといっぱいお話してたのにあたしとはしてくれないの?」

 

「……ちょっとだけだからね」

 

「やった。遊技盤で遊ぶ?」

 

「あれは長くなるから勘弁して。絶対寝不足になる」

 

「どうせお祈りするフリして昼寝してるじゃん」

 

「……神父様も寝てるからいいんだよ。それにアンバーもいるから失敗もないし」

 

「ふーん、それならしょうがないよねー。……そうだ、お月見しちゃう? お月見しちゃおう」

 

 なぜかテンションが高くなったアンバーよりも先に立ち上がり、手を差し出す。

 由緒正しいとされる力ある言葉が名付けられたアンバーの肉体は、華奢で儚い容姿の通り虚弱だった。

 アンバーエイトという力ある言葉が人間の肉体を弱らせるのか、元から弱いのかは知らない。

 わかっているのは、スキルによって月光の魔力を取り込めば日常生活を送れるということだけ。

 この本堂の中心を照らしている光が、街で最も魔力を含んだ月光らしい。

 夜間に溜め込んだ魔力のおかげか、アンバーの髪は銀色にほんのりと輝く。

 力ある名前を持つせいか浮世離れした雰囲気も合わさって、日中はどこか神秘的な姿をしている。

 ほとんど寝てるけど。

 

 

 

 ふらふらしているアンバーを支えながら壁に設置されている棚まで歩く。

 製本されずに紙の束として纏められている書物が並んでいる。

 教会に来た人が自由に読めるよう貸本として置かれている。

 俺が写本した物がほとんどで、種類が増えたと喜ばれたのが嬉しかった。

 

「神父様のボトルシップも増えたよね。アンバーもやってみる?」

 

「あたしはやんない。縫い物の練習からする、そのうち。……うん、そのうちね」

 

 神父様が趣味で作成しているボトルシップも並べられている。

 近所に住む子供たちがこれを眺めにやってきたりするくらい綺麗な作品だ。

 月光に照らされて、どことなく神秘的ですらある。

 残念ながら夜間に見に来る人はほとんどいないのだけれど。

 アンバーにも勧めてみたが、そういえば不器用だった。

 教会にいる女性はファティも含めて、時間があれば結構縫い物をやってたりするが、アンバーがやっている姿は見たことがない。

 俺も縫い物してみたいが、写本してくれって頼まれてしまう。

 

「俺もできないからなあ」

 

「でも写本してるじゃん」

 

「一緒にしたいのか? それなら手伝ってもらいたいくらいだけど」

 

「やだ。疲れるし。……今日はこれにしよ」

 

 棚に飾られた水晶玉の一つを、アンバーは指差した。

 今日は、と頭に付けていたが大抵この水晶が選ばれる。

 水晶玉は、魔力を利用しての遠見が可能で、アンバーはお月見と称していた。

 その中でも今日選んだ水晶は高度を操ることができる物だった。

 魔力を使うほど、月に近づける。

 

 この水晶を部屋の中心、最も月光の集まる場所に持っていけば夜空を見ることが出来る。

 地上で見るよりずっと綺麗な星を。

 月は見ない。

 神と同義である月を近づいて見るのは良くないとされているし、俺が見たいと思わないのもある。

 月を研究する派閥もある。

 大抵は錬金術師に転向するらしい。

 出来のいい天体望遠鏡を作ろうとして凝っているうちに、錬金術師になっているのだとか。

 だから月を見ようとする者は、錬金術師に向くとされている。

 

「ツバキは夜空が好きだもんね?」

 

「うん。でもアンバーも好きでしょ」

 

 俺がそう返すと、きょとんとした顔でアンバーはこちらを見返した。

 気づいていなかったのだろうか。

 その様子がおかしくてちょっと笑いながら、仮眠用の毛布などを部屋の中心に用意する。

 結局今夜も本堂でお月見してて、気づいたら眠っていそうだ。

 アンバーを毛布に包む。

 布団に似たクッションを床に置き、その上に水晶を乗せる。

 月光を取り込んで、透き通るようだった石が夜闇を取り込んだかのように真っ暗になった。

 ここからの操作は俺には出来ないので、アンバーを待つ。

 が、何も起きない。

 どうしたのだろうかとアンバーを見れば、ぼんやりした瞳が俺を見ていた。

 銀色の瞳は吸い込まれそうなほどに澄んでいた。

 寝たげに半分ほど閉じられていなければ、ずっと見てしまうかもしれないくらいに。

 

「どうかした?」

 

「……なんでもない。そうだね、星空が好きだよ。今はね。今夜も一緒に見ようね」

 

 アンバーが穏やかに微笑んだ。

 

 

 

 

 

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