第6話 ミステリー研究会
父が死んでからというもの、しばらくは、案の定母親との会話もなく、ぎこちない生活が続いていたが、それも、父親のいわゆる、
「遺書」
なる手紙が出てきたことで、若干、ぎこちなさが和らいだ気がした。
「まさかとは思うが、お父さんは、俺たち母子が、ぎこちなくなるのを見越して、こんな手紙を残したのではあるまいか?」
とも思えるほどだった。
だが、母と子というのは、二人きりになると、どこかぎこちないものだった。
もっとも、父親と娘ほど、ぎこちないものはないだろう。父親が娘に気を遣うというよりも、父親が娘を、
「女として見てはいけないんだ」
という感情になるからではないかと思えたのだった。
高校生の頃まで思春期であったので、その頃であれば、
「父と娘だけの家庭」
というのを想像すると、よこしまな思いが、妄想されるのではないかと思えた。
特に、高校生の頃に買った、
「エッチな本」
の中には、そういうものもあったりした。
「実の父親が、性的目的で、娘を覗いたり、娘の下着でエッチな妄想を」
などという話が普通に書かれていた。
中には、
「無理やり父親が、娘を……」
などという話に興奮したこともあった。
これほど、鬼畜のようなことはないと思うのだが、そんな話を読んで一人で妄想し、果てた痕でも、なぜか、自己嫌悪に陥ったり、賢者モードに入ったりすることはなかったのだ。
「どういうことなんだろう? 俺って、そんなに変態的なことで、興奮度が増してきてしまって、自己嫌悪を通り越してしまうんじゃないのだろうか?」
と思うのだった。
そう思うと、
「俺って、大人になってから、娘を作ってはいけない父親なんだろうか?」
と考えてしまう。
「そういうことを考えていると、余計に娘ができたりするんだよな?」
と思うと、子供ができるのが怖かったりもするのだが、妄想していたのは、あくまでも、思春期の時代だけだった。高校時代に受験勉強に明け暮れるようになると、性的欲求不満は抜けないのだが、思春期の頃のような、変質者的な発想は出てくることはなかった。
「思春期の頃に妄想していたことが、却って今は妄想しなくなった分、よかったんだろうか?」
と感じるようになった。
「思春期における妄想は、ひょっとすると、すぐに飽きるものなのかも知れない」
と感じた。
「きれいな女性の顔はすぐに飽きる」
という意味で、
「美人は3日で飽きる」
と言われることがあるが、興奮も、数回感じれば、もう感覚がマヒしてくることになるのではないか?
と思えたのだ。
それが、思春期という時期によるものなのか、妄想した回数によるものなのか、その時に考えて図っていたわけではないので、よく分からないが、確かに、
「飽きが来た」
という感覚は間違いなかったようで、だが、それがいつのことだったのかということを、ハッキリと自覚できたわけではなかった。
妄想というものを、いかにコントロールできるかというのが、課題なのだろうが、思春期が終わるまでに、いかに、コントロールできるかなのだが、もしできないのであれば、それまでに、
「飽きる」
という感覚に至る必要があるのではないかと思うのだった。
父親の本棚を見ると、結構変態的な内容の小説が多かった。探偵小説の中でも変格小説が多いのも、特筆すべきであるが、特に、
「耽美主義的な話」
というものが多いような気がした。
犯罪を芸術として考えるというもので、
「道徳やモラルを考えず、ただ、美というものをあくまでも追及するという考え方のことを、耽美主義という」
ということらしいのだが、探偵小説などでは、死体を芸術として捉えるような、一種の、
「見立て殺人」
というものも、ジャンルとしてはあるようだ。
日本の探偵小説にもあるではないか、
「俳句になぞらえて犯罪を犯す」
あるいは、
「手毬歌の歌詞に則って」
というような話もあったりする。
ただ、それは耽美主義というよりも、動機の面で、人間性の裏側を抉るような内容だったり、他の人を犯人に仕立て上げようとする、いわゆるちゃちいと言われるような内容だが、それを伏線として繰り広げられるストーリーなどで、トリックのバリエーションをつけるような話も多かったりした。
ある探偵小説作家が、まだ、日本では黎明時だった探偵小説であっても、
「もうすでに、大方のトリックは出尽くしていて、あとはバリエーションを利かせた話にすることで、トリックを延命させられる」
というようなことを言っていたのを思い出した。
ニュアンスは若干違っているように思うが、大まかにいえば、そういうことだと考えるのであった。
探偵小説の醍醐味は、やはり、その時代を知らないと分からないのだろうが、これだけ時代が違っていると、想像が妄想に変わり、違ったイメージで読まれているようで、それはそれで、小説の醍醐味は現れるというものだ。
「ブームというのは、周期的に訪れる」
と言われるが、その通りであった。
ブームもある程度のピークを越えると、飽和状態になってしまって、何が楽しいのか、分からなくなることがあるようだ。
だから、一時下火になったとしても、ファンが一人もいなくなるわけではない。底辺でファンが蠢いていたとしても、一度は爆発的なブームになったものであれば、時代が巡ってくるということで、再燃するブームを受け入れることができる。
特にカルトなものであったり、カオスなものである場合などに、よく言われることである。
時代が流れて、戻ってくるブームの周期は、ほぼ毎回同じだというのは、ブームの流れが、時代背景には関係がないということを示しているのではないだろうか?
ただ、時代がどんな時代であっても、色褪せることもないものもある。
変質的なものは、特にそういう恒久的なものであるような気がするのは、気のせいであろうか?
しかし、SMであったり、近親相姦などのような、タブーとされていることというのは、時代がいつであっても、衰えることはない。
それは、太古の昔からずっと続いてきているものであり、その分、人間というものが、変質的なことに、あくなき探求心を持っているということの裏返しではないかと思える。
「決して見てはいけない」
あるいは、
「決して開けてはいけない」
と言われる、いわゆる、
「見るなのタブー」
と言われるものは、言い方は悪いが、
「不滅の考えだ」
といえるのではないだろうか?
ある意味、世の中にはなくてはならないものであり、
「必要悪」
のようなものなのかも知れない。
「タブー」
という言葉には、そういう意味合いも含まれているのではないだろうか?
大学時代、崇城は、ミステリー研究会に所属していた。
ミステリーを読んだりするだけではなく、ミステリーの歴史を研究したり、新たなミステリーを発掘したり、あるいは、自分でミステリーを書いて、同人誌を作ったりと、ミステリーに関してのことであれば、多岐にわたって、何でもありの部活であった。
中には、ミステリーツアーと称して、ミステリー小説に登場する場所を巡る、
「取材旅行」
という名目の、温泉巡りなどを目的に入ってくる人もいた。
取材旅行には、小説の場面を巡るという目的とは別に、
「文豪たちの愛した温泉や秘境の宿」
などを巡る旅も含まれていて、さながら、旅行研究会と揶揄されたりもしたが、
「別にいいさ。ウソではないからな」
ということで、入部してくる連中の動機は何であれ、
「来る者は拒まず」
という姿勢が、結構人気を誇っているのか、中には旅行以外の時は幽霊部員という人もかなりいるが、実際に名簿を作ってみると、100名近くも部員が存在した。
そのうちの真面目に定期的に活動しているのは、30名くらいではないだろうか。その中から、活動ごとに別れると考え、中には重複して参加している人もいるのを考えると、1活動には、7、8人くらいというところであろうか。
それでも、意外と、
「自分で小説を書いてみたい」
という人が10名くらいいて、結構人気のようだった。
そもそも、サークル活動をしたいと思う人なら、小説を書くくらいの気概を持っている人が多いであろう。読書だったら、一人でもできるからである。
そういう意味で、定期的にでも読書の方に参加している人は、他と重複している人が多く、執筆の人も数名いるし、旅行目的で入部してきた人も結構いる。旅行目的で入ってきた人が、読書に目覚めるのは、嬉しいことで、部の執行部としては、本当は、
「そういう部員こそ、逃がさないようにしっかり、捕まえていたいものだ」
と考えていた。
彼らなら、ちゃんと部費も払ってくれるからだ。
旅行目的の連中の中の幽霊部員は、部費を払わない。だから、旅行は、自費に近いのだが、それでも、団体で温泉旅行ができるのが嬉しいということで入ってきた連中には、貴重な存在なのだろう。
部の執行部は、そんな連中も暖かく受け入れてくれる。それだけ大学のサークルというのは、オープンなものであった。
崇城は、その中で、最初は読書目的で入ったのだが、今では自分でも小説を書くようになった。最初、ミステリーサークルというから、
「ミステリーを研究するだけのサークルなんだ」
と思っていたのだが、実際に活動していくうちに、小説を書いて、定期的に同人誌を発行しているのを知ると、
「これはいい」
ということで、自分もさっそく書いてみて、執筆グループの人に見せてみた。
「ほう、なかなかセンスがあるじゃないか? 今度の号から、参加してみないか?」
と誘われた。
その時の、
「センスがある」
という言われ方が、崇城にはツボだったのだ。
「そう言ってくれると嬉しいです。じゃあ、もっとたくさん書いてみようかな?」
と言って、その頃から、
「小説を書く」
ということに頭がシフトしたことで、いつもメモを持ち歩いたり、頭の中で絶えずトリックを考えてみたりと、完全に、執筆家の頭の回転をするようになっていたのだ。
小説を書く前に、ミステリーの中でも、探偵小説と言われた、黎明期のものを結構読んだのが、高校時代だった。そして、ミステリーサークルに入ってからは、
「ミステリーの歴史」
についても、障りの部分だけではあったが、勉強した。
特に日本のミステリーの歴史であったり、トリックの種類などというもの、作家の中には、自分の作品で提唱している人もいるので、それらを読んだりもしたのだ。昔の探偵小説作家というのは、結構評論家であっても、いけるというくらいに勉強していて、
「勉強することが、執筆に繋がるんだ」
ということを証明しているかのようだった。
勉強していると、いろいろなミステリーだけではなく、他のジャンルの小説との繋がりであったり、今の時代の小説に関してまで、いろいろ分かってくる。
実際に、今の小説をそんなに読んだという意識はないが、どうしても、トリックに限りがあるというよりも、実際に昔使えたトリックが、今は通用しなくなっていることが結構多い、それは、科学技術の発展であったり、社会の構造や、犯罪自体の多様化などもあり、防犯という意識も芽生えているのも事実だろう。
防犯というので、よくあるのが、事故なども多いのだろうが、犯罪の多様性ということであれば、
「ストーカー事件」
であったり、特に最近などであれば、
「あおり運転」
などという、昔もあったのかも知れないが、今ほど、社会問題になることはなかったことなどがある。
そういう意味で、防犯カメラが至るところに据え付けられたり、車の中でのドライブレコーダーなど、後で問題になった時に証拠として残しておく道具も、今は、備え付けられている。
そうなると、犯人のアリバイ工作も実にやりにくいものだ。
しかも、アリバイの証明もあっという間にできてしまうことで、すぐに容疑者から、除外されるという意味で、トリックにはなかなか使えない。
昔であれば、コンビニに寄ったりしたら、レシートを持っていれば、アリバイになったかも知れないが、それも、別の人が行ったかも知れないということで、疑うことはできる。防犯カメラなどの普及していない時代であれば、夜の静寂を縫って、犯行を行うということもできただろう。
それでも。推理小説などであれば、少々、強引であっても、小説として成り立たせることはできるが、本当の犯罪捜査においては、防犯カメラの映像は、犯人にとって有利であろうが、警察に有利であろうが、
「動かぬ証拠だ」
ということには変わりはないだろう。
防犯カメラと、アリバイという問題は、推理小説を書く上で、難しい
「狭き門」
と言ってもいいだろう。
そういう意味で、医学の進歩によって、一番、不可能に近いトリックと言われるのは、何と言っても、
「首のない死体のトリック」
と言われた、
「死体損壊トリック」
であろう。
首を切り取ったり、顔をメチャクチャに潰し、さらに、指紋のある手首から先を切り取ったうえで、身体に手術の痕などがあれば、その周辺を傷つけておくことで、何と言っても、
「被害者が誰なのか?」
ということに結びついたのだ。
しかも、被害者が分からないということは、当然犯人にたどりつけないということであり、まずは、被害者が誰であるかを特定することが先決であろう。犯罪捜査というのは、被害者が特定されて、そこから、被害者が死ぬことで、誰が得をするかということから始まるものだからである。
それがなければ、容疑者を特定することもできず、そこからアリバイや、犯行に使用したものの入手経路などの捜査になるのである。
しかし、今のように、医学が発展してくると、顔がなかったり、指紋がなくても、
「DNA検査」
で、ある程度のことが分かるというものだ。
親子関係だって、90パーセント後半の確率で分かるというではないか? 首を切り取っても、指紋がなくても、今であれば、ある程度まで。被害者を特定することはできるだろう。
そういう意味で、死体損壊トリックというのは、不可能に近くなったといってもいいのではないだろうか?
また、犯罪というものの中には、
「うまくできれば完全犯罪」
というものがある、
致命的な欠陥があるので、実際の犯罪には使えないが、小説などであれば、できなくもない。それがいわゆる、
「交換殺人」
というものだ。
交換殺人というと、
「お互いに利害のある人間、つまり殺したい相手がいて、相手の代わりに自分が相手の殺したい相手を殺し、逆に相手に、自分の殺したい相手を殺してもらう」
というものである。
これには、多くの障害もあるが、うまくいけば、これ以上の完全犯罪はない。なぜならば、
「自分が殺した相手と自分との間に利害関係はない」
からである。
逆に言えば、自分と被害者、あるいは、計画した相手との繋がりが分かってしまうと、交換殺人は、まったくその機能を失ってしまうことになるのだ。
そういう意味で、交換殺人というのは、成功率は、他の犯罪に比べて、相当に低いものだといってもいい。
犯罪のトリックと言えるわけではないが、犯罪トリックの中で、同じ部類に入るとすれば、それは、
「一人二役のトリック」
と同じではないだろうか。
というのも、
「どちらも、分かった時点で、犯罪の特異性は失われてしまう」
ということだ。
つまり、一人二役も、トリックが分かった時点で、犯人、あるいは被害者が特定されてしまう。一人二役は、そのどちらか、(あるいはどちらも)特定されてはいけないという特異性も持っているのだ。
交換殺人も同じで、交換殺人の特異性は、
「まず、犯人に、計画犯と実行犯がいて、それぞれの事件で入れ替わるということだ。そして、実行犯は、決して、被害者とは利害関係があってはならない。ということは、計画犯と実行犯が知り合いであるということがバレてしまっては、多大な障害を経てまで行う意義が失われる」
ということである。
一人二役も交換殺人にも共通して言えることは、
「犯行を実行するために、相当前から計画に着手する必要があるということである。
一人二役であれば、もう一つの役の人間が、この世に存在しているという痕跡を、しっかり残しておかなければならない。
「そんな人間は最初から存在していなかったんだ」
と思われてしまうと、事件は終わってしまったといっても過言ではないだろう。
その人間が、いなかったということが分かり、推理を最初から練り直されてしまうと、事件の真相は、ほぼ白昼の元に晒されてしまうことであろう。
そうなってしまうと、それまでの伏線がすべて証拠になってしまい、すべての努力が今度は犯人を追い詰めることになる。
そういう意味で、交換殺人も同じことだ。
交換殺人を行うには、まず、自分と同じように、誰か死んでほしいが、犯罪を犯すには、度胸がなかったり、大切な家族がいるので、捕まることは許されない。
などと言ったことから、自分と同じ立場の人を探すことから始めるのだ。
そうしておいて、お互いに誰を殺してほしいかを話し合い、そこから初めて、犯罪計画を練ることになる。
もちろん、この時点から、お互いが知り合いだということを知られないようにしなければいけない。どこかで会って、計画を練るというにしても、人目のあるところではまずいということだ。
そして犯罪計画の中には、利害がある方の犯人には、完璧なアリバイを作っておく必要がある。
ただ、難しいのは、確かに完璧なアリバイが必要なのだが、あまり完璧すぎてしまうと、
「却って、警察に疑われるのではないか?」
ともいえるのだ。
だからと言って、それを怖がることはできない。疑われても、利害のない人間が犯人であれば、実行犯に警察が近づくことはできないからだ。
だから、逆に近づかれてしまうと、計画は半分失敗したといってもいい。
そういう意味で。交換殺人も、一人二役のトリックも、どちらも、
「もろ刃の剣」
だといえるのではないだろうか?
ほとんどのトリックは、最初から分かっているものが多い。
「死体損壊トリック」
「アリバイトリック」
「密室トリック」
「物理的なトリック」
などは、最初から分かっているものだが、
「心理トリック」
「一人二役」
「叙述トリック」
などは、そのトリックを使用しての犯行だと分かった時点で、計画はほぼ失敗したといってもいいだろう。
ちなみに、叙述トリックというのは、
「小説という形式自体が持つ暗黙の前提や、偏見を利用したトリック」
と呼ばれるもので、いわゆる、推理小説などにのみ存在するもので、筆者が第一人称で書き進めていく中で、読者に、暗示を与えて、ミスリードするというような話である。
ある意味、交換殺人などと近い発想なのかも知れない。
小説を書き始める前にはいろいろな下準備がいる。プロットという設計図を書くのもその準備段階のことだった。
トリックの内容。登場人物、そして、時代背景。誰をターゲットにして書くか?
などといろいろある中で、著者としての、立ち位置を、
「一人称で書くか、三人称で書くか?」
ということも、重要である。
「叙述トリック」
というものは、一人称で書かないと書けるものではない。
ちなみにであるが、昔の探偵小説に出てくる、探偵には、ほとんどの場合、助手というものが存在する。
ほとんどの場合は、事件の補佐役という立ち位置で見られているが、
黎明期の探偵小説での立ち位置というのは、別の意味があった。
助手というと、
「シャーロックホームズに、ワトソン」、
「由利凛太朗に、三ツ木俊助」
「神津恭介に、松下研三」
などがそうであろう、
ただ、
「明智小五郎には、少年探偵団としての小林芳夫などがいるが、小林少年の場合は、今回の括りには入らない」
のである。
助手の役目というのは、探偵が事件を解決していく際における。事件の、
「筆記要因」
という要素があるのだ。
だから、助手が、新聞記者であったり、雑誌記者だというのは、そういうところがあるからだ。事件を解決する探偵が、自分の目線で事件を見つめるというのは、小説を書いていくうえで、なかなか難しいところがある。だから、助手に筆記させるという形で、事件を流していくというやり方が取られたのだった。
「なるほど」
と感じる部分もあり、
だからこそ、叙述系のトリックには、
「あくまでも、実際の小説では実現しにくいが、探偵小説のジャンルとしては、十分にありうる」
というものである。
そういう意味でのトリックや、探偵小説のジャンル的なものは、大きく分けて、2つに分けられるだろう。
「最初から分かっているものと、分かってしまえば、そこで犯人の負けになってしまうという小説が存在する」
ということである。
崇城が大学時代にミステリー研究会に所属していたのには、訳がある。
その理由としては、
「父親が死んだ時、父親が残した遺書のようなものを見たからである」
といえるのではないだろうか?
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