第3話 父の死
そんな父が病に倒れたのは、それから、1カ月も経っていなかったのではないか?
最初は、父親の影がなかったことを非常に気にして、気持ち悪さからか、それから少しの間、父親が出かける時、後ろから見ていて、影があるかどうかを確認したものだった。
幸いなことに、影を見なかったのはその日だけで、時間が経つにつれ、
「あれは、気のせいだったのではないか?」
と思うようになった。
そう感じたのが、影を見ることができなかったあの日から、1週間くらい経ってからであろう。
一度、緊張の糸が切れてしまうと、もう心配をすることもなかった。
「お父さんにそんなことがあったなんて、誰にも言っちゃあダメなんだ」
と思った。
あくまでも、自分の勘違いであり、それをいまさら蒸し返すようなことはありえない。そんなことを口にすると、皆が変に気にするかも知れない。
特に母親は、超常現象のようなことを気にするところがあるので、変に騒ぎ立てると、後になってから、
「あんたが、変なこというから、あれからなかなか寝付かれなくなっちゃったじゃない」
などと言われるかも知れない。
それは、本当に眠れる眠れないにかかわらずである。要するに、因縁をつけて、自分の正当性を訴えたいのだろう。
父親は逆に、超常現象というのは信じてはいないが、その代わり、病気などには、神経が過敏になっていて、すぐに病院に診てもらいに行く方だった。
それは家族に対しても同じで、ちょっと風邪を引いたというだけで、子供の頃は、熱もないのに、小児科に連れていかれたのを思い出していた。
父親は、聖人君子のようなところがある割には、神経質なところがある。
「聖人君子なところと、神経質なところは関係ないよ」
と言われるが、父親を見ていると、
「一概に、そうとは言えない」
と言えなくもなかった。
神経質な人間は、いい面悪い面、両方を持っている。父親の場合は、いい方なのだろうと思うのだが、普段が聖人君子のような人なので、却って、神経質な時は、いい方に神経質であっても、悪く見えてくるのは、ある意味、損な性格なのかも知れない。
父親は、結構細かいところがあった。だから、神経質と言われるゆえんなのだろうが、仕事の上では、あまりいいことではなかったようだ。
まだ、40代前半で、会社では課長クラスだという。
家では、仕事のことを一切話さない父親で、完全に、仕事と家庭を分けているようだった。
ただ、たまに、会社の話をすることがあった。そんな時は何かの共通点があるのだろうが、実際に話を聞いてみると。いつも同じことを話しているのだ。
「前に同じことを聞いたんだけどな」
と思うが、さすがにそれを戒めることはできなかった。
そんなことを言ってしまうと、神経質な父親は、必要以上に、考え込んでしまうかも知れない。
他人に対しては聖人君子のようなところのある人だったが、こと自分のことに関しては、実に不器用だった。母親からも時々、
「お父さんは、生き方が不器用だから、損をすることもあるのよね」
と言っていた。
神経質なのは、その意識があるからだろうか? 不器用だから、器用に生きようとしても難しい。だから、堅実に生きようと考えたのかも知れない。
そう思うと、父親の考えが少しだけ分かってきたような気がした。
「不器用な生き方しかできないから、真面目でいようと思うんだ」
と言っていたが、見ていると、逆に、
「真面目な生き方しかできず、損をすることが多いので、不器用なんじゃないかな?」
ということが、父親の短所だと思い、それが自分にとっての、
「反面教師ではないか?」
と思うようになったのだ。
高校生の崇城にとって、父親は反面教師であり、不器用な生き方しかできない人だという認識の方が強かったのだ。
病に倒れ、闘病生活を続ける父親であったが、崇城自身は、大学に合格して一段落したつもりだったので、とりあえず、自分のことが落ち着いた後でよかったとは思っていた。
だが、父も、闘病生活が長くなり、母親も看病から、心痛の状態が続き、崇城の時々、自分が変わってあげてはいたが、さすがに母親も仕事を続けるのが難しくなり、会社を、
「休職」
することになった。
そんな父が急変したのは、入院してから、3カ月後だっただろうか? 容体は、それほどひどいようには見えなかったのだが、入院しても、いまだに聖人君子のようにまわりに接していたその態度が急変したのだ。
「いつも、済まないな」
と言っていた父親が、明らかに苛立っている。
「何で、この俺が」
や、
「あぁ、イライラする」
というような、愚痴は不満をこぼし始めたのだ。
母親は、神妙な顔をして、じっと耐えていた。そんな母親に対しても何か苛立ちを感じるようで、母親に対しての苛立ちは尋常ではなくなっていた。
さすがに、モノを投げつけるというところまではいっておらず。とりあえず、身内にだけ辛く当たっていた。
崇城に対しても、今まで見せたことのない面を惜しげもなく見せるようになった。不満の理不尽さは、それまでの聖人君子に見えた父親の反動であるかのようだった。
しかし、表向きには、まだまだ聖人君子で、会社の人の見舞いにも快く応じ、医者の治療にも、今までと態度が変わっていない。
だから、父親の急変を、まわりの人は知る由もなかっただろう。
母親は、たまりかねて、主治医に精神的な異変を相談していたようだが、本人がどのようになるか、医者にはその様子を見せないので、医者も何をどうすればいいのか分からないからか、
「患者さんは心細くなっているだけですから、周りの人が支えてあげるしかないですよね?」
と言われてしまうと、母親も、
「そうですね」
と言って引き下がるしかなかった。
母親にしてみれば、自分だって、そんな相談をしたくはなかったはずだ。それを意を決する形で思い切って相談しても、この状態であれば、どうすることもできない。
それを思うと、息子から見ていて、母親の方が心配だった。
と言いながら、自分もいつキレるか分からない。
それとも我慢しすぎて、参ってしまうことになりはしないかと思うと、そちらも怖かったりする。
それまで、聖人君子だと思っていた相手が、ここまで豹変するのだから、余計に精神的にはきつい。
「今まで一番の理解者だと思っていた相手が、急に、世の中で一番接しにくい相手になり、だからと言って見捨てることのできない、そんな立場は、そんな風になってしまったことにより、抜けられない、
「負のスパイラル」
に落ち込んでしまったということなのであろう。
「病気でさえなければ、離婚だって考えたのに」
と思っているかも知れない。
離婚という逃げ道すらなくなってしまった母親を見ていると、お互いに、自分たちだけしか仲間がいないことを悟っていた。
もし、父親の急変が、他の人にも及んでいれば、もう少し精神的にも楽だったのかも知れない。
「私はどうすればいいの?」
気分的には四面楚歌で、追い込まれていただろう。
いくら父親がまわりに隠そうとも、家族の様子を見ていれば、どのような状態になっているかなどということは分かりそうなものだった。
息子の崇城も、母親を見ていて気の毒に思い、なるべく助けてあげたいと思うのだが、下手に父親を怒らせて、さらに、母親に危害が加わることは、望んでもいないことだった。
ただ、そんな父親の苛立ちもそうは長くは続かなかった。
実際に罵声の矢面に立っていると、数日くらいしか経っていないのに、すでに、1カ月くらい経ってしまったかのように感じ、想像以上にストレスが溜まっているのが分かった。
息子でそんなくらいなのに、ほとんど一緒にいて介護している母親には、身体が衰弱している分だけ、時間を感じていることだろう。
「1か月もこんな罵声を浴びていれば、精神が肉体を蝕むのは、時間の問題なんだろうな?」
と感じたのだ。
確かに母親の衰弱はみるみるうちにひどくなってきた。
まわりの人は罵声の事実を知らないので、
「それだけ看護がきついのだろう」
と、母親の精神よりも、肉体の方がついていっていないように見えることだろう。
逆に母親の方は、肉体の強靭さでもっているのだろうが、精神が後からついていっていることで、今のところ倒れずに済んでいるだけだった。
何かで急に精神的にキレてしまいと、母親も一気に倒れてしまうのは分かっていた。
それでも何とかもっているのは、それだけ母親の精神力が強いのか。それとも、父親が、最後の禁じ手というべきワードをうまく言わずにここまで来たのかということだろう。
それでも、息子から見て。
「実際に、1カ月がピークではないだろうか?」
と思っていた。
最初の数日で、これだけ精神的に参ってしまうのだから、本当に時間の問題だったに違いない。
そうは言っても、母親のやつれはひどいものだった。10日も経てば、さすがに先生も怪しいと思い、母親にカウンセリングをしているようだった。
主治医は、精神科でも勤務したことがある人だったので、きっと早めに母親の異変を見つけてくれたのだろうが、息子から見れば、
「これでも、まだまだ遅いくらいだ」
というくらいであった。
ただし、その頃になると、父親もだいぶ衰弱しているようで、やつれがひどくなっていくようだった。
それでも、罵声はとどまるところを知らない。
数日、身体の窶れから、罵声はなかった時期があったが、その間に母親が元に戻るかと思ったが、その寸前に、父親の方が身体が楽になったのか、また罵声を浴びせ始めた。
母親は、我慢できないピークが、あとどれくらい続けばいいのか、一拍あったことで、少しは伸びたかも知れない。
そんな周期が、数日間の間で繰り返されるようになった。
それから母親も少し変わっていった。最初は何かにショックを受けたようだったが、父親から罵声を浴びせられても、そこまで精神的に追い詰められることはなくなっていた。
崇城はその理由が分からなかった。分かろうとも思わなかったが、母親が少しずつ復活していくことはよかったと思うのだった。
「一体、どうすればいいんだ?」
という感情があるのは変わらなかったようなので、母親の中で、何かの開き直りがあったとしか思えなかった。
それがどこから来るものか、それが分かったのは、1カ月後のことだった。
その頃には、父親は発作を起こすようになっていた。そして、その発作の感覚がどんどん短くなっていく。
そしてある日、母親が崇城に話をしてくれたのだが、その内容を聞いてもすぐには理解しかねたのだった。
なぜなら、
「あれだけ罵倒できるだけの気力も体力もあるのに」
というものだった。
それでも、本来ならショックなはずのその言葉に、どこか安心したところがあった。
「これで正常な精神状態に戻ることができる」
というのが本音だった。
母親から言われたその内容というのは、
「お父さん、実は癌なの。先生からは、もって3カ月と言われていたの」
ということだった。
「そっか、お母さんがあれだけ言われて我慢できてる理由はそこにあるんだね?」
というと、大粒の涙を流しながら、
「ええ、そうよ、本当はお父さんのことはあなたにずっと話さないつもりでいたの。余命三カ月などということを聞いて、あなたが動揺してしまい、お父さんに悟られたらまずいわと思っていたから黙っていたんだけど、あなたも私と同じようにノイローゼになってしまいそうに見えたので、これはまずいと思ったのね。だから、あなたにだけは話しておく必要があると思ったの。だから、あなたもお父さんに悟られないようにしてね」
というではないか。
「そっか、そういうことなら分かった」
と、それまでのいくつかの疑問がほとんど解消されたような気がした。
そう言って、考えていたが、
「そっか、そういうことなら、俺も我慢できるような気がする」
と感じていた。
だが、あの父親の罵声に対して、余命3カ月の相手だと思うと、どこまで、どのように我慢していいのか分からなかった。
このような捻じれた状況での我慢というのが、どれほどのものか、崇城には分かっていなかったのだ。
逆に知ってしまうと、自分の方としても、変に開き直り、
「売り言葉に買い言葉」
下手をすると、ふとした表紙に、本当のことを言ってしまうかも知れない。
「とにかく、こういう状況で一番自分を楽にできるのは、開き直ることしかない」
と感じた。
だから、開き直るために、父親に本当のことを教えて、それがきっかけで、罵声も飛ばないのであれば、その方がいいと考えたりもした。
ただ、もう一つの感覚で、
「お父さん、本当のことを知ってるんじゃないかな?」
ということだった。
本当のことを知っているからこそ、父親なりの開き直りがあの態度ではなかったのだろうか?
今まで、聖人君子を務めてきたのは、まわりの期待にこたえなければいけないという使命感のようなものがあるからなのかも知れない。
あれこそが、父親の開き直りであり、我慢の限界を超えたことが、いかに押し殺してきた本性を現したのだと思うと、
「こんなにまで我慢していたんだ」
というほど、可哀そうに思えてくるのだった。
「いいの? お母さんはそれで」
と、何がいいのか分からなかったが、母親が何か、完全に開き直れていない感じがしたので、思わず聞いてみた。
「いいのよ。お母さんもあんたに相談して気が楽になったからね」
という。
「俺と母さんは、今は同じ思いに違いないと思っているので、その母さんがいいというのであれば、それでいいとも思うけど、お父さんも気の毒な人だったんだな」
というと、
「私はそうは思わない。聖人君子のようにしていたのは、お父さんが絶えず何かを我慢していたわけではなかったんだと思うのよ。最初はそうだったのかも知れないけど、お父さんはお父さんなりに、どこかで開き直りができたのね。そうじゃないと、あんなに聖人君子にはなれないものね。でも、今度は死ぬということが襲い掛かってきた。お父さんは開き直りの代償に、今までの我慢を発散させなければいけない状態になった。もし、開き直れなかったとしても、結果は一緒だったのだとすれば、これがお父さんにとって一番いいことなのかどうかは分からないけど、見えている人生を全うするには、いまさら変えることはできないんだって思うのよ」
というのが母親の意見だった。
罵倒をまともに浴びながら、ここまで考えがまとまっていることに、息子としても感銘を受けた。
「やはり、夫婦というものなんだな」
と感じると、
「お父さんの好きにさせてあげなさい」
と言ったその言葉が、すべてを物語っているように思えたのだ。
「お母さんが望むなら、俺は反対しない」
というと、とにかく、今は我慢するしかないと思うよりほかに何もなかったのだ。
そんな父親が急変し、もう話をすることもできない状態で、いよいよ、集中治療室に入れられた。
他の家族とは、状況が違っているが、まわりから見て、
「どこの親も変わりない」
という発想になっているのは当たり前のことのようだった。
ただ、さすがに命に限りがあるとはいえ、暴言を吐くのは許されることではない。あまりにも母親がかわいそうだと思ったが、当の本人である母親が、
「いい」
というのだ。
それを無理強いすることもできないし、
「どうせ、老い先短い命なんだ」
と思えばいいのだが、よく考えれば、それは、父親が死ぬのを待っているということであり、
「本当にそれでいいのか?」
としか、言いようがないではないか。
それでも、数日我慢していると、いよいよ父親も罵声を飛ばすどころか、何も喋ればくなってきた。
食事も摂ることもできない、昏睡状態に入った。人工呼吸器で、とりあえず生きながらえているだけであった。
そんな様子を見ていると、
「死ぬのがかわいそうだ」
という感覚よりも、
「こんな状態になったのなら、いっそのこと、一思いに楽になった方がいいのではないか?」
と思うようになった。
実際にこんな様子を見た人間でないと思わないだろう。しかも、
「もって、三か月」
といわれたそのちょうどタイムリミットなのだ。
だから、父親が死んでいくことは、今さら覚悟の上なのだ。
覚悟の上ということは、延命も考えていないということで、医者にはその話はしてある。そんな父親が人工呼吸器で、生かされているという状況を見ていて、母親はボソッとつぶやいた。
「お父さん、本当は自分の運命を知っていたのかも知れないわね」
と言い出した。
覚悟は決めていただけに、崇城もそれを聞いて別に驚くこともなく、
「そうかも知れないね」
と答えた。
お父さんが、覚悟を決めていたからこそ、罵声を浴びせたのかも知れないとも思った。自分も父親の立場になって、
「あと少ししか生きられない」
ということが分かると、やり残したこともわかっていなかったら、気が触れたような状態になるかも知れない。
まったく動かずに人工呼吸器で生かされている状態を見ていると、病気になる寸前に、家の前でみた父親の後ろ姿を思い出した。
そう、あの影が見えなかった時の光景である。
あれこそ、虫の知らせだったのかも知れない。そう思うくせに、父が入院してからそのことを感じるのは今が初めてだった。入院してからというもの、目まぐるしく変わった毎日だったことが、そのことを思い出す隙を与えなかったのかも知れない。
父親が倒れたということを、学校で聞かされ、びっくりして病院に駆け込んだ。母親の顔は明らかに顔色は悪く、
「とんでもないことが起こったんだ」
ということは想像がついた。
「お父さんが、お父さんが」
という言葉を繰り返すだけで、何があったのか、要領を得なかったが、なるほど、かなりひどいということはすぐに想像ができたのは、無意識に、少し前に見た、影のない父親を思い出したからなのかも知れない。
ただ、ショックが激しかったからか、思い出したことをすぐに忘れてしまったのだろう。だから、今までにも思い出しているかも知れないが、その都度、忘れてしまっているというのも、まんざら間違っていないのではないだろうか?
だが、はっきり頭の中の映像として思い出したのは、父親の意識が、
「もう戻らないかも知れない」
というところまで行って、やっと鮮明に思い出せたのだった。
先生がいうには、
「できるだけの努力はいたしますが、覚悟だけはしておいてください。もし、他に最期を看取らせてあげたい方がおられましたら、呼んでおいてください」
ということであった。
完全に、最後通牒を突き付けられたのである。
父親が、亡くなったのは、それから3日後のことであった。それ以上、集中治療室での対応が長引いていれば、見守る家族の方も、精神的にも肉体的にもきつかったというのはわかっていることだった。
そういう意味では、
「助かった」
といってもいいのだろうが、それからも大変だった。
通夜、葬儀などと、目まぐるしい日々がやってきて、気づけば、日にちが過ぎていたという感覚だったが、結果としては、母親と息子が残された形になったのだ。
今後のことは、父親の生命保険などで、何とかやりくりができるだろうということだった。
母親も仕事に復帰できるということだったので、当座の困窮はない。大学の学費も、
「お父さんの生命保険を足しにさせてもらうわね」
と、お母さんが墓前に報告したのだった。
母親は、少しの間、家にいた。会社からは、
「落ち着いて、仕事を頑張れるようになったら、来てください」
といわれていた。
母親は、その通りにすることにした。どうせ、会社に行っても、まともに仕事なんかできるはずもない。
それよりも、済ませることを済ませてからの方がいいということを、母親は分かっていたのだ。
そこが母親のいいところだった。
というのは、どちらかというと、あまり器用ではない母親は、物事を順序立てて行わないと何事もうまく行かないタイプだった。
だが、実際にそういう、
「石橋を叩いて渡る」
というような仕事のこなし方をしていると、まわりからは、信頼を受けるようで、母親は、その仕事ぶりを買われてか、課長職をしていた。
父親も、そんな母親を誇りに思っていたようで、自分の仕事を家庭には持ち込まないのに、母親の相談には結構乗ってあげていたのだ。
だが、そんな父親だったが、最期の最期で、その気持ちが本当だったのかどうか、考えさせられてしまった。
母親への罵倒の中に、
「女のくせに課長職なんかになりやがって」
というような言い方もしていた。
さすがに聞いていて、イラっときた崇城であったが、母親は、それでも耐えていた。きっと自分の仕事に誇りを持っていたからだろうが、本当であれば、一触即発になったとしても、無理もないことだ。
母親としては、
「そんなに文句があったのなら、元気な時に言えばいいのに?」
というくらいの思いはあったことだろう。
それでも、もう文句を言いたくても、当の本人はいなくなってしまったのだ。父親が罵声を浴びせていたのを思い出すと、
「ひょっとすると、あの時は、もうすでに、自分で自分が分からないくらいになっていたのかも知れない」
と感じたのだ。
「そんな父親も、もういない」
崇城は、そう思うと、寂しさも悲しさも、通り越してしまったような気がした。
母親が、父親の遺品を整理している。普段は絶対に入ることのなかった父親の書斎だった。
家族3人で、3LDKは、少し贅沢ではあったが、そのうちの一部屋を、父親は書斎として使っていた。
これは、父親のたっての願いであり、その分、
「俺の小遣い減らしてもいい」
というほどだった。
自分一人の書斎を持つのが夢だったようで、それは、新婚の時から変わっていないということだった。
そんな亡き父親の書斎に入った母親は、書斎の中で、
「まだ、あの人がここにいるみたいだわ」
と呟いた。
あれだけ、一人の書斎にこだわったのは、一人で瞑想するのが好きだったようで、そんな書斎で、最初の1時間は、何もできずに、ただ佇んでいる母親であった。
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