第2話 聖人君子

 母親は、どちらかというとわがままな性格だったような気がする。そんな母親をうまく操縦して、夫婦生活や家庭を築いてきたのは、ひとえに父親の性格によるものではないだろうか?

「聖人君子」

 などと言われるが、まさにその通りだったような気がする。

 少々のことを言われても怒るようなことはしない。ただ、相手に必要だと思うことであれば、少々強引かも? と思えるようなことであっても、推し進めようとするところがある。

 だが、最初はかたくなに拒んでいた相手も、次第に父親の説得に折れてくるのだ。

 父親のやり方は、最初に相手に対して、一度だけ、恫喝をする。しかし、相手はそれを恫喝と思わないほどにやわらかいもので、恫喝されたとしても、それは、

「自分が間違っているのではないか?」

 と思わせるほどのものである。

 だから、最初の一撃は一瞬だけ、相手の気持ちをつく。それは、隙をつくというようなもので、相手は、ふいを疲れて我に返るのだが、その次には、恫喝されたという意識は消えているのだ。

 その代わり、我に返ったことは意識の中にあるので、自分が、父親と真正面から向き合っているのだと、思わせるのだ。

 それが、父親の一撃ともいえるテクニックなのではないだろうか。

 その時点で、もうすでに、ペースは父親に握られてしまっている。そこから先は決して恫喝することも、マウントを取ろうとすることもない。そうしなくとも、マウントなどいらないのだ。すでに相手は冷静になって相手と正対しているのだから、これ以上の立ち位置はないということであろう。

 そう考えると、

「すでに、信頼を与えられた」

 と相手に思わせることに成功しているのだった。

 そのため、ここまで行くと、よほどのことがないと、父親の話に逆らおうという気が失せてしまっていることだろう。

 言い方は悪いが、

「洗脳されている」

 と言ってもいいかも知れない。

 もし、この洗脳を行う人間が、聖人君子のような人間でなければ、間違った方向に道が開けてくるのだが、父親に限ってはそんなことはなかった。

 だから、まわりの人のほとんどは、父親のことを、

「まるで聖人君子のような人だ」

 と、尊敬の念を込めていうのだった。

 普通、聖人君子という言葉を使う時というのは、結構皮肉めいた使い方をする場合が多い。

 誰かをいさめる時などに、

「何を偉そうに、聖人君子にでもなったつもりか?」

 と言われてしまうと、マウントを取るどころか、面目が丸潰れの状態になってしまうであろう。

 だから、言動と行動に辻褄が合っていないと、相手からは信用されない。

 いい行動をしているのに、言動がまずく、相手に誤解を与えてしまう人のいるが、そういう人のことを、

「惜しい人だ。あるいは、残念な人だ」

 と言われたりもするが、まさにその通りだろう。

 逆に、言葉ではいいことを言っていても、行動が伴っていないと、

「惜しい」

 とまでも言われない。

 それこそ、憎まれることになるのであり、

「何を偉そうに、聖人君子にでもなったつもりか?」

 と言われる人間こそ、まさしくその通りなのである。

 父親の場合は、まず行動があって、言動がその後から、ちゃんとついていっているので、「聖人君子」

 と言われても、それは皮肉でもなんでもないのである。

 言葉ばかりが立派で、行動を伴っていないと言われるのが、一時期、社会問題になった、

「新興宗教団体」

 ではないだろうか。

 立派なことを言って信者を増やし、中には、国家転覆を企んだり、自分たちの立場を警察が嗅ぎまわっていると思うことで、その追及の目を他にそらそうとして、大きな事件を巻き起こすような輩がいた時代もあった。

 そんな時代を見てきて、さらには、そんな連中に関わった人間には、黒歴史でしかないのだ。

 そんな連中こそ、

「言っていることは聖人君子であるが、やっていることは……」

 なのである。

 だからこそ、

「聖人君子」

 という言葉が、軽々しく感じられるようになり、

「教祖様」

 という言葉がまるで、

「悪の巣窟」

 であるかのように、見られてしまうのだ。

 これも、群集心理の悪いところなのかも知れない。

 たくさんの人が教団に入り、教祖を神のごとく祀っていれば、人生においての救世主を待ち望んでいる人間には、本当に神に見えるのかも知れない。

「たくさんの人が」

 というワードが、自分に安心感を与え、少なくとも五里霧中の状態において、その教祖だけが、前に答えを示してくれているのであれば、怪しいと思うよりも、救世主だと思うことが先であろう。

 そう思うと、救世主というものを待ち望んでいる人は皆、教団を慕っている人たちを仲間と思い、そんな連中を暖かいと思うと、今度は今まで生きてきた自分の世界で、

「果たして、誰が何をしてくれた?」

 と考えると、温かさだけが正義のように思えてくるのだ。

 親や、仲間と思っている連中も、最後には自分を裏切るものだと思い込む。どちらにも温かさを感じないからだ。

 親は、口うるさいだけで、自分が子供時代のことも忘れてしまって、子供を必死に戒めようとする。

 それは、言い聞かせているわけではなく、洗脳しようとしているようにしか思えないのだった。

「血が繋がっているんだから、自分の考えは分かるはずだ」

 という思いや、

「自分ができたことは、自分の子供だからできるはずだ」

 という思い込みが、子供を孤立させるのだった。

 子供は親が思っているほど、血の繋がりなどということを意識するわけではない。

 そのくせ、親が、

「自分の子供だったら分かるはずだ」

 と感じる思いを。ソックリそのまま親に対して感じているのだ。

 つまりは、

「親なんだから、子供の気持ちが分かるはずだ。しかも、自分が子供だった時代があったわけじゃないか。分からないはずなどない」

 という思いがあるのだ。

「親の心子知らず」

 と言われ、あくまでも、親の気持ちばかりを考えるような理屈になるが、それは、世の中が、やはり大人中心だからだということになるのだろう。

 最近では、

「男女平等」

 と言われているが、なぜ、

「大人と子供が平等」

 ということが言われないのだろうか?

 やはり、

「親というものが偉い」

 という考えが根底になるからなのか?

 今の世の中、子供を生みっぱなしで、幼児虐待があったり、養育放棄状態になり、子供が孤独に餓死したなどという話もある。ちょっと前の社会問題では、パチンコ屋の駐車場で、子供を置き去りにするなどという事件が多発した時があった。

 まるで、示し合わせたようなそんな状況に、

「本当に連鎖というものはあるのだろうか?」

 と考えさせられてしまうのではないか?

 親子の関係というものがどういうものなのか、正直誰が分かるというのだろう。子供時代も分かっていて、大人になって自分が親になる。親も子供も両方経験しているのに、子供の頃の経験が生かされていない親がどれほど多いということか?

 だが、考えてみれば、それは当たり前のこと、そんな親に育てられた子供が親になるのである。

「あんな親にはなりたくない」

 という思いを抱いているくせに、結局は、

「あんな親」

 になってしまうのだ。

 ということは、

「あんな親になりたくない」

 という思いよりも、さらに強い思いがあるということであろう。

 その思いは、感情だけではなく、自分の身体の中に沁みついた、

「トラウマ」

 というものから来ているのではないだろうか?

 というのも、子供の頃に受けた、外圧がトラウマになり、自分の子供には、そんな思いはさせたくないという感情よりも、トラウマが親になった時、逆の思いを感じさせ、

「本当は、あんな大人になりたい」

 と思っていたのかも知れない。

 それは、

「俺ばかりが辛い思いをして、自分の子供にも同じ思いをさせないと、割に合わない」

 という感情なのかも知れない。

 大人になると、子供の頃のような感情を押し殺してしまい、そのため、

「損得勘定」

 で、世の中や自分の生きる意味を判断しようと考えるのではないだろうか?

 だから、トラウマが教えてくれた損得勘定は、

「自分の子供にも同じ目に遭わせなければ、割に合わない」

 という考えなのではないだろうか?

 確かに子供の頃は、同じ思いを子供に味合わせたくないと思っていたくせに、大人になると、簡単に忘れてしまうのだろう。

 ただ、これが母親ともなると、

「母性本能」

 というものが働くからか、父親のような威厳があるわけではなく、少しは子供のことを考えようとするのだろう。

 しかし、その反面、自分の好きなことができないことへの反動やギャップで、余計に、

「好きなことにのめり込めば、子供を忘れてしまう」

 ということが起こるのかも知れない。

 それが、パチンコ屋の駐車場に手の、子供の置き去り事件であったり、

「折檻」

 という名目で、子供を寒空の中、ベランダに置き去りにしておいて、自分は、さっさと不倫相手のところに通って、

「不倫相手と二人の間は、子供のことを忘れてもバチは当たらない」

 などと思い、結局、最高のバツを与えられることになるだろう。

 そんな時の親というのは、冷たくなった子供を発見した時、どういう気持ちになるというのだろう?

 子供ができた時は、

「パチンコ屋の駐車場に子供を置き去りにする親なんて、最低だ」

 と、テレビを見ながら口走り、実際にそう思っていたことだろう。

 だが、まさか、自分が同じように子供を置き去りにしてしまうことになるなど、思ってもいなかったはずだ。結局、損得勘定に動いてしまい、

「子供と今までずっと一緒にいたのだから、ちょっとくらい、女の幸せに癒されたっていいじゃない」

 と思い込むことで、普段から、

「子供のために犠牲に遭っている母親」

 という思いを持っていることで、死んでいる子供を見ても、

「私が悪いんじゃない」

 と、思っていることだろう。

 後悔するかも知れないと考えれば、子供のことを置き去りにしてしまうようなことはないはずだ。

 パチンコで夢中になって、子供を忘れてしまうのと、浮気相手に夢中になり、子供を置き去りにしてしまったまま気づかないでいるのと、どこがどう違うというのだろうか?

 確かに、普段から子育てのためにいっぱいいっぱいであることには気の毒な部分はないとも言えないが、だからといって、最後に後悔するのは自分である。

 そして、

「自分の子供を殺してしまった」

 というトラウマを一生抱えて生きていくということがどういうことなのかを、漢字ながら生きていかなければいけないのだ。

 そうなってしまえば、誰も同情はしてくれない。

「少し気の毒かな?」

 とは思っても、許せる行為ではないというのが、皆の気持ちであろう。

 もし分かってくれる人がいるとすれば、同じように、子供を殺してしまった母親しかいない。分かってもらえたとしても、そこから先は、何もないといっても過言ではないだろう。

「人間というもの、一度の後悔が、一生の後悔となってしまっては遅いのだ」

 ということなのではないだろうか?

 そういう意味で、子供の頃の仕打ちを、意識せずに自分の子供に対してしている親は、

「一生の後悔予備軍」

 と言ってもいいだろう。

 しかも無意識であるのだとすれば、いつ何が起こっても不思議はないという状態なのではないだろうか?

「大人になるというのは、どういうことなのか?」

 というのは、きっと、人生を最後まで終えた瞬間であっても、分からないままの人が多いのではないだろうか?

 子供が大人になる時、大人は意識するのだろうか?

 前述のように、性的な話題に触れられ、露骨な表現をされると、

「何言ってるの。そんなこと、大きな声でいうもんじゃありません」

 と、親の方が、まるで申し訳ないとばかりに、顔を真っ赤にしている。

 子供としては、

「これは、言ってはいけないことなんだ?」

 という意識でいると、学校の中の悪友と呼ばれる連中から、

「性教育の講義」

 を受けると、たぶん、生徒の方は、

「そんなこと大声で言っちゃあ、ダメなんだよ」

 と諭すような言い方をするかも知れない。

 すると、相手はきっと、大きな声で笑うであろう。

「ははは、お前は本当に子供だな? 大人になり切っていない証拠だ」

 とでも言われれば、大人になるということが正しいことであり、大人になるためには、キチンとした性教育を受ける必要があるということを言われると、ただ、理性という言葉に操られているくせに、理性を失って、子供の言ったことを恥ずかしいという人間に、矛盾を感じることだろう。

 この、性教育の講義をしてくれている、先生が、今度は、

「本当の大人」

 とでもいうように思えてくるのだった。

 だから、性教育を正しいものだと思うようになると、大人がなぜ、そこまで羞恥を感じるのかということが疑問になってくる。

 そのことは、先生にも分からない。

 それはそうだろう。何しろ先生とはいえ、自分よりも、少し先に知識を頭に入れただけという、同じ子供だからである。

「大人なんて、子供の延長でしかない」

 と思うと、今の親を見れば理屈は分かる気がする。

「自分が子供だった時のことを忘れたのか?」

 と言ったとしても、身体だけが子供が生める体勢になっただけではないか。

 グルリと回って、今度は自分が親になるという意識が本当にあるのだろうか? それがないから、

「親にはなったが、大人になったのかどうかは、分からない」

 ということなのだろう。

 そんな中でも、父親のことは尊敬していた。いつもまわりの人から信頼され、相談を受けているようだ。親戚で集まった時も、あまり口数は多くないが、自分から人に寄っていかない分、人が近づいてくる。

 父親を見ていて、

「すごいな」

 と思うのは、絶対に人を否定しないところであった。

 実際に子供の頃から見ていてもそう思ったのだが、ある日、親せきが集まった時、トイレに行った時、洗面所から聞こえてきた会話が、まさに自分が感じていることと同じだったのを聞いた時、誇らしく感じた。

 というのは、父親を誇らしく感じたのか、自分が思っていたことをまわりも感じていたことで、

「我ながら、俺の見る目も悪くないじゃないか?」

 という思いも相まって、誇らしげに感じたようだった。

 そんなことを思いながら、

「お父さんの、どこがそんなに皆から尊敬の念を集めるんだろう?」

 と考えていた。

 確かに、子供の自分から見ていても、どこか貫禄のようなものがあり、人と会話をしていても、普段からあまり人と話をしない人と変わらないぎこちなさがあるにも関わらず、

「何をそんなに貫禄を感じさせるんだろう?」

 と思っていると、次第に、父親が大きく見えてくるのを感じた。

 そして、大きく見えてくると、どうしても目立ってしまい、その一挙手一同が、よくも悪くも目立つのであった。

 そんな中で、目立つのだから、少々でも無駄な動きがあれば、悪い方に目立つはずである。

 それなのに、悪い方に目立ったりしなかった。

 ということは、

「無駄な動きが一切ない」

 ということなのであろう。

 そう思うと、

「動きに余裕があるから、無駄な動きが一切ないのかも知れないな」

 と思った。

「余裕があるから余計な動きがない」

 ということだ。

 その余裕は、精神的なものから来ているに違いない。動きというのは、頭が伝達することで、身体が動くものだからである。

 だから見ていて、次第に大きくなるのだろう。要するに、

「無駄のない動きと、精神的に余裕があることは、見ていて、すべてがいい方に循環して見えてくるに違いない」

 ということだと感じたのだ。

 だから、父親が相手に対してする助言には重たさがあるのだろう。そして、その重たさこそが、

「相手に与える安心感」

 から来ているものだと感じた。

 果たして、自分の目で見える範囲にいる人の中に、他に、そんな安心感を他人に与えられる人がいるだろうか?

 自分の父親だということで、贔屓目に見ていると言われればそれまでだが、逆に母親に対しては、

「わがままな人だ」

 という印象しか伝わってこない。

 それでも、母親からは温かさが伝わってくるのは、やはり、それこそが、

「血の繋がり」

 というものではないかと、感じるのであった。

「血の繋がりなんて、迷信のようなものだ」

 と思っていたが、このわがままだと思う母親に対して、血の繋がりを感じるというのは、実に皮肉なことだといえるのではないだろうか?

 その点、父親には。そういう曖昧な感情があるわけではない。理論的に段階を踏んでみていて、実際に、安心感を感じるのだ。

 そんな父親を見ていて、

「聖人君子というのは、お父さんのような人のことをいうんだろうな?」

 と感じ、却って大人になるにつれて、自分が緊張するのか、ぎこちなくなり、近づきにくい存在になっていったのだった。

「お父さんのそばには、いつも誰かがいて、近づきにくい」

 と思うようになってきた。

 別にいつも誰かがいるわけではない。そんなことは分かっているのだが、少しでも距離を血詰め用とすると、そこには、緊迫感が張り巡らされていて、普段感じたことのない緊張感に包まれて、ひどい時には、金縛りにでも遭ったかのように感じるのだった。

 高校時代などは、特にそうだった。

 仕事で帰りも遅くなっていて、顔を合わせることもほとんどない。

 朝も、食事をしながら、新聞を読んでいる。父親は会社までが遠いので、崇城が起きてくる頃には、ちょうど食事を終えて、出勤体制に入るところだった。

 母親は、父親よりも、息子の食事があるので、父親の見送りや、出かける用意などをしている暇はなかった。

 だから、朝の出勤は、いつも余裕のある精神状態で、無駄な動きをしないはずの父親が、唯一、ぎこちない時間なのかも知れない。

 一度、出勤していく父親の背中を見たことがあったが、自分の中で驚愕するほど、その背中が小さく見えたものだった。

 背筋は、かなり曲がっていて、それこそ、老人のようであった。背中からは寂しさが醸しだされていて、哀愁という言葉とは、かけ離れていたようだった。

 そういう意味で、

「お父さんに、哀愁というのを感じたことはなかったな」

 と思った。

「哀愁というと聞こえはいいが、しょせんは、皆寂しさを哀愁という言葉でごまかしているだけではないか?」

 と感じさせられた。

 今まで感じたことがない種類の寂しさを父親に感じた。

「何かが違う」

 という思いは次第に強くなってくる。

 その違いに気づいたのは、それから1カ月後くらいであった。

 いつものように、父親が、洗面所から出て、着替えをしているかと思って、リビングに戻ってきた時、すでに、父親はいなかった。

「あれっ?」

 と思い、いつもならそんなことはしないのだが、何かの胸騒ぎがしたのか、いつもなら、そのままキッチンに戻って、朝食を食べるのだが、不気味な感じがあって、寝間着のまま、スリッパで表に出て行った。

「そんな恰好で、何しているの?」

 と、母親から叱られるのを百も承知で、飛び出したその時に見た父親の後ろ姿には、まるで、首なし死体が歩いているかと思うくらいにうな垂れていたのだ。

 その時に感じた、不気味さは、身体がゾッとするほどだった。

 まるで、幽霊でも見てしまったかのような感覚に、寒気があり、

「このまま熱でも出てくるのではないか?」

 と感じ、父親を再度見ると、

「分かった」

 と、なぜ、父親に哀愁ではなく、寂しさを感じるのかを理解した気がした。

 父親は、東に向かって歩いている。つまり、太陽は逆光で、その太陽に向かって歩いているのだ。

 だから、当然見えてくるはずのものが見えていないことに最初は気づかず、それが気持ち悪さになり、寂しさを感じさせたのだ。

「あるはずのもの」

 それは、足元から伸びているはずの影だった。

 その影がないことに気づくと、さらに、ゾクゾクしたものが、得体の知れない恐怖を運んでくる。

 正体がわかると、もうそれは気持ち悪さではなく、ハッキリと恐怖だと感じるのだ。普通ならありえないことが起こっている。前に見た時も、気づかなかっただけで、やはり影が見えていなかったのだろうか?

 そう思うと、急に、1カ月も前のことが、昨日のことだったかのように思えてきて、

「こういうのを、デジャブというんだろうか?」

 と、考えた。

 影のないことを、

「デジャブを見た」

 ということで片付ければ、少しは恐怖というものが和らぐのではないかと思えたのだった。

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