第八話 虚無と無意味の世界で

 この頃めっきり抜け落ちやすくなったサナギの髪を慎重にいているときに、それは起こった。サナギの背中の内部から、小さな警告音が鳴り響いたのだ。

「なに? どうしたの?」

「お別れのときがきました」ブラシを止めたカミーリアに、サナギは淡々と報告した。「予備電池が寿命を迎えました。もう、夜間に電力を供給する手段はありません。日が沈んで太陽電池パネルからの出力が基準値以下にさがれば、十数秒以内にメモリ内の全データが不可逆的に消失します」

「じゃあ、新しいバッテリーがあれば助かるのね? 待ってて、今から探してくるから!」

「無駄です、おやめください。この近辺は、もう十年もかけて探し尽くしたではありませんか。今から見つかるわけがありません。そもそも、お嬢さまは太陽の下に出られません」

 枯渇しかかっている電力を表情用アクチュエーターに注ぎ込み、サナギはにこっと笑顔を浮かべた。それはカミーリアの目には、彼女を元気づけるため、無理に浮かべた笑顔のように見えた。

「会話が可能なうちに、お礼を述べておきます――二十六年間のご使用、ありがとうございました。以前に海岸でしたお話は、憶えてらっしゃいますか? わたしはお嬢さまについてきたことを、一瞬だって後悔したことはありません。素晴らしい体験でした。本当に、素晴らしい体験でした。ひとりで床を磨き続けるよりも、ずっとずっと意義ある体験でした――もう、直接お話しすることはできませんが、これからもサナギはお嬢さまの中にいます」

 この日が来ることを予測して、残されたメモリのごく僅かな空き領域を利用し、数年前から少しずつ構築してきた別れの言葉を喋り終えると、サナギは力尽きたように沈黙した。

 カミーリアは呆然としていた。

 あと半日ほどで太陽が沈めば、永遠に消える。サナギの記憶も、思考も、人格も、魂も。そのあとには、からっぽの抜け殻だけが残る。羽化を果たせずに死んださなぎの殻が。

 そして、カミーリアがこの世に存在する意味も消える。

 カミーリアは絶望の思いで、よろよろと立ちあがった。今は、消えゆく友のそばにいてやるべきかもしれない。しかし、それだけの勇気を示す精神力は、カミーリアには残されていなかった。


 思えば、サナギとは何者であったろうか? 単なる対話機械に過ぎない。けれども、いつの間にかサナギはカミーリアのすべてとなっていた。

 そもそも、世界には生命もなく、名誉もなく、魂もなく、精神もなく、愛もない。存在もなく、思考もなく、運命もなく、自由もなく、価値もなく、意味もない。それらはすべて、現象に対する主観的な解釈に与えられた言葉に過ぎない。

 現実にあるのは、ただ永遠の虚無に浮かぶ、物質と情報の無意味な相互作用だけであった。

 ただ、自分が“存在”し、“思考”しているという錯覚を持つ者たちが、その無意味の中に、なんらかの意味や価値があるという幻想を見出すのだった。

 さながら、木目の中に人の顔を見出し、茶碗に残った茶葉の形に運命を見出し、対話機械の単語の羅列に意味を見出し、脳細胞の電気信号に価値を見出すように。

 それは、世界の虚無と無意味に対する、はかない抵抗であった。


 だからこそ、この圧倒的な虚無と無意味の中で、カミーリアは祈らずにはいられなかった。この世界に意味が存在しないなら、自分の全存在を懸けて、意味を見出さねばならない。

 ――お願いします。サナギを助けてください。サナギを助けてくれたなら、あたしのすべてを差し上げますから――


 何時間祈り続けたであろうか。あるいは、せいぜい数分だったのかもしれない。

 大空のはるか彼方から聞こえてくる轟音を、カミーリアの鋭い聴覚がとらえた。カミーリアは日光を避けつつ、礼拝堂の鎧戸の隙間から、上空の様子を窺った。

 北の空に浮かんだ一機のヘリコプターが、ゆっくりと青空を横切って、南へと向かっていた。

 カミーリアは自分の目が信じられなかった。こんな虚無と無意味の世界で、かかる奇跡が起こるとは思えない。発狂した自分が見ている幻覚に決まっている。

 けれども、そのヘリコプターは彼女の妄想の産物ではなかった。

 では、ついに人間の文明が復活したのだろうか――カミーリアの胸には往年の不死者の王国の夢がよみがえったが、今はサナギの身が最優先である。サナギの電源を確保するまでは、人間に怪しまれるような危険はおかせない。

 自分の体に目を落とすと、着ている黒モスリンのドレスはひどい有様だった。それは、まだ腕が動いた頃のサナギが最後に繕ってくれたもので、どうしても手放す気になれなかった。

 しかし、今はこれくらいの格好の方が好都合だ。とにかく、生き残りの人間の少女と、お供の機械人形を装わねばならない。大丈夫。人間は愚かだ。簡単に騙せる。

 サナギに使われている電源は当時の規格品で、そんなに珍しいものではない。あのヘリコプターになら、サナギを数日は延命できるくらいの電源があるだろう。彼らの本拠地には、新品のバッテリーさえあるかもしれない。

 そうだ、ヘリコプターを飛ばせるほどの技術が復活しているのだ。きっと、初めて会ったときのような綺麗な体や、新しい足だって手に入る。そうしたら、昔のようにサナギと一緒に散歩したり、際限なくお喋りができるようになる。

 人間たちに不死を与えてやるのは、そのあとでも十分に間に合う。

 しかし、どうやってヘリにこちらの存在を伝えればいいのか? カミーリアは、この日のために発煙筒を用意しておかなかった自分の迂闊さを呪った。

 とにかく、煙をあげるには燃やすものが必要だ。燃やすものは――あった!

 カミーリアは地下にあった自分の棺を礼拝堂へ運び上げると、一心不乱に引き裂き始めた。サナギが選んでくれた棺を壊すのは胸が痛んだが、背に腹はかえられない。長期間の絶食で思った以上に腕力が衰えており、棺を数枚の板切れに分解するだけで、ひどく時間がかかった。

 出来上がった薪の山に点火して戸口から抛り出そうとして、はたと気が付いた。肝心の火を点ける道具が何もない。彼女の食事に煮炊きは必要なかったし、寒さをしのぐ必要もなかった。闇夜を見通せる目には、照明の必要もなかった。

 そもそも火をおこせたとして、間に合うのだろうか? こんな厚い板切れを燃やすには、相応の時間がかかるだろう。よしんば今すぐにマッチかライターを見つけ出せたとしても、ヘリが行ってしまう前に十分な煙をあげられるとは、到底思えなかった。

 ヘリは、すでに教会の上空を通り過ぎて、南の空へ向かっていた。明日も来るだろうか? いや、明日ではもう遅い。

 ふたたび、虚無と無意味が、カミーリアの世界を覆いつつあった。

 行ってしまう。サナギの再生の希望が。

 消えてしまう。サナギの命が。

 二十六年間のふたりのすべてが。何もかも。





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