第76話美丈夫の苦悩

 青年は崖の上から大河を見て泣いている。

「どうしました、若。故郷が恋しくなられましたかな」

 そういうのは孫家の宿老・程普ていふである。

「そんな女々しい気持ちで泣いていたのではない」

 孫策は言った。


「この偉大な長江を眺めているうちに父・孫堅の勇姿を思い出したのだ」

 孫策は大河に向けて手を広げながら続けた。

「この長江に500艘の船を並べ所狭しと暴れまわった父・孫堅。子供心にそれがいかにたくましく頼もしく見えたことか」

 孫策は袖で涙をぬぐった。

「あの劉表の配下・黄祖こうその起死回生の罠にはまらなければ、今頃父は一大強国を築いていたであろう。それ以来孫家はおちぶれ今や袁術えんじゅつなんぞの食客の身。孫家を再興せねばならぬのに俺は毎日何をやっている。それに不甲斐なくて涙を流したのだ」


「それならば亡き父上のようにお立ち上がりなさいませ」

「立とうとしたさ!だが何度募兵をしても兵が集まらぬのだ!」

 ここ淮南わいなんの地でわざわざ評判の悪い孫策の部下に進んでなろうという者はまったくいない。

 情けないことに孫策の日頃の傲岸不遜さとプライドの高さが彼が立身しようとするのを妨げている。


「では袁術に伝国の玉璽ぎょくじを渡して、父上どのの元々の兵を返してもらえばよいではないか」

 そう言ったのは周瑜しゅうゆであった。

「瑜、いつからそこにいたのだ」

「なに策の泣きっつらが遠くから見えたのでな。ちょっと寄ってみたのだ」

 この二人は莫逆の友であるため互いにいみなで呼び合うことを良しとしていた。どちらが上でどちらが下でもない平等な関係であった。


「しかし玉璽を持つものは天のときを得たと同じ。それを自ら手放すとなれば天に逆らうということではないのか」

 ふっ、と周瑜は鼻で笑った。

 こういうところが他のものから見れば鼻持ちならない。


「天の刻というが実際は人が天を動かしているのだ。結局は歴史は人が動かしているのだ。天の刻を得られないと君は言うが、孫伯符という男子は歴史をみずからは作れないほどの器量であったのか」

 その言葉は孫策のプライドをくすぐり、そして揺さぶった。




「考えてみよう」

 孫策は周瑜の提言には一理あると思ったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る