《1ー4号室ー忘却少女と雀の悲劇》

 幽世館の従業員には個人部屋が割り当てられている。大きさも内装も一般の客室と変わらないが、部屋の質だけは最高級品である。

 …とは言っても、この場合の最高級品というのは、『各従業員が何不自由なく過ごせる空間』という意味での最高級品だ。部屋の材質やら家具の品質やら、申請さえ通せば自由に変えられる上に、扉の向こう側にある世界であればどんな物でも揃えられる。まぁ、流石に限度というものはあるのだが…。

 さて、では要望があった場合、申請は誰が通すのかと言うと…。


「今日の申請書です。確認お願い致します」


「全て許可。以上だ」


 この私、幽世方 楓である。

 書類の束を持ってきたジョセフィーヌは、不満げな表情でこちらを睨みつけていた。


「真面目にやってください。従業員一人一人の要望をしっかりと確認して、その善し悪しを決めるのが支配人。もとい幽世方様の仕事です」


「私は『仕事をしろ』と言われたから『仕事』をしたまでだ。全て許可する。内容を改めて確認して問題があり対処する必要があるのなら、それは貴様の仕事だ。ジョセフィーヌ」


 従業員の要望があった場合、内容を確認して申請の可否を決めるのは私の仕事だ。しかし、許可したとしても全てが取り入れられる訳では無い。そこには『資金』という分厚い壁が立ちはだかっている。そして資金面を確認するのはジョセフィーヌの仕事だ。

 つまり、私が申請を許可した書類を、次はジョセフィーヌが確認するというダブルチェック形式なのだ。

 本来は支配人である私が最後に確認するらしいのだが、今の私は支配人兼見習いというよく分からない肩書き。そのため、私の教育係であるジョセフィーヌが最終的なチェックを行っているという状況なのだ。


「…ワタクシが確認するのは“ 幽世方様”の“ 後”です。それに、従業員の好みや意見を知れる貴重な機会ですので、ちゃんと目を通していただきませんと」


「なら、私の意見も聞いてもらおう。何度も言ってるが、私はこの訳の分からんホテルで支配人なんてやるつもりは無い!故に、仕事をするつもりもない!支配人もホテルも客も知ったことか。心配なら貴様がやれ」


 ある日、目が覚めたらこのホテルにいた。訳が分からないまま契約しろとこの女に迫られ、なんやかんやあって死にかけた挙句、いつの間にか私は契約書にサインをしていた。していたとは言っても、恐らくは私が気絶している間に書かせたものだろう。人間かどうかも怪しい連中ばかりなんだ。筆跡を真似るくらいの事は難しくないだろう。

 このやり取りは何度も行った事であるが、その度にジョセフィーヌは呆れたようにため息を付く。


「…承知しました。では当面の間、支配人としての仕事はワタクシが請け負いましょう。ですが……」


 そして、だいたい次の言葉も決まっている。


「イサカ スズメ様のお相手は幽世方様の役目ですので。そちらはお任せ致します」


 仕事と役目。この二つの言葉は大きな意味で使い分けられている。

 仕事とはそのままの意味だ。従業員一人一人がホテルを運営するためにこなすべき業務の事を指す。

 なら、役目とは何か。これは私が勝手に思っている事だが、恐らくは『運命』とか『使命』とかそういったものなのだろう。

 誰でも出来る事ではあるが自分がやらなければならないこと。それが役目と言われているのかもしれない。そして私の役目というのは…。


「客に満足して帰ってもらう、だろ」


「その通りです」


 何故これが私の役目なのかは分からない。当然この疑問をジョセフィーヌを含め他の従業員に聞いた事はあるが、どいつもこいつも適当にはぐらかすだけだった。

 勝手に契約を結ばされた挙句に客を満足させて帰すのが役目だとか言われているのだ。たまったものではない。

 更に腹立たしいのは、少なくともジョセフィーヌは『何をしたら客が満足するのかを知っている』という事だ。


「答えを知っているのなら素直に教えたらいい。貴様の言う客の満足はそれで済むはずだ。私がやるまでもない」


「またそんな事を仰って…」


 ジョセフィーヌは正しいことに対して否定はしない。秩序と正しさの是非は違うと考えているからだ。だから適当に話を返すとたまに困ったような顔をする時がある。それは私の言っている事が正しいからだと思う。

 だが、いくら正しいからと言って秩序を乱す事を許す訳では無い。彼女はそこに公平さを求める。


「いいですか幽世方様。確かにワタクシは支配人としての仕事はこなせます。ワタクシや貴方でなくとも、ここの従業員であれば誰でもお客様を満足させる事は可能でしょう。ですが、『誰が出来るか』ではなく『幽世方様がやる』ことに意味があるのです」


 まるで子供に言い聞かせるように、淡々としているが力強い口調だ。聞いているこっちが叱られているような何とも言えない気分になってくる。

 だが、おかしいのはこいつの方なのだ。理由の一つでもあるなら百歩譲って支配人の仕事をしてもいいだろう。しかし、それすら無しで仕事だとか役目だとか言われても納得など出来るわけもない。

 私は自分の意思を曲げない男だ。なんと言われても動くつもりはない。


「…何か言ったらどうですか?」


 下手に返答すると言いくるめられそうなので、諦めてもらうまで無視を決め込むことにした。

 流石に力に訴えられたら従うしかないが、力で意見を覆す手段を取るような人間ではない…はずである。

 だが、ここで一つ誤算が発生する…というより、なるべくしてなる問題があるのだ。

 というのも、私はここに来てから今と同じようなやり取りをしてはなんやかんや仕事と役目を熟していた。それは何故かと言うと…。


「まぁいいでしょう。最終的に仕事をするも役目を熟すも幽世方様の自由です。ですが、幽世方様の名前は悪い意味で広まるでしょう」


「クッ…」


 この挑発のような言葉である。


「我々としては幽世館ではなく、幽世方様の悪評であれば問題はありません。ですが、訪れるお客様の中には幽世方様にお会いしたいと思っている方もいるでしょう。そういった方々が今の幽世方様をご覧になったら…」


「……何が言いたい?」


 互いの視線が交わる中、沈黙が続く。

 私は元々目付きが悪い方だが、今はハッキリと眉間に力が入り睨みつけている事が分かる。対してジョセフィーヌの目は何も変わらな…いや、その表情は、どこか人を小馬鹿にしているかのようだった。


「……ハッ」


 私の中で、何かが切れる音が鳴った。

 これは自分でも自覚している悪い癖、もとい性とでも言うべき事であるが、私は自分の名誉やプライドに関する事だと人一倍挑発に乗りやすい性格である。


「いいだろう……。その安い挑発に乗ってやる……」


 例え罠であると分かっていても、プライドに傷が付くかどうかの瀬戸際で無視するわけにはいかない。それは男として、幽世方 楓という一人の人間として許せない事だと感じるからだ。


「だが今回だけだ。これが終わったら私は何と言われようが動かない!貴様らに付き合うのも三度までだッ!!!」


 椅子から勢い良く立ち上がり高らかに宣言する。

 腕を前へ突き付け、着物の裾が中を舞った。


「この私、幽世方 楓の名にかけて、客の問題を見事解決して見せよう!」


 互いの思いが交差する。片や保身の為に。片や名誉のために。

ジョセフィーヌの顔はいつもの無表情に戻っていた。先程の挑発してきた薄ら笑いは演技だったのか本心だったのか。ポーカーフェイスからは読み取れない。

 彼女はくるりと踵を返し、支配人部屋を後にする。その手には私がやるはずであった書類の束が握られたままだった。

 誰も居なくなった部屋の中に、私一人が残された。

 立った状態から椅子に倒れるように座り込み、天井を見上げて呟いた。


「…またやってしまった」


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