第22話 老僧の生い立ち

 鈴木の肩書きは、教誨師で禅宗の坊主だ。鈴木が教誨師という仕事を始めたのは、自分から進んでという訳ではなく、人に頼まれたからだ。その仕事を頼んだのは、鈴木の師、織田不一という曹洞宗の僧侶で、自身も又、教誨師だった。

 鈴木の名前は、霊山。生まれたのは、昭和二十年七月三十日、福島県福島市だ。この福島市というのは、あの戦争中、空襲を受けなかった県庁所在地として一部の人間には、知られている。

 だが、一度だけ、おかしな空襲を受けたことがある。どういうわけか、鈴木の誕生日に、三機編隊のB29が上空にさしかかったかと思うと、爆弾を一発だけ投下したのだ。他の都市を空襲した後、残った一発を捨てたのではと推測された。ただ二百五十キロ爆弾にしては、結構、爆発力が大きかったとその当時は思われていた。その時まで、空襲を受けたことがなかった福島市民が、そう思ったのも無理はなかった。

 戦後、四十年目にして、始めてその爆弾のことが分かった。その爆弾は、広島や長崎に落とされた原爆の模擬爆弾で、破壊力は、通常の二百五十キロ爆弾の二十倍もある五トンだった。破壊力も凄まじいものだったと推定されている。

 それが福島に投下されたのは、本来、仙台や新潟を投下目標にしていたが、天候悪化のため、引き返し、なるべく人口の多そうな都市を選んだところ、それがたまたま福島だったということらしい。

 この不運な爆弾の犠牲者は、二人。一人は、農作業をしていた老人で、もう一人は、修道院のシスターだった。犠牲者が少なかったことには、理由がある。盆地の底にある福島市は、夏の日差しに照らされ、特に、午後に気温が上昇するが、一時、風が全く吹かなくなる凪のような状態になる。蒸し暑く、耐えられるものではなく、その時間に、外にいる者は少ない。

 修道院のシスターが亡くなったのは、日差しを避けて、塀の下を歩いていたときに、爆風で塀が倒れ、その下敷きとなったためだ。彼女が、たまたま、福島に来て被害に遭ったわけではない。福島には、女子修道院があったからだ。

 その修道院は、昭和の初め頃、カナダから五人の修道女がやってきて開いた修道院だった。名前は、コングレガシオン・ド・ノートルダム修道院と言った。その修道会の設立者の名は、マルグリット・ブルジョワと言うのだそうだが、別に金持ちであったとは聞いていない。当時、仙台市を除けば、あんな立派な修道院はなく、まして、修道女を初めて、目にしたという者も少なくなかったと聞いている。

 この修道院があり、外国人がいることで、福島市は空襲を受けないのだと信じている人が多かったが、空襲をするほどの街並みがなかったというのが真実のようだ。

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