第21話 恩赦
湯田は、中央更生保護審査会に、恩赦の出願書を提出したという。死刑囚が恩赦の出願をするのは、珍しいことではない。だが、恩赦と制度が、過去、どれほど適用されてきたのかを調べたことがあるのかと鈴木は思う。
恩赦は、戦後数えるほどしか行われていない。その理由も、サンフランシスコ平和条約の批准という、百年に一回あるかどうかという一大イベントにちなんでのことだ。
さらに、鈴木が、その内容を見ると、「自分は、己が為した悪行について、深く深く懺悔し、我が生涯をかけて悔い改める覚悟であること、その上で、「己を生きとし生けるものとしての『衆生』と見た場合、どんな悪人であろうが、生きて償うことの方が、慈愛に満ちた行為の選択になります」と述べ、無期懲役に減刑することを求めていた。
鈴木は、その文言の「生きて償うことの方が、慈愛に満ちた行為の選択です」という表現に湯田の本質的な無神経さを感じた。
その文章から鈴木は、この文言が、恩赦を受ける側に立って書かれたのか、あるいは恩赦を与える側に立っているのかが、不明であるとした。
恩赦の決定をする側に立つとするなら、自分は、『衆生』であり、『衆生』には、慈愛に満ちた行為をなすべきであると教え諭すような高慢な態度を見せれば、どのように受け止め取られるのかという視点が欠けていることに、この男は、全く気づいていない。
恩赦を受ける側に立って書かれているとすれば、「自分が死んで償うより、生きて償うことの方が、殺した相手に対しては、より慈愛に満ちた行為になる」という表現は、自分の犯した罪を自覚せず、そもそも、殺害した相手に対し、いまさら慈愛に満ちた行為などが、できるものではないということに全く気がついていないということを改めて表したとんでもないものなのだ。
湯田のそのような無神経さが、あのような事件を引き起こした原因でもあるのだが、まさしく湯田は、『凡愚の衆生』であった。救われぬ衆生を救うのが、弥陀の本願だとしても、真に救われぬものもいるのではないかと、鈴木は考えざるを得なかった。
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