母と子 おやこうや

 冬の乾いた、鼻にツンとくる空気を吸う。

 電車を降りた途端に全身に冷気がぶつかり、それが無性に懐かしかった。昔は冬でも半袖半ズボンだったが、さすがに今は厚手のコートを着るようになった。


 博之は白い息を吐きながら、人のほとんどいない田舎駅の改札を出た。

 見慣れた街の輪郭に、見慣れぬ店が一、二軒ある。新しくできた居酒屋らしい。帰りに余裕があったら寄ってみようか、などと思いながら歩く。


 淡い影を落とす枯れ木街道を通り、住宅地の隘路に入る。視界が狭くなるからだろうか。ここまで来ると、昔見た風景、と感傷に浸る心の余裕がなくなってきた。

 煩わしいと思い、そう思うことに自己嫌悪を生じさせる事象が、博之の心を支配していく。


 家の前に立つと、ドアノブに手をかけそうになった。一瞬迷った後、インターホンを鳴らした。インターホン越しに、音がつながった。

「はい」

ずいぶんしわがれた声だと思った。博之は顔をひきつらせたが、声は努めて明るくしたつもりだった。

「母さん、ただいま」

「ああ、ひろちゃんか。待っててね、今開けるからね」


 音が途切れてから一分以上かかっただろう。母は出てきた。黒いズボンに渋い赤色のセーターを着ている。服の隙間から出ている手足を見て、博之は思った。母はまた少し、痩せたようだ。

 母は笑顔で迎え入れてくれたが、足元がおぼつかない様子だった。玄関口にはダンボールが積まれていた。「これは?」と聞いてみると、通販で買ったものらしい。昼間に流れる通販のテレビ番組が、居間から聞こえてきた。


 父の遺影に手を合わせてから、母はお茶を出してくれた。

「最近、どう?」

と尋ねられた後の母は、過去の話か、愚痴か、体の不調しか言わない。イライラすれば、顔には出すまいと思っても雰囲気には出るものだ。前は堪えきれなくなって言ってしまい、母は明らかに傷ついた顔になり、博之は後悔に苦しんだ。だから今回は諦めていた。


 母のことが嫌いなわけではない。むしろ本当はその逆だ。明るくて、身ぎれいで、何事にもキビキビ対応していた母。学生時代は夏休みの部活練習で、ほぼ毎日お弁当を作ってくれた。そのことは、温かい思い出として、今もしっかりと心に残っている。

 それでも反抗期は来るものだ。いつしか口うるさいと煩わしくなり、大学ではアルバイトで家賃を払うことを条件に、一人暮らしを選んだ。だがこの時の母は、まだ「母親」だった。


 それが崩れ始めたのは、母が五十の峠を超えてからだった。「五十」という数字を意識しすぎた母は、数ヶ月でみるみる「おばあちゃん」になった。急に話すことが後ろ向きになり、「思っていた人生と違った」と愚痴るようになった。博之は自分が責められているように感じた。やりたいことを見つけられず、老いに抗えない母……。


 そして自分もいつか、こうなるのだという恐怖。何より、「母親」が少しずつ母親ではなくなっていくのが、博之には耐えられなかった。年に三回は帰ってきていたのが、二回、一回……と足が遠のいていき、「仕事で忙しい」と言い訳して電話で済ますようになるには、時間はかからなかった。親子である前に、お互い一人の人間だ。歳をとって疎遠になったとしても、それなりに元気に暮らしているだろう、と思った。


 だが「親孝行」という三文字は、博之の心の中で切れかけた蛍光灯のように点滅していた。

 ある日、母が救急車に運ばれたと聞いて、駆けつけた。しかし母は病院でピンピンしていた。「胸が苦しい、心臓が潰れそう」と訴えたらしいが、検査では正常で、処置なしということである。

 しかも、これが一度目ではないらしく、すでに何度も同じことを訴えて搬送されていたことが発覚した。「なんで救急車を呼ぶんだ」と博之が聞くと、母は「だって……」とゴネ始め、博之はつい声を荒げてしまった。

 実家に帰ると、散らかった部屋が待っていた。きれい好きだった母を思えば、掃除を面倒くさがる状況は想像できない。事実を認識することと、受け入れることは、別次元の問題だった。しかし、もう見慣れた。


 親が崩れていくのを見るのは、苦しいことだ。博之は、彼の考える「親孝行」を実践しようとしているが、義務感でする「親孝行」が、母のためになると本気で思っているわけではない。偽物だということくらいはわかっている。こんなに育ててくれたのに、恩知らずな人間だ。博之は自己嫌悪に陥りそうになる。だが、偽物であっても、この義務を実行しなければ自分を許してはいけない。博之は、そう思った。


 家族ために働いてくれて、毎日ご飯を作ってくれて、数えきれないほどの恩があったのに、年に一度帰って何かをご馳走する、母の日に何かをあげる。そのくらいしかできてない。


 帰るまでに、ちゃんと話し合えるだろうか。博之は今回の帰省での一番の懸念事項を思った。「まだまだ元気よ。余計なお世話」と意地を張って突っぱねられるかもしれない。だが言わなければ進まないだろう。博之は頃合いを見て、さりげなく話題を切り出した。

「母さん、足腰がそんなに大変なら、生活も大変でしょ。何か生活支援をしてもらえる所に入ったら」

「私はなんともないわよ。そんな、人様に迷惑なんてねえ」

母は変化を嫌って、不機嫌そうに言った。その反応は予想していたものだったから、博之は別の提案をすることができた。


「それか、こっちに来る? そうすれば、何かあったらすぐに駆けつけられるし」

博之は自分の勤め先の近くで、親と一緒に住める環境を探していた。同居生活は大変かもしれないが、最悪の事態が起こることを考えると、我慢できる。そこまで考えての提案だったが、母はどんな提案をしても悉く反対した。話は平行線のまま、また終わってしまった。


 時計の短針が、いつの間にか、ずれている。

 まあいい、それだけ口が達者なら、まだ元気なのだろう。人生は妥協の産物だと、博之は考えて、自分の気持ちを鎮めた。

 母を一人の人間としてみれば、生老病死はあまりにも当たり前すぎるものなのかもしれない。けれど、まざまざと見せつけられるのには、身を引き裂かれるようなむごさがある。


 夕食が終わった後、母はしきりに話しかけ、「昔の写真が出てきたんだけど」「あれはいる? これはいる?」と聞いてきた。学生時代の制服や、幼稚園時代の作った覚えすらない作品まで、いくらでも出てきた。


「ひろちゃん、欲しいんじゃないかなと思って、残しておいたの」

と母は言ったが、本当に捨てられないのは、きっと、母の方だろう。昔の優しい思い出にすがっているのは、親子ともども同じなのかもしれない、と博之は苦笑いする余裕が出てきた。

「家に残しておいてくれればいいよ」

前回帰省した時も、同じことを聞かれたので、同じように返す。


 押し入れから、小学校時代に描いたタンポポの絵が発掘された。母はこの絵を見つけて、楽しそうに語った。

「図工の先生に、絵が小さすぎると言われてねえ、それが悔しいからって、絵の枠から、全身はみ出たタンポポを描いて。もう二度と描けないよ」


 何回そのエピソードを聞いたのかわからないが、この話をするときの母はいつも楽しそうである。せめて、美しい過去が残っていたということが、彼女にとっての救いなのだろうか。

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植物がテーマの短編集 武内ゆり @yuritakeuchi

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