第5章

第1話 黒魔女に首輪を付けられた犬

 善悪なんて人の主観だし、時代によって変わるもの。

 だからといって、俺が正義だと声高こわだかに主張する気はないけれど、悪と指を差されれば否定する。

 俺は良い人ではないが、悪を自称する悦に浸るような中二病を患ったことはない。


 じゃあ、どうやって善悪を決めるかと言えば、一番初めに『こいつが悪い』と主張すればいいわけで、流されやすい人は後から付いてくる。

「つまり、お前が悪いよな」

「……いきなりなんですか」

 不愉快だと眉根が寄る。

 けれど、俺の主観からすると、どうあっても制服少女が全部悪いのである。なんでお前は俺が働いてる深夜のコンビニに来たんだろうなぁ……。


 諸悪の根源と思うと、ツンッとしながらもどこか愛らしい顔もやたら憎たらしく見える。成長するとあの黒魔女の姉のようになると未来予想すると忌々しさもひとしおだ。

 どれだけ成長させても胸だけは似ても似つかないぺったんこなのが救いだろうか。


 薄く瞼を閉じて睨んでくる制服少女の頭の分け目に、無性にチョップを入れたくなる。

 けれど、それをするとシスコンを拗らせている姉にどんな目に合わされるかわかったものではないので、ため息という形で行き場のないモヤモヤを吐き出す。

 怪しい薬の材料として大鍋に突っ込まれるのは嫌だった。


 胃の腑に滞積して重くなっていく身体。

 体調不良のような気怠さを表情や態度に出してしまうのは仕方のないことだと思う。

 けれど、顔を見られ、これ見よがしにため息を吐かれた制服少女は当然のようにご不満だった。

「さっきからなに?

 文句があるなら口にしたらどうですか?」

 ちゅるりとスパゲッティを啜る。今日の献立はサラダスパゲティ。


 深夜のコンビニ。アルバイト中。

 イートインスペースでこうして弁当を買い与えるのに慣れてしまったことが、やるせなくなってしまう。最低限、受け取る時は殊勝で、やや生意気ながらも最後にはお礼を忘れないのだけが続いている要因ではある。

 これで貰えて当たり前という態度を取られていたら、警察に送り届けるタイムアタックが始まるところだった。


 文句……文句、文句ねぇ。

 多分にあるが、その大半は言ったところで虚しいだけだ。我慢しきれなくなった時に、制服少女をからかう時まで大事に保管しておこうと思う。

 ただ、大半には属さない残りの部分に関しては、とてもとても言ってしまいたくはあった。

 ぶちまけて、楽になりたい。

 酒は嗜まないが、酔っ払って気持ち悪くなった時と似た心境なのかもしれない。


 残念ながら、俺の抱えた気持ちはトイレを抱いて吐き出したところで解決する類のモノではないが。

 そもそもとして、俺の気持ちだけで済むならもうなにもかもぶちまけているわけで。

 そうしない、できないということは、言えない事情が出来てしまったということだ。


 面倒を嫌って制服少女に姉のことを問いたださなかったツケが今になって俺を苛む。雁字搦めの予感に、口から吐き出されるのはやっぱりため息しか出ない。

 腕を組み、肘を撫でる。そのままテーブルに上半身を預ける。


「呑気にパスタ食ってる制服少女がなんもかんも悪いんだぁ」

「だから、私のなにが悪いって……。

 待って。制服少女って私のこと?

 もしかして、女子高生なら誰でも該当する見たまんまの呼び方で内心ずっと呼んでたんですかっ!?」

 なにやら叫んでいるが、テーブルに顔を伏せて耳まで隠した俺には届いていない。制服少女は制服少女。セイカちゃんなんて知らん。


 燻る胸の内でほんとなぁもぉと鬱々たる気持ちを零す。

 形にならないそれは吐き出されることなく、身体の中を循環していく。だから、いつまでも燻る。滞る。



 協力してと窓際美人に頼まれたが、俺は了承していなかった。

 報酬として押し付けられたお金は、最近電子決済ばかりで使われることの少ない財布に収められているけれど。

 それは後々にどうにかするとして。


 くそったれがーやってられるかー、と。

 当然のように俺は一方的に押し付けられた約束なんか無視してとんずらしようとした。サインした覚えのない契約書なんて無効に決まっている。

 けれども、世の中にはどうしようもないこともあって。


 家から自由な世界に脱走して身体をうにょーんと伸ばしていた飼い猫が、罠にかかって連れ戻されるように。

 講義の終わった入り口でひらひら手を振って待ち伏せされていたのでは逃げようもない。正しく網を張られていた状態だった。元より俺に逃げ場なんてなかったらしい。


 俺かな私かなと、自分が待ち人であると期待して教室がにわかに熱を帯びる中、笑顔の裏で手ぐすねを引く黒魔女様に自ら近付かなきゃいけないと思うと心が折れそうになる。

 反対側の出入り口に視線を走らせると、『夜行くーん。こっちこっち』とこれ見よがしに大手を振って名前を呼ぶのは『逃さないけど?』という意思表示。性格が悪い。無自覚なわけがなく、狙ってやっている。


 夜行君って誰だと犯人探しが始まりそうな教室。

 餌で誘い出そうとしている罠と理解しているのに、飛び込まなければならない心境は道化そのものだった。笑いの変わりに巻き起こるのは羨望と嫉妬という重く辛い感情だろうけれど。


『はい。私と連絡先を交換しようねー?』

 と、拒否すらできずに半ば強制的にメッセージアプリに窓際美人の名前が追加される。

 お友達ですか? と律儀に質問してくるアプリにいいえを突き付けたけれど、にこーっと申請が通るまで何度も『お友達ですか?』『追加しますか?』と問われたので諦めた。

 友達ってこういうものだっけと逆に俺が問いたい。


 途端、手のひらに乗るスマホが重くなったような気がする。

 まるで、見えない鎖で繋がれたような気分だ。執着の強そうな窓際美人に好意を持たれていないことだけが救いだった。

 こいつの彼氏になる人は毎分毎秒送られてくるメッセージに顔を青褪めることになるだろう。なむなむ。


 教室の生徒たちがひそひそ耳打ち。

 広がっていく噂話には、もう耳も傾けたくなかった。

 不可逆の噂。インターネットに流れた個人情報のように、取り消しのできない噂話が火の手のように燃え広がっていくのを幻視する。


 その火は赤く、時に青白く。

 肌を焦がす好奇とやっかみは、ひっそりと暮らすという誰もが達成できそうな目標が、大学2年という半ばで潰えてしまったことを教えてくれる。

 声を大にして付き合ってないと叫んだらどうなるだろうか。……想像して、ふっとニヒルに吐息を零す。鴨とネギと鍋と卓上ガスコンロ。ととと。


『誰にも訊かれたくないの』

 と、人の少ない場所に移動する。もはや、恐れるモノはなにもない。

 周囲に誰もいないのを確認した窓際美人が語ったミッションがこれ。


『どうして家出したのか事情を訊いてきて。

 けど、私の名前は出さないで。

 話してくれなくなるかもしれないし、また行方を眩ませられたら困るから』

 手を口の横に添え、こしょりと耳元で囁くように命令と釘を同時に刺してくる。

 耳をくすぐる微かな吐息に背筋が震えた。

 悪辣な黒魔女でも甘い香りはするんだなと、脳の裏側で思う。


 慣れない女性との距離に絆されそうになり、俺は不機嫌ですと意識して顔を顰める。

 そして、本性を暴き立てる呪文を唱えた。

『嫌だと言ったら?』

 途端、じんわりと瞳を濡らしてぐすんぐすんと鼻を鳴らし始める。

 名女優もさながらの演技。

 これは協力ではなく、強制だなぁとありもしない首輪をしきりに撫でる。



 大学での悲劇を思い出し、嘆息する。

 訊けと言われたところでなぁ、と訝しんでくる制服少女を死んだ目で見つめ返すことしかできなかった。

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