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「期待してる」
無責任に並べ立てられたあの言葉をすぐにでも忘れてしまいたかった。無我夢中でペダルを踏み込み、自転車を走らせる。エアコンの鋭い冷気よりも、爽やかに吹き抜けてゆく夏風の方が幾分マシに感じられる。そう思ったのは最初のうちだけで、止めどなく流れる汗が鬱陶しく、とても爽やかなんて言えたもんじゃない。額から浮き出た汗が滑り落ち、視界を滲ませる。瞼が熱を帯びているようだった。急に決まりが悪くなって、更にスピードを上げる。こうして自転車を漕いでいると、周りの景色が後退しているように見える。僕だけが前進してゆく。あるいは、僕が此処に取り残されているだけなのかもしれない。僕以外の全てが、僕を置いて先に進んでいる、そう考えると、さっきまで優越感に浸っていた僕が馬鹿みたいで、それ以上の思索を止めた。
ひたすらペダルを漕いでいると、気づけば家の近くまで来ていた。今日は遠回りしたい気分だ。団地内の狭い路地を家とは逆方向に進んでゆく。僕の家の近くは若い世代が多く、そこそこ賑わっているが、こちらは逆に空き家が多く、どこか物寂しい雰囲気だ。
子供の時、親に向こう側に行ってはいけないとしつこく言われたのを思い出した。他の子たちもそんなことを言われたようで、僕らの間ではお化けが出るのだと噂になった。あの頃の僕らは、そういう類のものに興味津々だった。丁度今みたいな夏の夕暮れ、向こうの路地を一人で一周できるか、僕は当時仲の良かった奴とそんな趣旨の肝試しを企画した。あとで親にバレて大目玉を食らったが、あれは良い思い出だ。僕にとって此処は、とても懐かしい場所なのだ。
思い出に浸りながら、自転車を押して歩く。夕焼けの色は一層深みを増し、ただでさえ暗い路地も一段と暗くなってゆく。夕日はやがて見えなくなった。そろそろ帰ろうか、重い腰をサドルに乗せようとした時、目の前が白く光った。数メートル先の外灯が点いたのだ。青白い、酷く無機質な灯りが道を照らしていた。暗いところに目が慣れていたせいか、とても眩しく感じられる。思い出した。この先をもう少し行ったところに、小屋のようなゴミ捨て場がある。僕らはそこを『檻』と呼び、そこでは人を喰う恐ろしい獣を飼っていて、奴は人を『檻』に引きずり込んで八つ裂きにして喰う、そんな嘘八百のストーリーをでっち上げた。あの頃の友人たちは皆純粋で、すっかり騙されていた。肝試し当日、僕はゴミ捨て場の中で毛布を被って待機し、近くに来た人たちを驚かせた。みんな絶叫しながら逃げてゆくのが面白くて、しこたま笑い転げたのを覚えている。もう少しだけ、歩いてみることにした。
『檻』が目前に差し掛かっていた。懐かしい記憶が蘇ってくる。ろくに考えることもせず、自由奔放に過ごしたあの頃。毎日が楽しかった。懐かしい友の顔が脳裏を掠める。あぁ、またこんなことばかり。僕はいつまで過去に捕らわれているのだろう――。だけど、それでもいいような気がした。寧ろこのまま、ずっと此処にいてしまいたいような気さえした。
その時だ。『檻』の中で何かが動いた。それに合わせて何かがきらりと反射して光る。冷や汗がつぅと首筋を伝った。何かが、いる。さっき確かに動いたのだ、黒い影が……。見間違い、ではなかったはずだ。まさか、人喰い獣が……?そんなものが存在するわけない。じゃあ、さっき動いたのは……。僕はまだ少年だった。単なる興味本位で危険行為など、いとも容易くできてしまう。僕はこの純粋な好奇心を抑えることができなかった。自転車を端に置いて、恐る恐る『檻』に近づく。携帯のライトを点け、『檻』の中を照らすと、見えた。あれは……靴……いや、人の……足だ、これは……どういう、一体、どうして……。思考が停止しているうちに、手元が大きくブレる。光が照らし出したのは……人間の、頭部。もしかして、この人……
死んでる?
しかし次の瞬間、その頭部がぐるりと動いた。夏の宵の心地よい涼しさを一気に氷点下に下げるほどの絶叫が、団地中に響き渡った。
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