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 「まさかこんなところで人に会うとはねぇ」


彼はさほど驚いていないようで、落ち着き払った声でそう言った。それはこっちのセリフだよ、とツッコみたくなるのを我慢して、『檻』の中をじっと見つめる。僕は一人の男と金網を隔てて対峙している。網越しに見ると、まるで彼が牢屋に囚われているようだ。彼は向こうで胡座をかいて座っていた。僕はドアから一歩引いたところで、携帯電話を握りしめて立っている。万が一のことがあった時、すぐ通報できるようにするためだ。思い切って声を出した。


「あんた、誰?」


男は馬鹿にしたように右の口角を吊り上げた。


「さあね」


意味の分からない返答をする。こんな所で寝転がっていたのだから、不審者ということは確かだ。男の容貌を見ると、ホームレスというわけではなさそうだった。まず、身なりがちゃんとしている。彼はスーツを着ていた。首元には銀のチェーンが覗いている。さっきはこれが光って見えたのだろう。では、なぜこんなところに彼がいるのか。全くもって分からない。もしかして会社をクビになったとか?住んでいるマンションを追い出されちゃったとか?いろんなことを妄想していると、彼は大きな欠伸をしてまた寝転がろうとした。僕はすかさず彼に聞く。


「あんたはどうして此処にいるの?」


彼が一瞬ピクッと反応した。瞳は前髪に隠れて見えない。それでも、確かに彼は僕を見て言った。


「此処が落ち着くからさ。まるで俺たち、社会から見捨てられたゴミみたいじゃないかい」


僕の瞳を越えて、心のうちを覗き見ているような気がした。


「いっそお前なんて何の価値もないって言われたほうがよっぽど楽だろう?」


ぐらり、脳が揺れる感覚に襲われる。今まで必死に積み上げてきたものが次の瞬間にも崩壊してしまいそうな気がした。胃がキリキリと締め付けられる。一刻も早く此処から逃げ出したかった。此処にいては駄目だ。僕が僕でなくなってしまう。僕は自転車に飛び乗って、急いで走り出した。


「気をつけて帰れよ」


彼の声が背後から聞こえた。此処から、彼から少しでも遠ざかりたかった。彼を恐ろしく感じた。まるで僕の心の内を見透かしているようで、僕を壊してしまいそうで、怖かった。彼の口から次に出る言葉が、僕に致命傷を与えかねない、そんな気がしたのだ。


 *

 気がつくと、いつも通りの朝が巡ってきていた。一階に降りると、母さんはもう起きていた。おはようとだけ言って、出された朝食を食す。


そう、昨日進路相談だったんだって?何か進展はあった?」


母さんが聞いてきた。また内臓が圧迫されたような痛みが再発した。全く、いつもどこからそんな情報を仕入れてくるんだろうか。ママ友情報は健在のようである。僕はさっと笑顔を取り繕う。


「うん、まぁまぁかな」


当たり障りのないことを言っておく。


「でも、そろそろ進路をちゃんと決めておかないとね」


続けてこう言う。いつもの、あの言葉。


「母さんは、貴方なら何だってできるって信じてるわ」


自分のやりたいことで未来を描きなさい、彼女はそう言った。励ましのつもりなのだろうか。信じられても、母さんの望む人間にはなれない。やりたいこと?そんなもの、どこにもなかった。どれだけ探しても見つからなかった。最初から人生のレールが決まっていればよかったんだ。そうすれば僕はこんなに苦しまなくて済むのに。他人を羨み、妬まなくてもいいのに。総て運命だって割り切ることができるのに。これから先の人生は僕のもの。僕自身で選び取っていかなくてはならない。僕は、そんなことができるのだろうか。ありがとう、と心にも思っていないことを言って、皿に出された缶詰の果実に齧り付く。咀嚼音が遠く感じた。

 

 *

 飛鳥あすか先生とのやり取りを思い出した。

 

 冷房の効き過ぎた部屋で、彼はネクタイをキュッと締め上げる。こんなに暑いのにネクタイを締める必要があるのだろうか、ましてや生徒との面談ごときに。彼はかなり気張っているようであった。まだ若い、20代後半くらいの男の先生。彼が僕の進路担当だ。情熱が漲っている体育会系の先生で、僕はあまり好きなタイプではなかった。


「あれから何か考えたことはあるかい」


彼は食い気味に聞いてくる。大学の志望のことだろう。


「いや、特に変わらないです」


僕がすぐにそう返すと、彼は大げさに頭を抱える動作をした。うーんと唸って顔を上げる。


「君、本当にもったいないね。学力もそこそこあるのに夢がないんじゃぁ……ねぇ」


そう言って彼は苦笑いする。僕も釣られて笑う。顔が引き攣ってないか心配になった。何が、ねぇ、だ。同意を求めてくるな。人生の敗者の烙印を押された気分だった。屈辱的だった。でも僕が悪いのだから、夢のない僕が悪いのだから、しょうがない。これまで僕は散々考えることから逃げてきた。そのツケが回ってきたのだ。


「兎に角だ、何か夢中になれるものを見つけて来い。一つや二つぐらいあるだろ。人生のヒントはそこかしこに落ちてるんだ。夢なんてその気になれば、簡単に見つけられるはずさ。一週間後また面談するから、その時に聞かせてくれ」


彼は、僕が文句を言う暇もなく、勝手に段取りを決めてしまった。彼は部屋を出る時、こちらを振り返って優しい声で言った。


「俺はお前の味方だから。期待してるよ」


自分が酷く惨めに感じられて、悔しくて、腹が立って仕方がなかった。こちらの気持ちなんか少しも汲み取ってくれない、無責任な言葉。彼は自覚なく平然と人を傷つける、一番タチの悪い人間だ。人生のヒントとか何だとか、それを見つけられないから困っているんだ。安っぽい期待だけ押し付けて、生徒を勇気づけたつもりになるんじゃねぇよ。


 言いたいことはやまほどあった。でも、全部の感情を押し殺して、僕は黙って彼を見送ることしかできなかった。僕は弱い人間だ。そんな自分が大嫌いだ。



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