(3)「オートガイネフィリア」にみる自己と他者

さらに、AGが愛する対象について、自他の区別という観点で掘り下げてみたいと思います。

ところで、幼児の発達心理学における「鏡の段階」という言葉をご存知でしょうか?1歳未満の赤ちゃんは自己という意識がまだ芽生えておらず、鏡に映った自分の姿を見て、自分自身であるとうまく認識できません。それが、1歳を境に徐々に自我意識が芽生え、2歳くらいになるとほとんどの赤ちゃんが鏡の中の自己像を自分であると認識できるようになります。この時期を「鏡の段階」と呼ぶそうです。

この「鏡の段階」について興味深い文献がありましたので、ここでご紹介します。

「一九三〇年にフランスの心理学界の両巨頭とも言うべきジャン・ピアジェ(一八九六―)とアンリ・ヴァロン(一八七九―一九六二)のあいだで、幼児の社会性をめぐって激しい論争がたたかわされたことは、よく知られていよう。(中略)ヴァロンは幼児は最初から社会的であり、むしろ三歳以後になってはじめて自己と他人とのあいだに「生きられる隔り」ができてくるのだと説くのである。

(中略)

幼児は六カ月目頃にいわゆる「鏡の段階」に入るが、ヴァロンの観察によると、「自己の身体の鏡像」を習得しはじめたばかりの八カ月目頃の幼児には、「内受容性によって与えられる自己の身体」と「鏡のうちに見える自己の身体」とがうまく区別できないらしい。幼児は鏡像を自己と同一視し、自分は、自分を感じているここにいると同時に、自分の身体が見えているあそこにもいる、と思うのだ。もっとも、幼児がはじめから自分の身体を「ここ」と「あそこ」という二つの地点に定位させていると見るべきではなく、

(中略)

ところで、この時期の幼児にあっては、。」

(木田 元『現象学』(岩波新書) より ※注:傍点は筆者による。)

上記のヴァロンの説によれば、「人間は本来的に自己と他者を区別していない。少なくとも幼児期はそうである。」ということが読めます。むしろ、自己と他者の区別は後天的に習得するものであるようです。幼児期の自己と他者の区別のない世界では、自己に起きてきることは、他者に起きていることであり、他者に起きていることは、自己に起きていることなのです。すなわち、他者は自己の分身であり、その逆も真です。

極めて個人的な見方ですが、私には自他の区別は幻想ではないかとすら思えます。

自他の区別を獲得する前の原始的な心象世界が本来的であったとするならば、鏡の中の自分に恋することは、それほど不思議ではないと言えるかもしれません。自他の区別がないとすれば、鏡の中の「分身」と他人の区別も判然としないはずです。あなたは私、私はあなた。そのような世界では、他人を愛することと、自己を愛することに何の区別もないのです。

ところで、前回、上野千鶴子氏の著作より、女性の性的指向は対象化された自己像にあるという趣旨の文章を引用しましたが、女性は男性と愛し合っているようで、実は男性に愛され、守られている自分自身を愛しているのではないかと思えます。少しキツい言い方をすれば(気にされる方がいらしたらごめんなさい)、男性を道具として自分自身を愛しているということです。こう考えれば、私自身の経験ともよく一致します。

私はAGのメンタリティーにおいても、まさに同じことが起きているのではないかと推測しています。性指向として「男」と「女」と考えるのではなく、「客体化された自己」と「他者」と考える方が自然で、「客体化された自己」を愛することは、女性の一般的な心理とあまり違いがないと言えると思います。

以上、今回は、AGあるいは女性一般における性指向の自他の問題を考えてみました。次回は自己と他者の差分についてさらに掘り下げてみたいと思います。

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