ヴァリスは穴に落ちた

ヴァリスは穴に落ちた。これはくだらないたとえ話ではなく実際にあった出来事だから彼は本当に穴に落ちた。地下は私たちの近くにあって果てしなく遠いものだ。それがどこにつながっているのかきちんと理解している人間はいない。

着地の衝撃はなくまた痛みもなかった。ただあたりはあまりに暗く見上げても遠くに光すら見つからない。ずいぶんと深く落ちてしまったようだった。そこはすでに彼の暮らしてきた場所とは別世界で物理法則がきかないのも当然の話だった。

集団の中において個人の正常異常をはかることは意味のあることかもしれないしないことかもしれない。それについては気になる人が考えればいいと思う。断言できるのは集団から外れた個人について正常異常を判断することに意味はないということだ。

ヴァリスは別世界にやってきたとき元の世界に戻るという目標をたてなかった。端的に言ってしまえば元の生活に未練がなかった。彼には社会性というものが欠如していてつまりは人付き合いの極端に薄い人間だった。

そんな人間がよくわからない場所にきて何をするかと言えばそれはとりあえず現状を把握することだった。ここがどこでどこにつながっているのか、そうした情報を得るためには座っているよりは立って歩いていたほうがよさそうだった。

さいわいなことに時間が彼の目をならして薄暗闇の中で地面ぐらいは見えるようになった。四方を見渡して壁のようなものはなかったから進むのはどっちでもよかったので立った時に前を向いていた方にヴァリスは歩いていった。

足の向く方に歩いていけば何かにぶつかるものだと相場が決まっている。ぼろぼろの道着にはちまきをつけたわかりやすい格闘家風の男が立っていた。男は言った。俺を倒せ。つまりはそれはたちの悪い冗談だった。

ヴァリスに格闘術の心得はない。しかし異世界に来て常識が地続きになっているものとも考えられず彼はとりあえず戦ってみることにした。勝たなくてはならないとは思わなかったがなんだか勝てるような気がした。根拠はなかった。

勝てた。特に腰の入っていない拳の一撃は格闘家をはるか彼方に吹き飛ばした。それは人間を殴ったような気がしなくてやはりすでに常識は途切れていたのだとヴァリスは再確認できた。そしていつのまにかヴァリスの右手に何かを握っている感覚があってそれは鍵だった。

鍵を見つけたからにはそれにあう鍵穴を探すことがヴァリスの目的となった。格闘家との戦いを経て前に進んでいた方向はよくわからなかったがそれはまったく問題ではないようだった。要するにこの空間では止まっているか動いているかしか計測されていなかった。

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