第8話〈ムスタ〉の女

「あと少しだ、頑張れ!」


 黒い母牛は出産に苦労している様子であった。子牛の足は出ているものの、なかなか産まれてこない。彼此かれこれその状態で、もう一時間以上は経っている。あまり時間が掛かりすぎると、子牛にも母牛にも負担が掛かってしまう。

 そこで子牛の足にロープを括り付け、引っ張ることにした。

 二人の男が、力一杯ロープを引っ張る。

 やがて子牛が顔を覗かせたかと思うと、するりと体全体が抜け出てきた。


「やったぞ!」


 ロープを引っ張っていたうちの一人が大声を上げた。たくましい体格で、丸めた頭と鼻下から顎にかけて蓄えた髭がトレードマークの私の愛人、テネスである。

 母牛は気力を使い果たし、その場にぐったりと倒れ込んでしまった。


「よく頑張ったな、偉いぞ」


 母牛をテネスがそっと撫でる。

 もう一人の男が子牛をタオルで拭き、呼吸に問題がないことを確認してから、母牛の近くにやった。

 すると母牛はすぐに立ち上がり、産まれてきたばかりの我が子を懸命にめ続けた。そんな母牛の力強さと我が子への愛情に、思わず私は涙する。


「やったな相棒!」

「ああ!」


 二人の男はがっちりと握手を交わし、喜びを分かち合った。

 そして、テネスが私のもとにやって来て、抱きついてきた。


「次はお前の番だぞ」

「ええ、この母牛みたいに頑張るわ」


 そう、妊娠してから、四か月余りが経つ。ついに新しい命が、私の身に宿ったのだ。

 思えばこの平穏を得るまで、本当に長い道のりであった。

 ある日突然――恐ろしい化物、悪魔アブリたちが現れ、シネスタ中を地獄に陥れた。

 私は幾度となく命の危険にさらされながらも、アブリから必死に逃げ続け、息を殺して隠れ続けた。

 だがある時、アブリに追い詰められ、もうダメだと死を覚悟した。

 しかし偶然、神の使いラジュラの隊員の一人であったテネスの手によって、命を救われる。

 シネスタ軍の精鋭中の精鋭が集まる特殊部隊というだけあって、ラジュラの戦闘能力は極めて高い。彼らは恐ろしいアブリさえも退け、私のような弱き民を救い、ここジュマーミへと導いていった。

恵みジュマーミ〟という名前を持つだけあって、ここにはありとあらゆる物が揃っている。以前の私生活においても買い物に重宝していたし、こんな状況になって、より一層その存在のありがたみが分かる。しかも、電力はこの施設の屋上に取り付けられている太陽光発電で賄えるし、水はのちに貯水池をみんなで作ったとはいえ、当時は店の中に十分すぎるほど残っていた。

 それゆえに、脅威はアブリだけではなかった。ここを自分たちのものにしようとする、道徳心を失った人間たちにも度々襲われたのである。

 だから私を含めた弱き民たちも、ラジュラから戦う術を学んだ。

 武器や弾薬の問題は、たまたま味方にいた、シネスタ軍が誇る最高の武器職人であるジェスの助手の一人だという男が、ジュマーミにあった物などを使って解決してくれた。

 なるべく店の中の物は節約し、時には外に出てアブリや悪人たちと戦い、善人を救ったり、食料や物資を回収しては店の該当する売り場にそれを置いて保存する、といったこともしてきた。

 こうしてジュマーミを守り続けていくうちに、居住する人も次第に増えていった。ジュマーミに隣接する病院も新たな拠点として押さえ、食料や物資、医療に各自の居住スペースと、生きる上で必要なものを確保することができたのである。

 私たちは再び文明を取り戻し、支配者ムスタとなることを誓い合った。私のお腹にいる〈ムスタ〉で初めて産まれてくる子供は、その第一歩なのである。


「元気な子を産んでくれよ」


 テネスが私の耳元でささやく。


「私とあなたの子だもの。きっと無事に産まれてくるわよ」

「ところで、名前はどうしようか?」

「あなたがあの時――私を救ってくれたから、ここまで来れた。この子の名前を決める権利はあなたに譲るわ」

「そうか。じゃあ、俺たちの子にふさわしい名前を頑張って考えるよ」


 ジュマーミに隣接する病院で〈ムスタ〉の医師の診断を受けた結果、お腹の子は男の子だと分かった。

 この子が産まれてくるその瞬間を、みんなが待っている。


「よぉ、どうだ? 子牛の方は無事に産まれたのか?」


 私とテネスの所に、一人の男が歩み寄ってきた。私たち〈ムスタ〉のリーダー、ザクスである。左目の切り傷が特徴で、一見すると近寄りがたい威厳のある顔をしている上に、時として手段を選ばない冷酷さがある反面、根は優しく皆にとっては頼りがいのある存在だ。今はアブリとの戦闘で、片腕に障害を抱えている。


「ああ、おかげさまで」


 テネスが母牛のそばに横たわる子牛を手で示すと、


「よかった。次はお前の番だな」


 そう言って、ザクスが私の肩にそっと手をやった。


「今ちょうどテネスにも同じことを言われたところよ」


 さすがにこれだけの短い間に二度も同じ重圧をかけられると、少しげんなりしてくる。


「おっと、そいつは失礼。テネス、ちゃんと彼女のことを見守ってやるんだぞ」

「もちろん、分かってるさ」


 ザクスが今度はテネスの肩をぽんぽんと叩いたところで、私はずっと気になっていたことをザクスに持ちかけてみることにした。


「ねぇ、ザクス。ちょっと話があるんだけど、いいかしら?」

「なんだ?」

「あのフェンスに括り付けているものなんだけど――そろそろ取り払わない?」

「どうしたんだ? 急に」

「いや、ただ……もうすぐ産まれてくるであろうこの子に、あんなものを見せたくないなって思ったのよ」


 ジュマーミや病院の正面のフェンスに防腐処理された、腕や脚のない人間の死体が括り付けられている。アブリの習性を利用して奴らをジュマーミに近づけさせないため、そしてこの場所を奪おうとする者たちへの見せしめのためだとザクスは言う。確かにあれのおかげというのもなんだが、以前よりも危険な状況に陥ることが少なくなっているのは事実である。

 しかし、前からあれを私は不快に思っていた。それに、生き延びるためには何をやっても許されるというようなあの行為を、この子に見せたくはない。


「この辺でアブリを見かけることもだいぶ少なくなってきたし、この間の連中みたいなのに襲われても、真っ先に銃を向けるのではなく、どうすればお互い協力し合えるのか、まずは話し合ってみましょうよ。私たちならできるはず。そうでしょう? もう、あんなもの必要ないわ」


 私がそう訴えかけると、ザクスは腕を組み、しばらくの間、目を瞑る。そして、そのまま重い口を開いた。


「そうだな。生き延びるのに必死で――どんなことでもする必要があると思っていた。でも、今は違う。仲間もたくさん増えたし、これからだって増やしていける。もう、あんなものは必要ない。お前の言う通りだ」

「それじゃ――」

「ああ、明日にでも、みんなであれを取っ払おう」


 ザクスの言葉を聞き、私はほっと胸をなでおろす。


「ありがとう、ザクス」

「礼ならお腹の子に言うんだな。みんな今日はもう休め」


 ザクスは私のお腹を優しく撫でた後、私たちをジュマーミの中に戻るよう促した。


「俺はもう少しこの子の様子を見ておくから、みんな先に戻ってろ」


 テネスは、まだ残って子牛の面倒を見ておきたいらしい。


「分かった、よろしく頼むわ。じゃあ、またね」


 私は母牛と子牛に向かって手を振り、畜舎を後にした。


 その日の夜は、穏やかな眠りについていた。夜は交代交代で巡回警備をする決まりになっているのだが、今の私にはそれが免除されている。しかも、店の中の最も高価で品質の高いダブルベッドを、テネスと共に利用することも許可されているのだ。

 ふと――銃声が聞こえてきたかと思うと、店内で警報がけたたましく鳴り響き、私は慌てて起きた。


「ちょっと、なんなの?」

「なんだ? 何が起きている?」


 一緒に寝ていたテネスも目を覚ます。


「敵襲だ!」

「駐車場の方からだ!」


 周りで寝ていた仲間たちも飛び起き、店内が一気に騒がしくなった。


「お前はここにいろ」


 テネスもベッドの下に置いている銃を手に、外へ向かう。

 銃声が、絶え間なく響き渡る。


「ザクス……私が言ったこと、もう忘れたの?」


 思わず私は呟いた。


 ――それとも、やはりこの世界において、話し合いで解決するということは無理なのだろうか……。


 テネスにここに留まるよう言われたのだが、私は無意識のうちに銃声の方へと足を進めていた。

 すると、テネスが何やら慌てた様子でこちらへ走ってきた。


「お前、なんでこっちに来た!? 早く隠れるぞ!」


 テネスが私の手を握り、強く引っ張る。その手には、まるで恐怖のあまり震えているかのような感覚があった。


「ねぇ、どうしたの? 敵は?」


 これまで敵襲を受けて、それを撃退もせずに戻ってくるなんてことは、彼に一度もなかったのに。


「なんだか、とんでもねぇ化物が襲ってきやがった。アブリみたいだけど、アブリとは違う。何やら知性のある化物みたいで、銃や刃物で武装してやがる。しかも、こちらの銃撃が一切効かねぇ! 何なんだよあいつは!?」


 テネスが怯えた様子で話す。

 アブリとは違う、知性があって武装した化物――?

 その話を聞いただけでは、どんな敵が襲ってきたのか、全く想像がつかなかった。

 と、店内に銃声が響き渡った。甲高い金属音のような音も混じっている。

 そして――あっという間に静寂が店内を支配した。


「ヤバイぞ、〝奴〟が入ってきやがった」


 テネスの声が、切羽つまったものになる。

 敵の正体を確かめるため、私は陳列棚の物陰から入口の方を見てみた。

 テネスの言う〝奴〟が、遠くではあるが見えた――。

 確かに一見、アブリのようではあるが、よく見ると全く違う。全身が青みがかったグレーの色をしていて黒い模様が入っており、非常に筋肉質でバランスのいい二足歩行の骨格をしている。

 何より――顔が人間のものではなく、獰猛な獣のような、恐ろしい顔つきである。


 ――なんなのあれ……?


「さっさと出てきな、ゲスども! 俺から隠れられるなんて思うなよ!」


 しゃべった――言葉をしゃべれるの? あの化物……。

〝奴〟は雑貨売り場の方へと向かっていった。


「あっちへ行くぞ、ゆっくりついてこい」


 テネスが小声で囁きながら、私を食品売り場の方へ導く。


「ひぇ! やめてくれ! 殺さないでくれ! 頼む!」


 どこかで、誰かの声が聞こえてきたかと思うと、断末魔の叫びが店内にこだました。テネスの握る手が、より一層強くなる。

 その後も叫び声や銃声、人間のものとは思えない大きな足音が響き続けた。

 私たちは慎重に店内を離れ、やがて農場の方に出た。


「どうすればいいの!?」


 私はテネスの顔を見た。テネスはまるで、どうすることもできないと言うかのように、俯いて黙ったままである。


「病院から援軍は来てないの?」

「来たさ。だが、全員殺された……」


 青ざめた顔でテネスが答える。


「どうして!? 私たち、今までどんな奴だろうと退けてきたじゃない! あいつ一人どうにかならないの!?」

「そんなことは分かってる! でも、あいつは何もかもが違うんだよ……あんな奴、どうすることもできない……」


 どんなに困難な状況でも、臆することなく立ち向かってきたテネスが、この有様である。


「そんな……ここはどうなるの? ずっと守ってきたのに! やっと何不自由ない暮らしを手に入れたのに! ここを出て、また何もかもやり直せって言うの!? もうすぐ赤ちゃんも産まれてくるのに!」


 アブリが現れ出した時のことが頭をよぎり、私はテネスに向かって喚く。

 やがて店内の方から、音がしなくなった。


「お前は畜舎の方に隠れていろ。俺はここで奴を迎え撃つ。もし、俺がいつまで経ってもお前の所に戻らなかったら、お前一人でここから逃げるんだ」

「いやよ! 何を言ってるの!? 私一人でどうしろって言うわけ!?」


 テネスの目には、もはや生気が失われてしまっている。


「子供の名前はマルスだ。分かるよな? シネスタの昔の言葉で〝希望〟って意味だ」


 テネスが、ぼそりとお腹の子の名前を呟いた。まるで、遺言を残すかのように。

 希望マルス――いいじゃない。まさしく、こんな世界における希望の光なんだもの、この子は。でも、テネスがいなくなってしまったら――その希望の光も失われてしまう。


「お願い! 一緒にいて! 私を一人にしないで!」

「早く! 行け!」


 今まで見たことのない、凄まじいテネスの形相を見て、私は思わずそれから逃げるかのように畜舎の方へと走った。


 ――どうして、こんなことになるの? どうして……。


 あまりにも理不尽で唐突すぎる出来事に、涙が止めどなく流れ続ける。

 気が付くと、私はあの牛の親子の所まで来ていた。


「きっとこれは夢だわ……そうよ、ただの悪い夢よ」


 そう自分に言い聞かせながら、慰めるように子牛の頭を撫でる。

 とその時――凄まじい銃声が畜舎の方にまで響き渡った。

 周りの動物たちが、一斉に騒ぎ出す。


「大丈夫、大丈夫よ。あんな奴、テネスが追い払ってくれるから」


 狼狽うろたえる親子をなんとか落ち着かせて、私は母牛の横に隠れた。


 ――テネス……お願い、早くこっちに来て。


 息を殺し、高鳴る鼓動を抑えながら、祈る思いでテネスが来るのを待った。

 しばらくして、動物たちの鳴き声に混じり、誰かの足音がゆっくりとこちらへ近づいてくるのを感じた。


「テネス……? テネスよね……?」


〝奴〟を追い払ってくれたんだわ。やっと、この恐怖から解放される。

 そうよ、もうすぐ子供が産まれる私たちに、神様がいつまでもこんな意地悪するわけないじゃない! 

 そう確信した私は、足音の方へと出た。


 しかし、そこにいたのは――。


「お前も〈ムスタ〉か?」


 テネスではなく、〝奴〟だった。


「嘘……どうして……」


 さっきは遠くからであったが、今度は間近で見る〝奴〟のおぞましい姿に、私は思わず腰を抜かしてしまった。〝奴〟が、じっとこちらを見つめている。


「お前も〈ムスタ〉なのかと聞いている」


〝奴〟が再び口を開く。


「え? ええ……そうよ……」


 恐怖に震えながら、〝奴〟の問いに答える。

 すると〝奴〟が巨大な刃物を構え、私の方に近づいてきた。


「なら、酌量の余地はねぇな。腕や脚を切り落とした奴らをフェンスに括り付けるクズどもだからな」


 ――腕や脚を切り落とした奴らを……フェンスに……。


「え……あ……フェンスの……あれは……」


 ――違う……違うの……あれは……もう……。


「やめて、お願い」


 迫りくる〝奴〟に押されるかのように後ずさりしながら、私は〝奴〟に訴えかける。


「黙れ!」


〝奴〟が怒鳴り声を上げ、私はさらに自分の腰が引けるのを感じた。


「お前らみたいな悪魔がいなきゃ……俺の子は……」


〝奴〟の目が、どんどん怒りに満ちていく。


 ――え……? 「俺の子」って……どういうこと?


「ちょっと待って……あなた……まさか、にんげ……」


 私がそこまで言った次の瞬間、体に凄まじい衝撃が走った――あまりの衝撃に、口から物凄い勢いで血が吐き出される。

〝奴〟の巨大な刃物が……私の体を貫いている――。

 あっという間に全身の力が抜けていき、私は後ろへ倒れ込んだ。


 ――ちょっと……嘘でしょ……。


 なんとか力を振り絞り、首を起こして自分のお腹を見た。

 まるで噴火している火山のように、血が溢れ出ている――。

 立ち去っていく〝奴〟の後ろ姿が、目に映る。首に力が入らなくなり、後ろに倒れていった。

 もう……微動だにできない。


 遠ざかる意識の中、私は思った。


 ――神様……彼は一体、何者なのですか……? どうして……私をこんなむごい目に遭わせるのですか……?


 母牛の鳴き声がわずかに聞こえる。

 だが、それもだんだん小さくなっていく……。


 そして、最後にそっと心の中で呟いた。


 ――ごめんね……マルス……。

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