第2話 崩壊
まずは作戦の最初のステップを踏むことができた。
今や悪の大国となってしまったここシネスタの指導者、いや独裁者と言うべきであろうハラスの官邸『クルシュット』の周辺に、軍事基地がある。その軍事基地で最も隅に位置する、規模の小さい兵舎に俺たちは潜入し、制圧してやったのだ。ここはどうやら、入隊したばかりの新米兵士たちと、その上官が居住する兵舎らしい。
『クルシュット』を中心に、
軍事基地から先に広がる街の中にいた、数少ないハラス政権に反対する住民たちの協力もあって、事前の情報収集や偵察が功を奏した要因だろう。
兵舎の就寝時間を狙い、隊長である俺が指揮をとった連係プレーが見事に決まった。銃にはサイレンサーを取り付けていたし、寝ていたシネスタ兵たちには不意をつき、口を押さえてナイフで喉を
「おい、お前ら。念のため〝取りこぼし〟がないか、確かめてこい」
「はい」
俺は部下たちに一応兵舎内を確認させた上で、シネスタ兵たちの死体を食堂やシャワー室といった、空いている場所に運ぶよう指示を出した。
玄関ホールから西側の一番奥に、ベッドが並べられた大部屋の寝室がある。俺は次に、部下たちをそこに集合させた。
この部屋なら〝次のステップ〟へ進むのにちょうどいい。ベッドの数は俺を除いた、部隊の戦闘兵の人数分ある。俺は玄関ホールから東側の一番奥にあった、ここの上官の個室と思われる部屋のベッドを使えばいいだろう。
寝室の電気は消えており、窓のカーテンも閉まっているので暗いが、就寝時間なのに電気が
就寝時を襲ったせいで、ほとんどのベッドは枕の方が
「それじゃ、【ニトロ】を注入するぞ。いいな?」
そしてすぐさま支援兵たちが、ベッド上の戦闘兵一人ひとりに声をかけながら、注射器で【ニトロ】を注入していった。
「こいつで、あのクソ野郎の息の根を止めてやれ」
「ああ、任せな。まさかハラスの野郎も【ニトロ】入りの俺たちが乗り込んでくるなんて、思ってもいないだろう」
「今まで侵略や略奪を繰り返して、色んな国に迷惑かけてきたことを後悔させてやれ」
「おう」
「来た来た! この感じがたまらねぇんだよな。体中の細胞がみなぎってくる、このハイな感じ!」
「だよな。ずっと、この感じが切れなきゃいいのに」
「そんなにいいんなら、俺たち支援兵も一度は味わってみたいもんだ」
みんなの緊張が少しだけ
「いっそのこと、【ニトロ】をハラスにも味わってもらうか。そしたらカーミアの技術に恐れ入って、おとなしくするかもしれないぜ」
すると、
「さっすがアルフ隊長、その発想はなかったですわ」
「じゃ隊長、俺たちぐっすり寝て目が覚めたらそのまま帰るんで、【ニトロ】の営業活動、頑張ってきてくださいね」
すぐにこれである。まったく、こいつらときたら……。
「あいよ、気を付けて帰るんだぜ」
俺は空気を読み、冗談で返してやった。寝室に小さな笑いの渦が巻き起こる。
だが次の瞬間、
「お前たち! 分かってるのか!? 目覚めてからが本番なんだぞ! 特に今回は、失敗が許されないんだからな! この世界の命運が、私たちカーミア特殊部隊〈CSF〉にかかっているんだ!」
兵舎周辺を考慮してか、少しだけ勢いを抑えた、それでも威力十分な怒声が響き渡り、雰囲気が一変した。
【ニトロ】を注入されていた戦闘兵の一人、常に仏頂面で
「アルフ! この作戦の重要性を隊長であるお前が、一番こいつらに自覚させなければならないんだぞ!」
「んなこたぁ、みんな分かってんだよ! 少し息抜きするくらい別にいいじゃねぇか」
しゃべっていた部下たちが、一斉にばつが悪そうに口を閉ざす。
まぁ、確かに今回の作戦において、失敗が許されないのは事実だ。
ここシネスタは経済大国の一つで、世界の中心に位置し、その他の国々はシネスタを取り囲むように存在している。シネスタは天然資源が豊富で美しい自然が多く、人々は温厚で、観光客が多数訪れるなど、他国からの信頼も厚かった。もちろん一番の経済大国である俺たちの国カーミアも、貿易など二国間での交流を盛んに行い、共にこの世界を支え合っていた。
しかし十年ほど前、自国第一主義を唱える独裁者ハラスが政権を握ってから、突然変異したかの
自然を破壊して経済発展を目的とした施設の増設を行い、最先端の武器や軍事技術の開発、貧困層を駆り出すほどの大幅な兵士の増員による、軍事力の強化を図るようになったのである。
そしてさらなる天然資源の確保を
極め付きは、自国民への危険なプロパガンダである。
次第にシネスタよりも規模の小さい国々からは、少しくらいの領土なら譲ってやる、という風潮さえも生まれてしまっていた。最も天然資源が産出される国に至っては、少しどころのレベルではない侵攻を受けてしまっている状況だ。
事態を重く見た俺たちの国カーミアは、数年前からハラス政権の打倒を目的とした武力行使を試み始めた。だが、今や世界トップクラスの軍事力を誇るシネスタの前に、苦戦を強いられている。
やがてハラスの暴挙はエスカレートし続け、ついにはカーミアにまで手を出してくるようになった。下手すれば、ハラス政権による世界征服もありうる状況である。
だが今はカーミアを中心に、各国と連携してシネスタへの包囲網を築き上げ、こちらも経済制裁を行うなどして、なんとかハラスの暴挙を食い止めている。
「アルフ、お前は戦闘能力に
また……ベクターお得意の説教タイムが始まったよ。
「あのな、何事もネガティブに考えてばかりじゃやってられねぇんだよ、この世知辛い世の中は!」
「そのような甘い考え方が、あの悪の政権を野放しにし続け、取り返しのつかない事態を招いたのだ! だから私はこうなる前から、カーミア政府にも警鐘を鳴らしていたというのに!」
だぁ、もうめんどくせぇ!
「分かった、分かった! 気を引き締めてまいりますよ、ベクター副隊長」
俺は生返事で、その場を丸く収めるべく譲歩することにした。すると、ベクターは
若くして紛争多発地域での任務の功績が認められた俺とベクターは、〈CSF〉に
それはさておき、俺も〝次のステップ〟へ進むとしよう。
「ミーデル、一緒に来て【ニトロ】を打ってくれないか?」
俺は若き支援兵のミーデルを指名し、【ニトロ】を打ち込んでもらうことにした。
「はい!」
ミーデルの透き通った声が、寝室の曇りかけた空気を吹き飛ばす。
ブロンドのまとまった髪に、澄んだブルーの目をした、色白で
ちなみにミーデルは元科学者で、シネスタがカーミアへの侵攻を試みた際に家族が巻き添えを食ったことがきっかけとなり、カーミア軍に入隊したという異例のキャリアの持ち主だ。現在では科学者としての経歴を活(い)かし、この部隊での任務以外にも、軍事技術の研究に携わっていたりする。
「それじゃ、みんな後で落ち合おうぜ」
と俺は言い残してから、こことは反対側にあった上官の個室と思われる部屋まで、【ニトロ】入りの注射器を手にしたミーデルと一緒に移動した。
部屋は上質なホテルのスイートルームくらいの広さがあり、さっきの寝室よりも良さげなベッドに、クローゼットや身支度用の全身を映せる無駄にでかい鏡、トイレ付きのユニットバスまで備えつけられている。
俺も部下たちと同様、ベッドに寝転んだ。
「まったく、ベクターには世話になってはいるが、もう親しくなれる気がしねぇ。たまに
思わずミーデルに
「僕もちょっと彼のことは苦手ですね。プライベートの時間でも銃の手入れとか、筋トレでもしてそうな方ですよね」
「だよな。どう考えても、犬や猫と一緒に
「こらこら、それは言いすぎですよ」
失笑するミーデルに俺は袖を
「僕、この部隊に入れて本当によかったと思ってるんです。隊長のあなたは気さくで付き合いやすい方ですし、最大限に僕のことを評価してくれた。僕にとって、そこが人生で一番喜びを感じられる瞬間なんで。みんなも、あなたの人柄が好きなんじゃないでしょうか? 副隊長もあなたのような人だったら、なおよかったんですけどね」
俺の腕を軽くトントンと叩き、注射器を準備するミーデルから、思わぬ一言をもらう。
「そいつはどうも」
「よし、じゃあ注入しますよ」
「ああ、思いっきりぶち込んでくれ」
ミーデルが注射器の針を、俺の腕に刺した。透明感のある緑色をした【ニトロ】が、俺の体内へと流れていく――。
【ニトロ】――俺たちがそういう愛称で呼んでいる、ハラス政権による暴挙に待ったをかけるかの如く、最近になって現れた救世主とも呼べる存在。
それは筋力や
【ニトロ】は即効性があり、投与すると、まず初めに強心作用が起こる。次に全身の細胞が活性化して快感を生じ、その快感が持続されたまま三時間くらいの眠りにつく。
そして、朝のコーヒーが不要な存在になるほどスッキリと目が覚めた時には、新しい自分として一時的に生まれ変われる。それは――銃弾を走りながらかわすとか、二丁拳銃で複数の敵の頭を
初めてこれを使った時の興奮は、今でも忘れられない。
そんな【ニトロ】について、カーミアにしか生息していない、希少な固有種の植物から抽出された成分で作られているそうだ。それ以外の詳細は明かされておらず、カーミアの一部の人間だけが知る極秘事項となっており、軍用目的以外では使用されていない。
だが、細かいことはどうでもいい。とにかくこいつのおかげで、我がカーミア特殊部隊〈CSF〉は、今や無敵の存在と言っていいほどになったのである。
「寝室近くの武器庫に、使えそうなやつが置いてあったから、整えておいてくれないか? あと、俺たちが眠りについている間は、念のため周辺の警戒を怠るなよ」
「はい! あなたたちが目覚めるまでの間、しっかりここを守っておきます」
俺は眠りにつく前に、ミーデルに指示を出しておいた。
改めて今回の作戦はこうだ。
この兵舎に潜入して制圧することに成功した俺たちは、ここで【ニトロ】を注入する。〝強化兵士〟となって目が覚めた頃には、もう深夜帯といったところである。そこを狙い、『クルシュット』に突入して奇襲攻撃を仕掛け、ハラスを殺害するといった寸法だ。
「これが成功したら、カーミア政府から高級住宅くらいはプレゼントしてもらおうぜ」
「ええ。僕たちの部隊は、世間に存在すら知られていないくらいですし、それくらいのことしてもらえないのなら、次の標的はカーミア政府にしましょう」
「ああ、そうだな」
ホント、ミーデルはノリがいい奴だな。そんなことを思っているうちに、意識がゆっくりと遠のいていく――。
「よし、じゃあ数時間後に革命を起こそうぜ」
ハイな気分の後から来る眠気が限界まで来たところで、俺は〝強化兵士〟として目覚めるのを待つことにした。
「ええ、自分たちの名を歴史に刻みましょう」
そう言って、ミーデルは寝転がる俺の前に拳を突き出した。俺も最後の力を振り絞り、その拳に自分の拳を当てて応える。
そして、ミーデルがその場を去っていくのが見えた――。
ふと長く遠い意識の中で、俺はなんだか悲鳴に近い叫び声や、パニックで逃げ惑う奴らのけたたましい足音のような、ただ事ではない不穏な何かを感じ取っていた――。
*
目が覚めた――。
やはり普通に眠った時の目覚めとは違い、だるさが一切なくて気分もいいし、〝あの子〟のことを思い起こすこともない。
それに、全身の感覚が今まで【ニトロ】を投与された時より、研ぎ澄まされているかのようである。今回もバッチリと効いているみたいだ。
部屋のカーテンには、明るい太陽の光が当たっている。
さて、一時的な〝強化兵士〟としての俺様が再び降誕したところで、あのクソッタレハラスの息の根を止めに行くとしよう。
他の戦闘兵たちはちゃんと目を覚ましただろうか?
確認しに行こうとしたその時――。
――ん? ちょっと待てよ……太陽の光……?
「しまった!」
寝過ごしてしまったというのか!?
俺は思わず体をガバッと起こした。
すると――ベッドがとてつもない音で
――なんだ?
ふと視界に自分の下半身が入り、そこから上半身も入る……。
ギョッとした――。
俺は己の肉体を鍛えに鍛え抜いて、文字通り丸太のような太さをした腕や脚、分厚い胸板などを身に着けているのだが、それらがさらに上乗せされた筋肉でパンパンに膨らんでいる。
そして何より……肌が青みがかったグレーの色をしていて、得体の知れない黒い模様が入っていた。
――なんだこれは?
俺は反射的に自分の手を目の前に持ってくる。すると、またしても驚くべきものが映った。
倍以上に膨らんだ指、その先から、獣みたいに鋭くて分厚い爪が生えている。それは足の指や爪も同じであった。
そのうえ、俺は気付いてしまった――右脚と左脚の間に見えているもの……尻尾だ……毛羽立った、太い尻尾だ。
わけが分からず混乱する俺は、破裂したかのような破け方をして体に張り付いている、戦闘服や下着を無我夢中で引き裂いて取り除いた。
――一体どうなってんだ?
俺は軋むベッドから立ち上がる。――再び違和感を感じた。もともと俺は背も高い方だが、なんだか視界がいつもより高い気がする。天井が近くに感じられるのだ。
ただならぬ異変を感じた俺は、鏡の前に立つ。
そして――鏡に映る自分の姿を見て凍り付いた。
やはり普段見るよりも体全体がデカくなっている。何より一番信じがたいものが……自分の顔であるだろうものの造形であった。
どう見ても、人間の顔じゃない――。
顔立ちは狼とか猫科の猛獣のようだが、頭の左右には黒、中央から額にかけては白のツノが複数生えている。おまけに耳の辺りにも、青みがかったグレーのツノが複数生えていた。見方によっては、ドラゴンとかそういうものにも見える。いずれにせよ、
――誰だよお前……。
しかも、青かった目が、なぜか緑色になっている。
俺は鏡を見ながら、自分の顔や体を触りまくった。
どうやらそこに映っている化物が、俺自身であることは間違いないようだ――。
「でも……鋭い
と、あまりにも現実離れした目の前の出来事に気が狂ってしまったのか、俺は思わず馬鹿みたいなことを
だが、人間の姿で〝強化兵士〟として生まれ変わった時よりも、〝化物の自分〟からは全ての力がより一層湧いてきているような、そんな感じがする。
「てか、なんでこんな姿になっちまったんだ?」
目覚める前にあったことと言えば……すぐに頭に思い浮かんだのは【ニトロ】だ。
まさか、【ニトロ】の副作用とか? こんな半人半獣の化物に生まれ変わることがあるなんて聞いてないぞ。この姿って、ちゃんと元に戻るんだよな?
ミーデルに聞けば何か分かるかもしれない。あいつは元科学者だったこともあり、【ニトロ】 の開発にも関わっていたらしいからな。
みんなこの姿を見たらどういう反応するだろうか……まぁ、俺自身であるという事実は変わらないわけだし、言葉はしゃべれるみたいだから、事情を説明すれば大丈夫なはずだ。
とりあえず、部屋を出てみんなの所へ行こう。
俺はドアノブに手をやろうとした。――なんだかドアノブが
視線を玄関ホールの方へ向ける。人影は見当たらない。
なんだよ、みんな俺みたいに寝過ごしてるのか? 支援兵たちはどこにいる? 頼むから、今の俺を見ていきなり発砲したりするなよ。
俺は恐る恐る玄関ホールの方へと足を進めた。
それにしても、やけに静かだな。辺りを見回してみると、壁にヒビが入っていたり、カビのような汚れが付いていたりして、まるで眠りにつく前から目覚めるまでの間に、兵舎が退廃してしまったかのようである。
「どういうことだ?」
そして玄関ホールまで来て、俺はふと気付いた。
――扉が開いているじゃねぇか!
「まずい!」
俺は慌てて玄関の扉を閉めた。幸いちらっと外を見た限りでは、誰もいなかった。
ふう、危なかった……それにしても、何考えてんだあいつら……。
立腹しながらも、歩みは慎重さを保ちつつ、寝室へと向かう。
「おーい! まだ寝てるのかお前ら!? ミーデル! ちょっと来てくれ、大変なことが起きちまった!」
覚悟を決め、俺は寝室に向かって声を出した。――何も反応がない。廊下の途中にある武器庫も
ついに寝室まで
なんで誰もいないんだよ……まさか隊長である俺を置いて、先にハラスの所へ行っちまったなんてことないよな? ベクターがなかなか目を覚まさない俺に呆れて、部隊を率いて行ってしまった……? いや、さすがにベクターでもそれはないだろう。
――それとも……みんな見つかってしまって、シネスタ軍に殺害された?
一瞬そんな考えが頭をよぎってドキッとしたが、それならいくら化物として寝ていた俺のことでも、奴らは放っておかないはずである。
俺は建物の中を一度巡回してみたが、人の気配は全くなかった。しかも奇妙なことに、食堂やシャワー室に置いてあったはずのシネスタ兵たちの死体までなくなっている。ますますわけが分からない。
――困ったなぁ……この姿でどうしろって言うんだよ……。
マジで先に行ってしまったのか? それなら、みんなが帰ってくるのを待った方がいいか? 【ニトロ】を投与した〝強化兵士〟として行ったのなら、大丈夫だよな……。
――いや、もし万が一シネスタ軍の奴らにみんな捕えられていたら?
隊長である以上、部下たちのことが気になってしょうがない。
そういえば、さっきから外も妙に静かだな。
俺は寝室の窓のカーテンから、外の様子を覗いてみた。
すると――この兵舎から少し離れた、外壁に
しかしそれは――なんだかおかしな姿をしていた。
左腕だけが青みがかったグレーの色をしていて、虎みたいな黒い模様があり、異様に膨れ上がっている。しかもその手には、獣みたいに鋭い爪が生えていた。皮膚にひどい
さらによく見てみると、所々破けてはいるが、身に着けているものがシネスタ軍の軍服であることが分かった。皮膚の爛れが左腕のみならず、体中のあちこちにあって痛々しい。おそらくシネスタ兵なのだろう。
「なんだあいつは……?」
人影はその場から動かず、
あいつ、シネスタ兵だよな? 【ニトロ】を注入された? そんなわけないよな……。
俺がこんな姿になった原因が【ニトロ】だとしたら、なぜシネスタ兵のあいつがあんな姿をしているんだ? 逆に【ニトロ】が原因じゃないとすれば、何なんだ?
あいつを拘束して尋問してみるか? この姿のことだけじゃなく、みんなのことを聞けるかもしれない。
他に人影は見当たらない。てか、なんで誰もあいつのことを気にしないんだ?
あそこまで行ったとして、他のシネスタ兵が急に現れて、俺を目撃する可能性は十分にある。そうなってしまったら、モンスター映画みたいに、街の中を逃げ回って暴れまくるモンスター役になるしかない――。
だが、どっちみち一人でここにいても、
そうだ、何か武器を持っていこう。
武器庫に行き、中を見渡す。良さげなアサルトライフルを手にしてみたが、小さく感じる。うまく持てない。どの銃もそうであった。
クソ! なんてことだ!
軍用ナイフも手にしてみる。――小さい。指でつまむような感じだ。だが仕方ない、丸腰よりはマシであろう。
俺は軍用ナイフを手に取り、玄関ホールから慎重にこの兵舎を出た。
晴天の下、正面には新米兵士たちの訓練スペースと思われる雑草だらけのグラウンドが広がっていた。遠くに巨大な軍需物資の倉庫の一つが見える。
あいつがいるのはここから右の方だ。そっちへ顔を向けてみる。すると、奴の姿がしっかりと確認できた。
相変わらず俯いたままである。俺は奴の視界に入らないよう背後の方へと回りつつ、足音をできるだけ立てずに近づいていった。遠くから見た時にはあまり感じられなかったが、奴の体も相当大きいようだ。今の俺と視線の高さにそれほど差がない。
じりじりと距離を詰め、残り十メートルくらいになったその時だった。 奴が急にこちらを向いたのである――。
――しまった!
そう思ったと同時に、俺はそれまで半分しか見えていなかった奴の顔を見て
顔のもう半分が引きつっており、皮膚が爛れ、筋肉や血管が浮き出ている。しかも目全体が真っ赤になっていて、もはや人の目ではない。
「あんた……大丈夫か?」
そんな恐ろしい姿を見て、俺は思わず声をかけてしまった。
しかし奴は
奴の歩幅に合わせ、俺は無意識のうちに後ずさりした。
と次の瞬間、奴が金切り声を上げながら、猛然と俺に向かってきた。そして、高々と鋭い爪を持つ左腕を上げる。そいつを振り下ろしてくると本能的に感じた俺は、後ろへ飛んだ。
なんとか奴の攻撃をかわすことに成功したようである。
その時ふと、俺はなんだか違和感を感じた――自分の感覚よりも、だいぶ離れて飛んでいる。
「おい、ちょっと待てよ! 俺は話がしたいだけなんだ!」
俺は両手を広げて、敵意がないことを示す。
だが奴はまた金切り声を上げ、こちらに突っ込んできた。また〝異形の左腕〟による攻撃である。
今度は左へ飛んでかわす。やはり自分の感覚より長く飛んでいた。
――なんだ? 〝強化兵士〟の時に比べて、身体能力が上がっている?
それはともかく、どうする? こいつ、正気じゃないみたいだ。
そんなことを考えているうちに、奴の第三の攻撃が俺に迫ってきた。またしても〝異形の左腕〟からの攻撃である。その単調な行動からして、知性もなくなっている感じだ。
とはいえあの左腕の鋭い爪、油断はできない。とりあえず、あれを食らわないように突き飛ばすか。
俺は軍用ナイフを地面に捨てた。
奴が腕を振り下ろしてきそうな距離まで近づいてきたのを見て、一気にこちらも間合いを詰める。振り下ろす途中の〝異形の左腕〟を右手で受け止め、俺は左手で奴の胸を思い切り押した。
すると――少し突き飛ばしたぐらいのはずが、まるでジェット噴射のような勢いで奴が後方に吹っ飛び、兵舎の壁を砕いてしまった。
――やべぇ、てかマジかよ……すげぇパワーアップしてんじゃねぇか……。
俺は思わず自分の手を見つめた。
そんな驚きをよそに、吹っ飛んだ奴が、何事もなかったかのように上体を起こす。
「なぁ、ちょっと聞いてくれよ。あんた、おかしな姿してるよな? 俺もなんだ。何かこのことについて知らないか?」
だが俺の問いかけに一切応じず、奴は再び立ち上がると、すぐさまこちらに向かってきた。
もうダメだ。奴を
俺は
――こいつを
問答無用と言わんばかりに、奴が俺に向かってくる。
「ちきしょう!」
今度は〝異形の左腕〟を右手で
「うおおお!」
俺がやけくそに叫びながら拳を繰り出すと、奴の顔はスイカを高い所から落としたかのように粉砕してしまった。
――やっぱりすげぇ力だ……。
俺の
「あーあ、
周りの目がないか気になった俺は、辺りを見渡してみた。――誰もいない。依然として不気味なほど静かで、今の殺し合いによって、兵舎で騒ぎになっているということも特になさそうだ。
というか、もうここまで来たら人目なんか気にしてる場合じゃない。まずはみんなを見つけないと。いざとなったら、どんな奴でも片っ端からぶっ倒してやる。
任務も果たさず、先にカーミアへ帰ったなんてことはまずありえない。みんなが行った場所はハラスのいる『クルシュット』だ。根拠のない確信ではあるが、今はそれしか当てがない。銃声や騒ぎが聞こえてこないということは、もう戦闘は終わったのか?
いまいち状況が掴めないまま、俺は巨大な軍需物資の倉庫の方へ向かってこの横に長い兵舎の建物を通り切り、開けた所に出た。
すると、諜報機関の施設が遠くに見えた。四隅を囲うようにして存在する諜報機関の施設の真ん中に、ハラスの官邸『クルシュット』がある。今の俺は視力もかなりいいようで、『クルシュット』の屋上に立つ細長い塔に掲げられた、象徴的なシネスタ国旗も確認できた。間違いない。目指す所はあそこだ。
と、目的の場所が分かったのはいいのだが、広大な敷地を見渡してみると、さすがに人影がちらほらと見えてきた。
だが――遠くから見ても、それらの姿には違和感があった。
先ほどの奴と同様に片腕だけが異様に大きくて変異している者、それだけでなく、今度は両腕が変異している者や、両脚が変異している者もいる。中には両腕と両脚共に変異していて、四つん
――まさか……。
俺はその〝異形の者たち〟の方へと足を進めていった。
そして近づくにつれ、〝異形の者たち〟の姿がよりあらわになっていき、ゾッとした。
男もいれば、女もいる。体中のあちこちで破けている服装はそれぞれバラバラで、どう考えても軍の関係者のものではない。しかもそいつらの顔の様子が、先ほどの奴と同じような感じで半分が引きつっており、皮膚が爛れ、筋肉や血管が浮き出ており、目が真っ赤になっていた。中には顔が胸の辺りから出ている、もっと変な奴までいる。さらに、どいつもこいつも先ほどの奴くらい体が大きい。
「なんだよこいつら……ここで化物のコスプレ大会でもやってんのか?」
――これは何かのイベントなんだ。
目の前に広がるあまりにも非現実的な光景を見て、そう自分に言い聞かせながら、俺は無意識のうちに歩み続けていた。
すると――俺の存在に気付いた〝異形の者たち〟の一人が、こちらにゆっくり近づいてきたかと思うと、金切り声を上げて襲い掛かってきた。また片腕だけが変異した奴である。
「おいおい、冗談だろ」
俺は一瞬動揺したが、そいつの変異した腕を受け止め、脚を払って転倒させた。そして、顔面に力一杯の拳を叩き込む。またしても顔が砕け、そいつは動かなくなった。
だが安心したのも
真っ先にこちらに向かってきたのは、両脚が変異した奴だ。速い! 狂暴な猿が飛び掛かってくるかのようである。しかも右脚で俺に飛び蹴りをするような構えを見せてきた。俺は素早くカウンターするように右脚の後ろ回し蹴りを腹部に繰り出し、なんとかその両脚が変異した奴を吹っ飛ばした。
しかし息つく間もなく、今度は両腕両脚共に変異した、四つん這いで長い黒髪の女の化物が襲い掛かってきた。
「勘弁してくれよ、この間お前みたいな奴が出てくるホラー映画を見て、トラウマになったばかりなんだよ!」
その見た目だけでも恐ろしいのに、
トラウマを打ち破り、俺は思わず雄たけびを上げる。が、次から次へと〝異形の者たち〟が襲い掛かってきて、俺に喜ぶ隙を与えてくれない。
俺は冷静に一体一体相手の姿や動きに合わせ、攻撃を食らわないよう適宜対応していき、次々と〝異形の者たち〟を
今の俺には桁違いのパワーとスピードがあり、全ての感覚がより一層研ぎ澄まされている。おまけに体もデカくなったからリーチもある。だんだん今の自分の力をコントロールできるようになってきたし、それに加えていつの間にか生えていた尻尾も、うまく使えるようになってきた。
とはいえ、こいつらの力も相当強い。特に変異した部分の攻撃を受け止めた時の衝撃が、全身硬くて分厚い筋肉で覆われた今の俺でも、結構重たく感じる。
「それにしても、モテモテだなぁ俺。そんなに今の俺が好きなのかお前ら」
俺は軽口を叩いて平常心を保とうとしたが、次第に余裕がなくなってきた。おまけにいつの間にか、〝異形の者たち〟があちこちから湧いてきている。
それでも、『クルシュット』に足を進めていくしかなかった。
と――目の前に、両腕が変異した奴が現れた。
「お前らに用はねぇんだよ! どきやがれ!」
俺はそう叫びながら、ふとそいつの顔を見た。
爛れているものの、なんだか見覚えのある顔だ。髭を蓄えた金髪で角刈りの――。
――え? まさか……。
「ベクター……?」
俺が呟いたと同時に、そいつが左腕を振り下ろす。動揺したせいか反応が遅れ、爪で胸を引っ掻かれてしまった。
胸に斜め方向の傷ができて、赤い血がにじみ出る。
「クッ……!」
思わず俺は呻き声を上げた。すると、すかさずそいつが今度は右腕で攻撃してきた。慌てて紙一重の差でかわす。幸い、たいしたダメージではないようだ。
それにしても、血は赤いままでよかった。と妙な
「ベクター! 俺だ、アルフだ! 信じてもらえないかもしれねぇけど。何があったんだ?」
だが、ベクターは奇声を発しながら、再び襲い掛かってきた。
俺はベクターの変異した両方の腕を手で掴み、押さえ込んだ。
「おい、ベクター! しっかりしろ! 他のみんなはどうしたんだ?」
変わり果てたベクターの顔を正面に見据えて声をかけるも、ベクターは奇声を発しながら、俺の手による拘束を振りほどこうと、もがいて暴れるだけである。もともと仏頂面だが、まるで俺に対して怒っているように見えた。
「なぁ、お前まだ【ニトロ】打ち込んだ時のこと怒ってるのかよ? それに、そんな気味の悪いコスプレするような趣味じゃないだろ?」
かろうじて人間のままに留めているベクターの片方の目を見ながら、俺は必死に声をかけた。
そうこうしているうちに、他の〝異形の者たち〟がどんどんこちらへ近寄ってくる。
ベクターを手で押さえつけながら、俺は脚や尻尾でそいつらを吹っ飛ばした。
「邪魔すんじゃねぇ!」
俺は確かに今ではもうベクターとは馬が合わない。しかし、お互い仲間であることには違いない。その仲間の一人が、〝異形の者たち〟と同じ姿をしている――。
今の俺も半人半獣の化物ではあるが、意思疎通はできる。それに対して、今のベクターはどうだ? これじゃまるで――生きる
「頼むよ、目を覚ましてくれ! 他のみんなはどこにいるんだ? ベクタァァァー!」
渾身の力を込め、俺はベクターに向かって怒鳴りつけた。
だがそれも
――まさか、ベクターだけでなく他のみんなも……。
そんな胸騒ぎがしたその時、自分の顔に液体が掛かる感触がした。
「なんだ?」
ふと、ベクターの顔に銃弾による傷ができていることに気付いた。次の瞬間、ベクターの顔が血しぶきを上げてどんどん崩壊していった。俺は思わず手を離す。
ベクターは、糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ちていった――。
「ベクター……」
呆然(ぼうぜん)としながら、倒れ込んだベクターを見つめる。
俺は銃弾が飛んできたと思われる、巨大な軍需物資の倉庫の方に顔を向けた。するといつの間にか、黒いスモークガラスの軍用トラックが停まっているのが見えた。
軍用トラックの助手席から、サイレンサー付きのライフルを構えた、茶色がかった黒髪でショートヘアーの女が身を乗り出している。
「ねぇ、そこのあんた! 助けが必要かしら!?」
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