推しと桜を見る件
――どうして胡桃沢さんがここに。
俺は困惑した。多分それは胡桃沢も同じ思い。お互いに目を丸くして、さながら蛇の睨み合いのように見つめ合う。そうしているうちに、黒板前にいる教授が咳払いした。それを合図に、一限目の講義が開始された。
講義中。隣の席に座る胡桃沢につい意識を向けてしまう。眼球だけ動かしてノートに筆記する彼女の姿をチラ見する。ふと目が合う。すると、お互い露骨に目を逸らしだす。
緩慢に進む時計の針が、正午に近づく。教授の「えー。今日はここまでー」という間延びした声と共に、長い一限目の講義が終了した。未だ、隣の席から感じる気配が重い。気まずい。
教科書やノートを鞄にしまい、のそりと立ち上がる俺。気まずさを誤魔化すような愛想笑いを浮かべて「えーと」と切り出す。
「じゃあ講義も終わったし。俺はこれで……」
「――ちょっと待って。真守くん」
肩を力強く掴むような凛然とした声色で、退室する足を止められた。俺は振り返り「な、なに?」と惚けた調子で聞き返した。
胡桃沢は押し詰めるような態度で、
「今日の予定、どうなっていますか?」
「一応、昼過ぎに講義はいれてる、けど……」
「じゃあしばらく時間空いてますね」
「まあ、このあと一度家に帰ろうと思ってたし」
「でしたら散歩しませんか?」
「えっ?」
「今の時期なら、あそこの桜がまだ咲いているかも。行きましょう」
有無を言わせないように散歩を提案してきた。俺の返事を聞く前に、踵を返して退室する胡桃沢。いやまあ、実際暇だし別にいいんだけど……。自由気ままに吹き荒れる暴風じみた押しの強さを見て、やっぱり胡桃沢なんだな、と確信した。
しかたない。胡桃沢の背中についていく。
建物から出ると、胡桃沢は北側を歩き出した。広大なキャンパスだ。どこを目指して歩いているのかわからない。
隣り合い散歩する。
「……」
「……」
やっぱり気まずい。昨日の別れ方のせいだ。
気まずい空気を払いたくてアイスブレイクとして、俺は適当に話題を振る。
「吃驚したよ。胡桃沢さん。大学生とは聞いてたけど、まさか、同じ大学だったなんて」
「わたしもです。その、気が抜けた姿をお見せして……お恥ずかしい……」
「眼鏡姿かわいいと思うよ。文系女子って感じ」
「あ、ありがとうございます」
「そういえば、胡桃沢さんは何年生?」
「二年生です」
「そうなんだ。ちなみに俺も同じ。二年生」
「偶然ですね。なんとなく、年上かと想像してました」
「俺も年下だと思ってたよ。胡桃沢さんのこと」
「今更ですけど、呼び捨てでいいですよ? 同年代なんだし」
「そう? じゃあ、今度から『胡桃沢』って呼ぶ」
「わたしはこのまま『真守くん』で……」
無難なトークをその後も続けた。同じ大学そして同年代という事が判明したのでゼミやサークルや所属学科のこと等、大学生の定番話題からいろいろと切り込んだ。
胡桃沢はどうやらサークルは未所属らしい。Vtuber活動を優先した結果との事。
そして学科は――。
「看護学科なんです。わたし」
「へー。じゃあ、将来の夢は看護師さん?」
「……」
「あれ? 違うの」
「……いや。そうですよ。一応」
なぜか一瞬押し黙り、目を逸らした胡桃沢。意味深なその仕草は気になる。でもまあ、人には色々事情があるもんな。下手に追及せず「ふーん」と返した。
さて。アイスブレイクは充分だ。
「ごほん」
切り替えるように、わざとらしく咳払いした。それに釣られて胡桃沢は首を傾げた。
「あの、胡桃沢。昨日のことなんだけど――」
「――そういえば真守くん、昨日送ったメッセージ見ました?」
「えっ。メッセージ?」
切り出す前に、被せるように言われた。まあいい。
「いや。昨日は帰宅後、疲れて寝落ちしてたから……。ああそういえば、今日はまだスマホ開いてないな」
「現代人らしくもっとスマホに依存してください。真守くん」
なぜか呆れられたように溜息を吐かれた。不服である。
胡桃沢に「スマホ確認してください」と言われた。命令に従い、俺は懐からスマホを取り出した。そして通知確認する。昨夜から一度も開いていないせいか通知がそこそこ溜まっていた。その中からメッセージアプリの通知を探し出す。……あった。胡桃沢から送られたメッセージを黙読する。
『次の休日、暇ですか? 今日買ったマイクの使い方、教えてください』
黙読し終わった頃を察して、胡桃沢は口を開いた。
「昨日早速、配信で買ったマイクを実践投入したんです。でも、接続の仕方が悪いのか、うまく音を出せなくて……。音は出るんだけど、なぜかノイズ塗れ。昨日は結局、配信の途中から元のマイクに代えました。使い物にならなかったので」
詳細に事情を説明してくれた。
俺は「むぅ」と眉間に皺を寄せた。
「それはおかしいね。パソコン側の設定の問題かな」
「たぶん」
「まあ確かに、俺ならすぐ解決できると思うけど……」
一応俺の家にも、昨日彼女が買ったような音響機材一式は揃っている。と言っても、ゲームのボイチャ用として購入した安物。音質向上を目指した繊細なコンデンサーマイクではなく、雑に使うことを想定した耐久性の高いダイナミックマイク。だけど接続方式は同じものだ。基本的な使い方くらい、俺でも教えられる。
あのマイクを勧めたのは俺だ。時間を割いて使い方を指導することは、べつに構わない。しかし、本当に俺でいいのか? とは思う。
「次の休日、暇だよ。なんなら明日でもいい。夕方頃は時間空いてるから」
「やった。なら明日に……」
「でも……胡桃沢はいいの?」
「なにがですか?」
「振ってくれた相手の顔とか、ぶっちゃけ、あんま見たくないでしょ」
ずっと気になっていた事を聞く。即ち「気まずさとか感じないの」って事。
散歩を誘った事もそうだ。ばったり出会ったことは偶然にしても、俺が胡桃沢の立場なら合議終了と同時に挨拶そこそこに退室している。だが彼女はむしろ、俺の手を引いてきた。振られた女の行動として、やはり違和感がある。
胡桃沢は眉尻をすこし動かした。そして言う。
「……正直気まずさはありますよ? だって二度も振られたわけですし」
胡桃沢は「でも」と続ける。
「わたし、あの後に色々考えてみたんです。どうして振られたのか」
「……それは」
「自信はあったんです。わたしにも、貴方の好きな『ルナの魅力』があることを、デートを通じて伝えられたって。前回は唐突に告白しちゃったから困惑されて断られただけで、あとワンクッション段階を踏めば、きっと今度はうまくいく。そう思いましたが……。結果はうまくいかなかった。わたしは、ルナを越えられなかった」
「……」
「その理由はきっと――前に貴方が言った通り、結局のところ、わたし達がまた『他人の関係』だから」
他人の関係。
以前、俺に他人扱いされて胡桃沢は不機嫌に頬を膨らませていた。そして昨日俺は、あれは薄情な発言だったと頭を下げた。なのに胡桃沢の口から、その発言が出てきた。
胡桃沢は悔しさを噛み締めるように下唇を噛み、そして口を開く。
「ええ。認めます。反省します。わたしは一方的に、貴方に友情めいたものを感じてしまい、距離感を履き違えて厚顔無恥に貴方を振り回しました。デビュー配信からほぼ毎日配信に来てコメントを打ってくれたから、貴方のこと、てっきり男友達みたいなものだと感じていたけど……お恥ずかしい勘違いでしたね、それは」
「お、男友達だと思っていたの? 俺のこと」
「はい」
「それはまあ、なんというか……」
――俺らリスナーみたいな感性だ、とは言わなかった。
コメント読みを通じた触れ合いを繰り返すと、俺らリスナーは画面の中にいる顔の知らないその人に、隣人のような親近感を抱いてしまう。多分それは『単純接触効果』の影響だ。Vtuberに限らず、芸人やアイドル。液晶の中にいる存在に、他人という冷たい言葉では表し切れない温かい愛情を感じる事は、人間誰しも一度は経験していると思う。彼女の話を聞く限り、そういうリスナー心理に近いと感じた。
「……案外Vtuberさん側も、リスナーのこと意識してくれてるんだね。てっきり俺、路傍の石ころ扱いだと思ってた」
「そんなこと、ぜんぜんありませんよ。所詮Vtuberも、血の通う人間ですから」
「まあそうかも、だけど」
「クロバナ様みたいな毎回コメ欄にいる人は絶対記憶に残りますよ。――あと、好感度が上がります」
「こ、好感度?」
「ギャルゲーのヒロインみたいなものですから。わたしたちVtuberは」
「急に凄いことを言いだしたな……」
「Vtuberは好感度が上がると、コメ欄にいる『貴方』を積極的に探しだします。攻略あと一歩になると、『貴方』のSNSの過去の呟きを遡り、人柄や趣味、いいねのイラストから見て取れる性癖、その他個人情報などを完全掌握したがります」
「う、うそだぁ」
「冗談じゃありません。お気に入りのリスナーの監視が趣味な人、わたし含めて、けっこう多いですよ」
「そ、そうなんだ……」
胡桃沢は純真な笑顔で断言した。
Vtuberこわぁ。全員ストーカー気質じゃん。でもVtuberである胡桃沢がそう言うんだし、意外とそういうものなのか? リスナーには理解できない話だ。
若干脱線したため、仕切り直すように胡桃沢は咳払いした。
「だから、真守くん」
短く息を吐き、胡桃沢は言う。
「恋人はムリでも、せめて、その手前から始めることはできませんか?」
「その手前」
「友達になりませんか? わたしたち」
直接的にそう言われて、返答に詰まった。
一瞬見せた動揺を、胡桃沢は見逃さない。
「ダメですか?」
「いや。そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ決定です」
「え、ええ?」
「わたしたち、ともだち。いえい」
胡桃沢はあたかも勝利宣言のようにダブルピースした。
ま、また強引な。
「まあ、いいけどさ……」
突風に足を取られた気分で、俺は溜息を吐いた。不思議と以前より、推しの中の人と仲良くなることの抵抗感は少ない。推しの中の人と友達になる。本来それも、己の信念に泥を塗るような事なんだけど……。感覚が麻痺してきたのか、忌避感が薄れてきた。
昨日のデートを通じて、胡桃沢心音というリアルの女の子が魅力的だと思い知ったことが原因か。あるいはこれも、単純接触効果の影響か。
一瞬、口角がだらしなく緩んだ。ハッとそれを自覚して、奥歯を噛み締めた。
「かかっ、勘違いしないでよね! 同じ大学の同学年だから、しかたなく『学友』として接するだけで……。 ほら今後、構内で偶然ばったり会って、気まずい感じになりたくないじゃん? まあ俺としては、推し事のノイズたる胡桃沢を一瞬でも知覚したくないわけだけど、でも、構内で会うたびにガン無視はさすがに失礼だと思うし……。うんうん。数年後に社会にでる大学生なんだし、社交的な態度を努めたいよね? お互い。だからまあ、個人的には誠に遺憾たる想いだけど……いいんじゃない? その、友達ってやつ? になっても」
「急に早口でどうしましたか」
「べべ、べつにぃ? ふんだ」
「あと腰ぷりぷり動かすのキモイです。真守くん」
長々と言い訳を述べる俺に、胡桃沢は「ほんとに面倒臭い人だなー」と。呆れたようなジト目を向けた。同時に、まるで俺の内心を見透かしたみたいに笑われた。なんか悔しい。
とにかく。
これで、一先ず昨日の遺恨は消えた。気まずい空気も晴れた。喉の奥に累積していた重い感情を、ふー、と吐き出した。
ふと胡桃沢は足を止めた。
「――あっ、真守くん。見てください」
「んっ?」
「桜。まだ綺麗ですね」
胡桃沢が指差した方向を見た。
医学部前に植樹された桜並木。
小道を覆う八重桜が、はらはらと花弁を落としながら咲いていた。
「ほんとだ。綺麗だね」
「桜の木自体は散見できますけど、トンネルみたいにくぐれる桜並木は、ここだけなんですよね。構内だと」
「そうなんだ」
俺はあまり花見に関心が無い。桜を見て普通に綺麗だなと思う感性はあるけど、そこまで感動しない。花より団子なタイプ。
地に落ちる花弁を見て、胡桃沢は残念そうに、
「……でも、もう散り始めですね」
と呟いた。
今は五月だ。北海道は桜の時期が遅く、毎年4月下旬頃辺りから開花がはじまる。桜の満開期間は数日程度。盛りを過ぎたら、瞬く間に花弁を落とす。
桜並木の辺りには、花弁の絨毯が敷かれていた。そして、俺達はそれを踏む。
「ここの桜、見たかったの?」
「はい。ここ最近、大学ある日はいつも立ち寄ってました。医学部棟に用がない時も」
「へー。好きなんだ、桜」
胡桃沢はこくりと頷いた。
「桜は、印象的ですから。――まるで、夜空を一瞬駆ける彗星みたいに」
「彗星……変わった比喩だね」
「天体観測も、好きなので。わたし」
儚く微笑みそう言い、胡桃沢はまるで流れ星を見るように、落ちる花弁を目で追いかける。
一瞬だが鮮烈な印象を与える美。それを尊ぶ彼女の後姿。――綺麗だな、と俺は思った。
胡桃沢は、はらはらと落ちる花弁のごとく振り向いた。
「来年、満開の時にまた来たいな」
「大丈夫じゃない? 看護学科なら、このへん、よく通るでしょ」
「そういう意味じゃなくて……」
「……っ?」
「はあ。まあいいや」
なぜか溜息を吐かれた。よくわからない。
暫く二人で、散り始めた桜で花見した。午後の講義までまだ時間あるし、彼女が満足するまで付き合う事にした。軽く雑談をはじめる。
十分後。時計を見て、胡桃沢は「あっ」と呟いた。急にあわあわと慌てだす。どうやら、二限目の講義の前に図書館で調べ物の予定があったことを、俺とばったり会った衝撃で失念していたらしい。「どうしよう。早く図書館行かないと」と焦っていた。
胡桃沢は駆け足で、すぐ傍にある医学部図書館に向かう。その直前に振り返り、
「真守くん。また明日」
「ああ。また明日」
再会を誓うような別れの挨拶を交わした。昨日交わした冷たい別れの言葉とはまた違うニュアンスの、温かみを感じる言葉。込み上がる感情を覚えた。
俺はまだ次の講義まで時間に余裕がある。
予定通り一度帰宅しよう。
暇潰しに、適当な配信でも見てようかな。
「……あっ。昨日見忘れたアーカイブ観ないと」
ふと気づく。
俺とした事が、微忘ルナが頭の中から離れていたことに。
大事な推しの存在を失念していた事を咎めるように頭をぶんぶんと振った。推し活は俺の生き甲斐だというのにそれを失念するなんて……我ながら珍しい。
――今思えば。
多分この時から既に『毒』が回っていたんだと思う。
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