推しをまた拒絶する件


 店を出て数分も経過しないうちに、空は急に夜を纏い出した。朧月は薄く発光する。

 指し示したわけじゃないのに、二人の足は自然に駅に向かった。駅に行き地下に降りて、お互いの家の方向に進む地下鉄に乗る。



「今日はありがとうございました。いろいろ付き合ってもらって」



 別れる直前に、胡桃沢から切り出した。



「なんの。俺もなんだかんだ楽しかったから……」



 今日一日のことを思い出した。――土下座したりエロゲー談義を楽しんだりマイクを買ったり。頭の中で空想していた女子とのデート感はなかったけど、だから変に緊張感を持つこともなく、普通に楽しめた。デート中も感じたけど、それこそ馴染みのある女友達と遊んでいる感覚に近い。

 将棋の感想戦のように、今日は楽しかったね、的な会話でまた盛り上がる。そうしてると時計の針は進んで、地下鉄を何本か逃した。社会人の退社時間なのか、スーツを着た中年男性で構内の人口密度も増えていく。今頃、外に広がる春宵の空はますます暗く朧掛かり、月が優しく白く輝いているんだろうな、と考えを巡らせた。

 月が浮かぶこの時間帯。いつもなら微忘ルナの配信を肴に晩酌を楽しんでいるところだ。……まあ、まだギリで未成年だから、飲むのは炭酸飲料だけど。

 胡桃沢はふと、睨むような上目遣いを向けてきた。



「……まだですか?」

「えっ?」

「告白の返事。……わたし、帰って配信したいんですけど」

「あっ、ああ。そうだね」



 彼女の言いたい事は伝わった。デート直前に交わした約束――改めて告白の返事をほしい、の遂行を待っているのだ。

 わかっている。覚悟を決めて、そろそろ告げないと……。

 切り出す合図のように深呼吸した。その意図に気づいた胡桃沢の表情も、同時に、こわばりだした。心を落ち着かせると、長い睫毛が掛かった潤いを帯びたその瞳を、俺はじっと見据えた。ごくりと生唾を呑み込んだ後に「くく、胡桃沢さん」緊張で吃りつつ、切り出す。



「その。告白の返事、なんだけど……」

「……」

「ごめん。やっぱり」



 短く、変わらぬ想いを告げた。

 表情が動かない胡桃沢。動揺を示すように微かに濡羽色の髪が揺れた。



「……どうして、ですか?」

「好きな子がいるから。バーチャル世界に」

「また、それですか?」



 呆れ返るように胡桃沢は鼻で笑った。「微忘ルナの中身は、わたしだって言うのに……」以前の焼き増しのような会話が再び展開される。



「きみが微忘ルナだって事は認めるよ。この間もべつに疑ってなかったけど……今日きみとデートして確信、いや実感したよ。胡桃沢さんは、やっぱり微忘ルナだって」



 性格や趣味。胡桃沢と今日一日デートして、数多くの微忘ルナとの共通点を見つけた。まあほぼ同一人物なんだし、内面の一致はそりゃあ当然なんだろうけど。しかし百聞は一見に如かずと言う通り、実感を得て理解を深められる事もあるわけで。――つまり俺が思っていた以上に、胡桃沢心音は微忘ルナだった。

 腰を曲げて謝罪する。



「この間、他人扱いしてごめん。よく考えたらあれは確かに、薄情な発言だったかも」

「……それが、今日一日『わたし』に意識を向けた結論だと?」



 姿勢はそのまま、肯首するように頭を少し動かした。

 胡桃沢は得心を拒むように歯を食いしばった。「分かっているなら、どうして……。わたしは、クロバナ様の推しなのに」不満を呟く。目蓋を瞑り深呼吸した胡桃沢は、しばらく唇を固く結んだ。思案中なのか、なにも話さない。

 ふと構内に『間もなく、駅に○○行きが到着します』というアナウンスが鳴り渡った。胡桃沢はそのタイミングで目蓋を開き、唇を解いた。



「……真守くんは、本当におバカですね」



 突然罵倒された。「えっ?」と戸惑う俺。

 胡桃沢はくすくすと意地悪く微笑む。見せつけるようにスマホを掲げた。



「お忘れですか? わたしは、きみの『生き甲斐』を好きに扱える権限を持っています」

「……はっ! そういえば!」



 まだSNSをブロックされたままだった。デートが普通に楽しくて、いつの間にか、当初の目的をすっかり失念していた。

 気づいて間抜け顔を晒した。胡桃沢はそれを見てふたたび意地悪く微笑む。



「そんな相手の、逆鱗に触れるような事を言うなんて……真守くん、本当におバカですね」

「で、でも。今日中には解除してくれるって……」

「『機嫌次第で解除する』とも言いました。メッセージアプリで」

「……くっ! やはり脅す気か!?」

「うーん。どうしようかなー」



 ブロック解除画面を表示させたスマホを中指と親指で抓むように持ち、ほれほれ、と餌のように見せつけられた。無意識にそれに腕を伸ばす俺。画面に触れる直前に、無慈悲に電源ごと消された。希望の青白い液晶の光を断たれてしまい、顔を醜く顰める。「あぁ……ルナちゃ……」と情けない声を漏らす。それ見て胡桃沢は赤く美しい唇を悪魔のように歪ませて、満悦した吐息を溢した。



「ふふっ。冗談です」



 胡桃沢はスマホを操作して、画面をこちらに見せた。

 目を細めて見る。先程まで表示されていた『クロバナさんをブロック中です』の文字はもう無かった。一気に安堵感が込み上がる。肺腑を絞るような深い息を吐き出した。



「脅したりなんかしませんよ。正直きみの言う理由自体は全然納得できないけど……いい加減、わたしが『そういう相手』だと見られていない事は重々理解しました。本当に悔しいし、腹立たしいけど……」

「えっと。ブロック解除、ありがとう。でも別に『そういう相手』だと見てないわけじゃ……」

「ふふっ。いいんです。……自覚してますから、自分に女性的な魅力が欠けている事は」

「はい?」



 急に梅雨時の湿った大気のように、胡桃沢の雰囲気がじっとりと陰鬱になりだした。自虐的にふふっと微笑み、言葉を続ける。



「趣味がエロゲーの女とか、現実的に考えて最悪だと思うし……。あとコミュ障だし。わたし。相手との距離感を間違えて周囲にドン引きされるタイプの……」

「いや。むしろそこは、俺的にかなり加点ポイントなんだけど」

「ふふっ。いいんです。慰めてくれなくても。それこそ、自分が面倒臭い女だってことも自覚してますから。だいじょうぶ。ヒステリーに叫んで人様に迷惑かけません。ちゃんとこの悲しい感情は家まで持ち込んで、誰もいないお風呂場とかで一人で、わんわん泣いて発散するので……」

「心配になること言うのやめてくれる!?」

「冗談です。たぶん」



 卑屈で鬱々した雰囲気からまた切り替わったみたいに、造花の紫陽花のような美しく可憐な笑顔を見せる胡桃沢。よく見ると、まるで雨が止んだ直後の水滴を纏う紫陽花のように、目尻に水分が溜まっていた。涙袋を軽く突けばそれだけで決壊しそう、と思った。

 突如、線路右側から空気を切り裂く音が轟々と鳴りだした。

 彼女が乗る地下鉄が到着したらしい。

 一瞬垣間見えた豹変した雰囲気を見てなんだか心配になり「大丈夫? 家まで送る?」と、念のため提案した。胡桃沢は首を横に振る。「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です」と遠慮された。改めて告白を拒絶した手前あまり強気に出れず「そう。なら、いいけど」と渋々引き下がった。

 ――『間もなく発車します』。

 そのアナウンスを聞いて、胡桃沢は急いで地下鉄に乗り込んだ。扉付近の鉄棒を右手で握り身体を支えた。

 扉が閉じる直前。「真守くん」胡桃沢は首だけくるりと回して、ホーム側に立つ俺のほうを向いた。そうして小雨のような細い声で、ぽつり、と一言呟く。



「……じゃあね」

「ああ。さよなら……」



 不思議とお互いに「また今度」とは言わなかった。なんとなく、だけど。もう胡桃沢心音とは合わない予感があった。

 扉が閉まる。地下鉄に運ばれて、彼女の姿が消える。

 最後に一瞬。彼女の涙袋からぽろり溢れた涙の粒が、電灯に反射してか、夜空に線を描く星屑の如くきらきらと白く輝いた。置き土産のようなそれを視界に収めてしまい……心がきゅっと、締め付けられるように痛んだ。

 ホームに残されて一人佇む俺は、罪悪感を吐き出すように溜息をついた。

 ――あっ。そういえば。

 念の為ブロック解除されたか、自分のスマホでも確認しよう。スマホを取り出して微忘ルナのアカウントを確認した。うん。大丈夫。表示される。新規ツイートが来てたから何気なくフリックした。すると――。



『1時間後に配信します。今日もフェアリースカイ!』



 という、微忘ルナのツイートが表示された。



「Vtuberの鑑だなぁ。ほんとに」



 切り替えが早い。敬服すら抱くプロ意識に一周回ってドン引きする。ははっと苦笑いを浮かべた。でも、それでこそ、俺の大好きなルナちゃんだ。

 白い月光が透き通る繊細な硝子の如く、綺麗で、その実とんでもなく強かな、俺の推し――。

 対して俺は、切り替えが上手じゃなかった。

 普段の俺なら配信予告を確認したら、早く帰らなきゃ、と思い駆け足になるのに、今日の俺はそう思えない。

 帰路につく両足が、鉛のように重かった。

 

 

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