第2話 開かず姫とすなおうじ
全員席移動が済み、引っ越し先の隣人とあいさつをはじめる。九月一日、二学期の始業式の後、昼休みまで時間があったことと、一軍勢のリクエストにより急遽始まった二学期突入チキチキ席替えイベントは、俺にとってほぼ満点の結果で幕を閉じた。
じりじりとまだ夏の太陽が照りつける、十一時二十五分。昼休みまで二十分。昼休み後は通常授業。
芽依ちゃんは、いつも昼休みはB組の図書委員仲間と過ごしている。となると、この二十分をムダにはできない。
ちらりと様子を窺う。空いた時間には本を開くのが、読書家の彼女のルーチン。
烏の濡れ羽色の髪は肩の上で二つに結ばれ、肌はみずみずしく健康的。黒縁のメガネをかけているが、ダサいどころか適度な異質感を生み出し、整った容貌の美しさを引き出している。その奥の瞳はパッチリしていて、優しい中にも意志の強さを感じさせるよう。スラリとした脚を包むハイソックス、そして制服越しにも分かるその大きな胸は……あーよくない! そういうのはよくないなぁキミ!
信じろ! 夏休み前の二カ月、コツコツ会話を積み上げてきたじゃないか! 夏休み中は親父の都合にさんざん振り回されて何もできなかったけど……まだ二学期は始まったばかりだ。
そうだ! 俺は休み中アレを読んだじゃないか。
「あ、あのさ、土屋さん」
心の中では芽依ちゃんと呼ぶけれど、現実ではまだ名前呼びできる距離感じゃない。密かに名前呼びするのもキモいかもだけどさ……心の中ぐらいは許してよ。
「ん? 何ですか?」
カエルのイラストカバーに包まれた文庫本から目を離し、俺の方を向く。ブックカバーかわいっ。
「夏休み中に、俺も以前土屋さんが読んでた本を読んだよ! 氷上英廣さん訳の、ニーチェのつぁらす、『ツァラトゥストラはこう言った』!」
噛んじゃった……。
「お、読んだんですか。どうでした?」
「あっ! えー」
眼鏡の奥の瞳が次の言葉を待っている。
しまった、見切り発車した! 読んだは読んだが、どうにもこうにも、何とも言えない。哲学書は初めてで、詩のような小説のような体裁を取っていて、含蓄ある言葉は多かったと思うけど、理解できるようで理解できない文章ばっかりというか。
それを素直に言ったら、わかってねえなコイツとか思われないかな……。かといって、変に「奥深いよねー」とか繕ったって無意味だろうしな……。
「――うーん、正直、よくわからなかったよ……」
素直に言った。どうせウソついたって話を広げられないし。
ああ、なぜ俺はこんな自分の首を絞める話題を選んでしまったのだろう。俺の浅はか。
すると、芽依ちゃんはその円らな瞳を細めた。
「あはは。一緒ですね」
苦笑いかわいっ! ていうかよかったセーフ! ニーチェと氷上先生ありがとう! いや、どんな感謝のされ方だよ、失礼だろ。
「よくわかんなかったけど、でもす」
「――わかる! このゾーン無敵だよね!」
好きなところもあるよ――と言う途中で、俺の声は、前方から迫ってきた声に掻き消された。
うるせえなぁ!
急に騒がしくなった声に、芽依ちゃんとともに視線をやる。
「姫とプリンスが隣同士になるとはなぁ~!」
一番の席にわらわらと男女が集まっていた。クラスの中心、キラキラした一軍勢だ。俺たちの前の席はちょうど二人とも空いていて、その様子がよく見える。まったく、人が話してんのに。少しボリューム下げるくらいしてくれよ。
「氷室さん、夏休み終わっても相変わらずの人気ですね」
視線を戻すと、芽依ちゃんから話かけてきてくれた。ワォ! 一軍勢サンキュー!
「ホントにねぇ」
感心を込めて頷く。
氷室あかね――誰もが認める、学校一の美少女。クラスも学年も越えて無双する彼女は、よもや学校一を超え、東京一の美少女ではないかとの声まで出ている。もちろん言葉に違わぬ美貌があるが、ポイントは品行方正・成績優秀・スポーツ万能……とまではいかないところ。
品行方正は言うことなし。授業も行事も一生懸命。何よりすごいのは、一軍勢だけに留まらず、立場も属性も超えて分け隔てなく接してくる優しさがあるところだ。誰であっても笑顔で対応し、人前で嫌な顔は一つとしてしない。その笑顔に、みな絆されてしまうのだ。
一方で、成績は上の下くらい、スポーツに至っては壊滅的。バスケのフリースローでボールがまさかの背後に飛んでいった事件は、少なからぬ衝撃を与えた。
だが人間、やはり完璧すぎる存在は鼻につく。適度に欠点がある方が愛されるのだろう。笑顔を絶やさない彼女の周りには、いつも人が集まっている。
だからとて、ガードが緩いワケではない。
「氷室さん、今日部活ないからよかったら一緒に……」
一軍の一人、森くんの提案を
「ごめんなさい、先約があるので」
キッパリと断った。側近の橋本さんと「ねー」と言い合っている。
隙があるように見えて一線は越えさせない、このガードの堅さ。正確な数はわかるはずないが、すでに三桁の人に告白され、すべて振っているらしい。
お近づきにはなれても、大事なところは透明な氷の扉で守られていて踏み込めない。そんな氷の国のお姫様になぞらえて付いたあだ名が、『開かず姫』。今は単に姫と呼ばれている。
「――姫は夏休み何してた?」
何気ない質問に、彼女は一人静かに目を閉じた。
お姫様は、頭の中も庶民とはひと味違う。
「初恋の人を……思い出してました」
意味深な口ぶり。一軍勢は男女問わず顔つきが変わる。波紋はクラス全体に及び、ざわめきが消え静けさが訪れる。
「ひ、姫の初恋の人って、どんな人?」
そりゃ気になるよな、学校一の美少女の初恋相手。
またも意味深に、微笑みを浮かべた後。
「鬼太郎! 久しぶりに見返してたの」
「「「えええまさかの二次元!?」」」
しかも鬼太郎は、作中でも人間じゃなくて幽霊族だからね。
自明の理だが、こういう天然っぷりも人気に拍車をかけている。
「……」
呆気に取られた顔の一軍勢を面白く見ていると、目が合った。軽快な動きで一軍勢の輪を抜けると、俺と芽依ちゃんの前までやって来た。
「夏休み明けだし、今日はクラスのみんなと一度は会話しようと思ってて。まだ二人とは話してなかったよね」
よくやるわ。
「氷室さん、色白なのに全然日焼けしてないですね。というか、夏休み前と一切変わらない姿をキープしているのがすごい」
感心する芽依ちゃんに、いつものお姫様スマイルで。
「勉強も運動も得意ではありませんから、せめて外面は常にベストでいたいんです。私なりの信条みたいなものです」
掛け値なしの言葉。イヤミに聞こえそうだが、爽やかでまったくそうは聞こえない。きっと、心の底から思っているからだ。
しばらく芽依ちゃんと他愛のない会話を交わすと、俺の方を向いた。
「……あら、砂岡くん、頭に糸くずがついてる」
自分で取る間もなく、俺の頭頂部に伸びる手。
トントン、と二回指先が頭皮に食い込んだ。
……なるほど。
「取れた。捨てるついでに、ちょっとお花摘みに行ってくるわね」
そう言って、そそくさと教室を出て行くお姫様。
「陰キャにまで優しいよなぁ、我らが姫は」
「ていうか、【すなおうじ】が子どもっぽいんでしょ」
おーい、聞こえてるぞ橋本さん。
でも、よし、姫がいなくなって静かになったし、これで芽依ちゃんとまた話せる!
――と思ったのも束の間、背後に人の気配。
「芽依ちゃーん、元気してた? 夏休みもおっぱい大きかった?」
茶色に染めたツインテールの髪が揺れ、声の主は芽依ちゃんの胸を手を伸ばす。
こらっ! うらやま、同性でもよくないぞそういうのは!
「マジョちゃん。このあいさつは何式ですか、まったく」
芽依ちゃんは特に嫌がる様子もなく、大型犬とじゃれ合うがごとく呆れ顔でいなしていた。
マジョこと、
「一軍勢の前って、ちょっとウザいよねー……って、隣は」
俺を見るマジョ。
「ヤバッ、すなおうじじゃーん」
と、一言。藪から棒にヤバッてなんだよ。これだからギャルは。
……ちょっと待って、それ俺にヤバい何かがあるってこと? もしかして自分から見て大丈夫でも、女子にはアウトなヤバい何かがあるってこと? 芽依ちゃんにとってもヤバい何かがあるってことじゃないよね?
「え、ヤバいって、ど、どういうカンジの意味?」
震え声になっちゃったよ。
「素直か! 別に意味なんてないわ。私、芽依ちゃんのすぐ後ろ、すなおうじの斜め後ろだから、近いなって思っただけで」
ないんかい! もう、軽々しくヤバいって言わんといて!
「……話し中、ちょっといい?」
今度は前から。芽依ちゃんの前の席、園田さんだ。傍らには俺の前の席の宮内くん。二人とも姿が見えなかったが、昼休み直前で戻ってきたのだろう。
「今全員いるし、これ、お近づきの印に」
窓際の列は四席で俺が最後だから、園田さんより後ろは今全員揃っている。そんな俺たちの前に出されたのは、タッパーに入ったクッキー。
「うっかり作り過ぎちゃって。もしよかったら、食べて食べて」
きつね色のクッキーは、きれいに円く焼けている。見るからにおいしそうだ。
「サンキュー!」
「いただきますね」
芽依ちゃんとマジョが手を伸ばす。
「宮内くん、先どうぞ」
「あ、ああ、俺はもう食べたから」
俺の問いに、なぜかぎこちなく手を振って応える。なら、俺も遠慮なく。
と、その前に。そうだ、豆知識共有しとこう。
「園田さん、俺も親父とクッキー作り過ぎちゃった時があってさ、それで知ったんだけどね。クッキーは乾燥剤代わりに紅茶のティーバッグと一緒に保存しとくといいんだって!」
……なぜか苦笑いする園田さん。ん、アレ、なんだ?
「だから素直か! 砂岡塔司!」
クッキーを摘まむと同時に、マジョに頭を軽くはたかれた。
「気にしないで、そのっち」
園田さんにフォローを入れるマジョ。
……え? 何? なんで? 俺何か言った?
「砂岡くん」
芽依ちゃんの手招き。緊張を抑えながら応じると、耳打ちしてくれた。
「園田さんと宮内くん、夏休み中に付き合いはじめたんですって。照れ隠しのお裾分けよ」
え、そうなの!? と出そうになって、あわてて止める。
お近づきの印ってのは建前で、本来は宮内くんに食べてもらうためのものだったのかぁ。食べきれないし、せっかくだから配りにきたと。そこに気付かなかった俺がバカ正直に気を回した結果、照れさせちゃったのか。確かに、スマートじゃないね、これは。宮内くんもなんか硬いなと思ったんだよ。
「まったく、すなおうじだよね」
園田さんと宮内くんが揃ってお昼に出掛けた後、マジョは肩をすくめた。
「だってホントに知らなかったんだもん」
「それにしたって、なんとなく空気で察するもんじゃん? すなおうじ」
「へーい」
はいはい、すなおうじですよ。
俺の名前、砂岡塔司(すなおかとうじ)を略して、すなおうじ。
もちろん、ただ略しただけじゃない。人の言葉を額面どおり【素直】に受け取って、普通とはズレた対応をしてしまう様子を、庶民とは違うとの意味を込めて【王子】と形容。その結果、素直な王子――すなおうじ、となったワケだ。
はい、わかってますよ、いじりですよ。常識で考えて、あだ名に王子なんて入れられたらネタにしかならないからね。
もし本当に王子様を思わせる人なら、すでに見本がある。姫の隣の席を勝ち取った、一軍勢の筆頭。軽音楽部の花形でスポーツ万能、体育祭のソフトボール部門優勝の立役者、北大路奏くん。ファンクラブまで存在する彼もまた学年を越えて『プリンス』と呼ばれている。
俺はすなおうじで十分さ。一軍勢にはなれないし、第一、一軍勢になれたところで芽依ちゃんと両思いにはなれなさそうだしな。
「うん! おいしい」
みんなと遅れてクッキーの甘みを楽しんでいると、不意にスマホが震えた。カバーを開いて画面を見る。アプリではない、SMS特有の四角い吹き出しが出ていた。
「…………」
メッセージの内容を確認。やっぱり……そんなことだろうと思った。
返信して、時計表示が視界に映る。アッ! 昼休みまであと五分しかないじゃん! 結局芽依ちゃんと大して話せてない!
いつの間にかマジョもいなくなって、読書モードに移行している芽依ちゃん。俺がスマホに目を落としたばっかりに、会話タイムはもう済んだと思っちゃったんだよ!
アプリ『BUYBUY』を起動させ、先に頼まれた用事をササッと済ます。
五分、五分で何を話す? せめて何か爪痕を残せるものを――。
芽依ちゃんは時々、本を読んでいる途中に眼鏡を外し、今みたいに裸眼になる。文章のリズムにノッてくるとその癖が出るとのことで、近視だから近くを見る分には問題ないと言っていた。
うーむ、裸眼の芽依ちゃんもイイ。キリッとしている。
「……土屋さんって、眼鏡を外した時も素敵だよね」
気付けば口に出していた。芽依ちゃんはゆっくり俺の方を向いた。
「…………はぁ」
「………………」
しまったー! だから見切り発車はダメなんだって! 学習しろよ! 思ったことストレートに言い過ぎ、薄めろ薄めろ、めんつゆと同じよ! 芽依ちゃん超ビミョーな顔になってんじゃん!
「……眼鏡がない方がいいってことですか?」
「い、いや違うんだよ! 普段眼鏡かけてるからこそ、たまに外す時に印象が変わってドキってするんだ! 一粒で二度おいしいみたいなことだよ! 眼鏡は絶対かけるべきだよ!」
「ハァ…………」
あああああ! なんで俺はこんなフェチを告白してるんだ!?
キンコンカン、と昼休みを告げるチャイムが耳に入った。芽依ちゃんは文庫本を鞄にしまいつつお弁当を出す。
「あのー、あ、ありがとう? ございます……」
首を傾げながらの言葉を最後にそそくさと立ち上がり、心なしか早歩きで教室を出て行った。
「………………」
どぼしでだよぉ! なぜこんなことに……。
机の上に放置していたスマホの画面に、SMSメッセージが届く。
『蟻 蟻 蟻 蟻 蟻』
文字の後、段落を変えて蟻の絵文字がまた五個並んでいた。
「砂岡、飯行こうぜ。サトー行っちまったよ」
右京の声だ。スマホカバーを閉じつつ――
「蟻が十匹でありがとう、ってやかましいわ!」
「え、何が???」
右京のキョトンとした目、豆のごとし。
★次回『すなおうじの放課後』につづく。
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初日は第4話までアップします。
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