月の見えない熱帯夜、ベランダであなたの声を聞いた

よなが

本編

「なんで殺しちゃうかなぁ」

 

 熱帯夜にかけてきた電話で、あなたは開口一番にそう言った。片手には収まらずとも、抱きしめて眠るには小さいその機械が遠く離れた二人の声を繋げてくれた途端の第一声。私は「もしもし」とさえ言っていなくて、あなたの名前だって口にしていなかった。


「いきなり人を殺人鬼のように言わないで」

「ちがう、ちがう。里香りかのことじゃないって。というかね、現実ではなくてフィクションの話」


 あなたは半笑いの声で、そう返してくる。呂律は回っているから、酔っていないはずだ。酔うと、あなたはすぐに眠ってしまう。誕生月が同じの私たちがお酒を飲める年齢になってまだ半年も経っていないけれど、あなたのアルコール耐性の低さは検証済みだ。


「日付が変わりそうって時間帯、しかもこの暑い中に電話をよこしてきてまで、する話なの?」

「うん? エアコンつけていないの?」

「ベランダにいるのよ。さほど気持ちよくない夜風に当たっている」

「なんでまた……」

「で? 話したいことを話して。それでお互い、気持ちよく眠りましょう」


 あなたはこちらの提案に「それがいい」と笑う。音声通話でも、その笑顔はありありと頭に浮かぶ。

 高校一年生の頃に初めて出会ったときのあなたも笑顔だった。八重歯を気にして口を大きく開かないようにしている私からすると、あなたの綺麗な歯並びは羨ましく、仲良くなるまでは妬ましくもあった。


「ついさっきまでね、海外ドラマを観ていたんだ。舞台が南の島の刑事ドラマでシーズン10まで配信されているの」

「へぇ。みんな、加害者も被害者もアロハシャツを着ているわけ?」

「エキストラ含めて、それっぽい人は多いよ。こんがりと日に焼けていてさ。でもね、島の外からやってきた主人公の刑事は寝る時以外はスーツ姿なの」

「暑くない?」

「うん、めっちゃ暑そうにしている。ハンカチで汗を拭いたり、水を飲んだりするシーンが毎回あるぐらい」

「ふうん。それで、犯人の動機に納得がいかなかったの? わざわざ電話で不満をぶつけてくるってことは」


 思い返してみると、高校時代に二人で映画館まで何度か足を運んだけれど、観終わった後でああだこうだと感想を言うのは決まってあなたばかりだった。私はそれに耳を傾け、時には別のことを考えていた。

 高二のときに観に行ったアニメ映画でボロ泣きしていたあなたには正直引いた私だった。でも、落ち着いた後で気恥ずかしそうにしていたあなたが可愛かったのも事実。


「あー、そうじゃなくて。わりと動機の部分はしっかり描かれるドラマなんだよね。でもさ、被害者が主人公の刑事だったんだ。シーズン3の第一話冒頭でザクっと殺されちゃったの」

「それって甦ったりは……」

「ないない。そういうオカルティズムのあるドラマじゃないから」


 溜息まじりであなたは言う。

 落胆と苛立ちが混在した声色は、これまでにもよく聞いたものだ。たとえば、私が第一志望の大学を変更したのを告げた時、あなたは「なんで」と低い声に複雑な気持ちを込めて口にした。叫ぶのを我慢していたんだろうと思う。

 結局、浪人して一年間を気軽に行き来できない別々の街で暮らすより、隣県同士のほうがまだいいと結論を出したのもあなた。あの時は言えなかったけれど、遠距離恋愛なんて四年はおろか一年だって続かないかもしれないと私は思っていた。


「長期シーズンにわたる刑事ドラマだとさ、交代自体はごく普通にあるだって。でもさ、殺さなくてもいいじゃんって。異動でいいじゃん、なんで二度と登場させられなくするかなぁ。部下の一人といい感じにもなっていたのにだよ」

「そのあとの話も観たの?」

「保留中。新しく主人公に据えられた刑事、当たり前だけれど前の人とタイプが違って。どうしようかなって思っているところ」

「そう。シーズン10まであるのだったら、部下を含めてメインメンバー総入れ替えしていそうね」

「鋭いね。実際に番組ページをチェックしてみたら、メインメンバーはほんとに全員入れ替わっていた。なんだか狐につままれた感じ」

「つつまれたじゃなくて?」

「……そういうことばっか、よく覚えているんだから」


 狐に包まれる。

 高一の冬、私たちがただの友達であった頃、あなたがした言い間違いだ。今とは違って黒髪ショートヘアで女子剣道部に所属していたあなたは、男子剣道部の先輩から告白されたと私に言ってきた。「狐につつまれたみたいな顔して、逃げてきちゃったよ」とあなたは言い、私は笑って言葉を正したのを覚えている。

 先輩からの告白を最初に明かした相手が私だったのはまったくの偶然で、その時の私が「その先輩の竹刀で突かれるのを想像してみて、濡れるなら付き合えばいいんじゃない?」と口走ったのも気の迷いからだった。

 あなたはぽかんとした。ああ、これが狐につままれるっていうやつなのかと私は感心した。当時の私からすると意外なことに、あなたはうぶで私の下ネタに顔を真っ赤にしたっけ。恥じらいと憤りがその色をなし、すました様子で謝る私にあなたはやがて呆れた。

 

 まさかそれから数か月後にあなたから愛の告白を受けることになるとは思いもしなかった。


「ところで、今週末って空いている?」


 私があなたとの思い出に足のつま先を浸していると、あなたが上擦った声で訊いてきた。もしかしなくても、海外ドラマへの不服は前置きで、本題はこちらなんだと私は察した。


「空いているよ。そっちいこうか?」

「ううん、あたしがそっち行く。前は来てもらったから」


 片道一時間余り、千円足らず。多い時は週二で、わたしとあなたは会うことにしている。中間に位置する駅前で会ったこともあるけれど、互いの部屋が一番落ち着く。それぞれの香りが留まる空間。あなたはよく何か小物を置いて去る。私は見ないふり、気づかないふり。でも指摘したところで、きっとあなたは持ち帰りはしないのだろう。


「えっとさ、そっちの夏休みって来週からだよね?」

「もう、電話する度に確認してくるよね」


 言い換えればここのところほぼ毎日、訊かれていることだった。まるで小学生みたいに夏休みを待ち遠しくしているあなた。でも海や山に行くのをワクワクしているのではなく、私と会って、そしてできる限り長く、熱い時間を過ごすのを望んでいるのだ。

 あなたは借りている部屋の広さをよく悔やむ。もっと広ければ、長期休暇の間にずっと二人でいられるのにって。それでも去年の夏は二人で何度も同じ夜を明かした。


 思い出すと、私も火照りを感じずにはいられない。そして最近ではそこに罪悪感も加わって、私の身は焦がされている。じりじりと。


「月、出ている?」


 不意にあなたの声の響きが変わる。少し広い空間に、ひょっとして私と同じくベランダに出たのかもしれないなと思った。


「ううん、見えない」

「こっちも」

「外、暑いでしょ?」

「うん……あたしのうちのベランダ、狭いし、虫も多いからもういいかな」


 果たして彼女はベランダに出ていたようだった。


「あっ。ねぇ、星は? 星は見える?」

  

 あなたが興奮した調子で訊ねてくる。

 私は月のない夜空に磔になっている無数の星々をあなたに伝える。けれど、うまく伝わらない。あなたも私も星空に疎い。真昼に星のことを考えたことなんて一度もないんじゃないかなって思う。


「あのさ、島とかいいよね」


 星をなぞっていくのを諦めたあなたが漠然とした肯定をする。


「つまり?」

「どこかの島に二人で行けたらなって。他に誰もないビーチで真っ裸で、朝から夕方まで遊ぶ。それで、沈む夕日を二人で眺めて……キスし合う。そういうのってよくない?」

「熱帯夜が人をロマンチストにするだなんて初めて知ったわ」

「ええ? 賛成してくれないの?」


 私は曖昧な吐息であなたの問いを躱す。あなたが私を真剣に想えば想うほどに、私は自分の許されざる行いを、すなわち過ちを心に突きつけられる。


 胸の締め付けから逃れようと、欠伸をひとつ。あなたに聞こえるように。


「眠いの?」

「そうよ。もう日付が変わったわ。今日は一時限から講義があるのよ」

「そっか、ごめんね」

「そろそろ涼しい部屋で眠ることにするわ。おやすみなさい」

「うん、おやすみ。えっと…………愛しているよ、里香」


 ドラマのワンシーンみたいに。あなたはいつもどおり、照れた声で。私はそれに「ありがとう、私もよ」とさらりと言うと通話を終えた。


 じっとりと汗を掻いていた。

 

 私がベランダからゆっくりと音を立てずに室内に入ると、その暗い部屋で彼女がベッドの上に座っていた。壁を背もたれにしている。手元にはスマホ。そのディスプレイの光が彼女の顔を照らし出している。あなたから着信があった時には、確かに眠っていた彼女だ。


「起こしてしまったんですね」


 私が平静を装って、立ち尽くしたまま彼女にそう言うと彼女は「まあね」と私を見ずに口にした。


「早く閉めなさいよ」

「え、あ、はい」


 私はベランダにつながる窓を閉め、鍵をかける。


真希まきから?」

「……はい」


 そこで初めて彼女はスマホから顔を上げ、空いている手を「ん」と私に差し出す。私は抵抗すべきじゃないと悟って、数歩進んで自分のスマホを彼女に渡した。


「履歴は確かにあの子の番号ね」

「疑っているんですか?」

「いちおうは。あんた、モテるから」

「そんなこと……」

「へぇ、あたしたち姉妹限定ってこと?」


 口を噤んだ私をあなたのお姉さんは愉しそうに眺めてくる。彼女との関係は今年の春からで、それは偶然だったと思いたい。たとえ彼女と出会う前日にあなたから「お姉ちゃんがね、そっちに転勤になったんだ」って話を聞いていたとしても。そして高校生の頃に、私が初めてあなたの家に訪れた際に、彼女に心を奪われたとしてもだ。


「そんな顔しないで。あたしが虐めているみたいじゃない。ほら、こっち座って」


 手招きに抗えない。眠気は吹き飛び、暗がりの中で彼女の隣に座ると彼女は肩をぴったり寄せ合ってくる。あなたよりも一回り大きな身体だ。長い四肢に、ふくよかな胸。その柔らかさもとうに知っている。


「あたしだって妹に刺されたくはないよ」


 彼女は二台のスマホを枕元に置くと、私の耳元に囁く。


「ちゃんと選ばないといけないのよ、あんたは。あたしもあの子も、誰かの代わりって嫌なはずよ」


 私は肯く。私たちはドラマの世界の登場人物ではない。


「わかるわよね? あたしは一度だって脅したことはない。もしもあんたが真希を選んであたしとの関係をなかったことにしたいのなら……そうしてあげてもいい。あの子が傷つかない道をいっしょに選んであげてもいいのよ」


 あなたのお姉さんの声は甘い。

 すごく、甘い。

 

 彼女はわかっているのだ。私があなたを選びきれないのを。私はあなたを好きだけれど、それは突き詰めると友情の延長線上にあって、恋慕や劣情とは異なるのだと。あなたと肌を重ねるのは不快ではないし、きちんと絶頂を迎えられることもあるけれど、それで満たされるのは身体で、心はどこか冷めてしまっている。あなたが熱くなればなるほどに、その熱さから遠ざかりたいと感じている私がいる。それを拒絶の二文字で形容するのは間違っている。ただ、あなたが望んでいる受け入れ方ができないだけだ。

 

 きっとそれだけなら罪ではなかった。

 あなたのお姉さんと関係を持たなければ。

 今の私には罰が必要だ。


「あの……」


 彼女が私の唇を奪い、続きを言えなくする。


「めちゃくちゃにしてほしいのね?」


 囁きは夜闇に消されない。あなたに似た、でも違う香り。

 彼女はわかっている。あなたや私以上に、私のことを。理解している。あなたは優しくて綺麗だけれど、まだ私に踏み込み切れていない。そう思うことがある。傷つくことを恐れているのか、傷つけることを恐れているかはわからない。

 けれどそのことが、私があなたではなくあなたのお姉さんに抱かれるのを強く望む理由なの。


 月の見えない夜、私はあなたの愛しているを忘れる。

 刺されるとしたら、どうか私であってほしい。私は「なんで」って言わないから。

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