第6話 足りない

 朝の空気は澄んでいる。


「ハッ、ハッ、ハッ……」


 タッ、タッ、タッ、と靴音を鳴らして走る。


 浮かぶ汗の玉に乗って、この雑念が流れ落ちてくれれば良いのにと思うけど。


 立ち止まってしまえば、たちまちあの男の顔が浮かぶようで、怖くて立ち止まれない。


 その結果として、家に帰って来る頃には、汗だくになり、両手をひざに置いて息を荒げる始末。


「ハァ……ハァ……」


 その時、脇の方から足音が聞こえた。


「朝から何やってんの?」


 冷めた声で言うのは、美帆だ。


 すでに制服に着替えて、登校する様子。


「ああ、まあ、ちょっと……」


 正直、いまあまり美帆の顔を見たくなかった。


 あの男の顔を思い出してしまうから……


「……事後かよ」


「えっ?」


「ううん、何でもない」


 首を横に振った美帆は、ニコッと笑う。


「あんた、遅刻しちゃダメよ。お先に~♪」


 軽やかな足取りで去って行く。


 思えばここ最近、美帆は足取りも、表情も軽い。


 それもこれも、あの男……父親に再会したせいだろうか?


 俺は幼なじみとして、微笑ましく思いつつも……男としては、やはりすぐに、黒々とした感情に飲み込まれてしまいそうになる。


「……汗くさ」


 自分でも分かるくらいだから、このまま登校したら、周りの女子になんて言われるか分からない。


 今まで、そんな周りの女子の評価なんて、そこまでこだわらなかった。


 俺はあくまでも、悠奈さんにふさわしい男になるため、自分を磨いていた訳で。


 ただ、美帆の父親……英人ひでとさんの、あのモテっぷりを目の当たりにしてしまうと……


 同じ男として、否応なしに、対抗心が芽生えてしまう。


「……ふぅ」


 サッとシャワーを浴びてとりあえず、サッパリする。


 心は曇ったままだけれども、仕方がない。


 美帆の言う通り、遅刻する訳には行かないから、朝食は食べずに家を出た。




      ◇




 朝ごはんはしっかり食べた方が良いという派と、食べない方が良いという派に分かれると思う。


 その見解は医者によっても違うから、一概にどちらが正しいとは言えない。


 その人のライフスタイルに合わせるべきなのだと思う。


 あるいは、その時々のコンディションによって選択をするべきだ。


 そして、いまの俺は、少しくらい何か食べた方が良かったかもと、反省している。


 頭が少しボーっとして、何だかフラフラする。


 倒れるほどではないけど、あまり授業に集中できていない。


 幸いなことに、体育はないから、何とかお昼休みまで持った。


 俺は半ばバッドコンディションの体を引きずるようにして、購買にやって来た。


 ガッツリ、焼きそばパンでも食べたいと思ったけど……


 やはり、購買戦線は甘くなく、焼きそばパンを初め、人気のモノはとうに完売していた。


 残っていたのは、不人気のコッペパン、プレーン。


 カロリーを気にするようになってから、むしろプレーンを喜んで選んでいたけど。


 今この時ばかりは、塩分、糖分が恋しかった。


 まあ、糖分に関しては、牛乳を買って補おう。


 と言う訳で、俺の昼食はコッペパンとパックの牛乳。


 別に見栄を張る訳じゃないけど、やはりちょっと侘しいから。


 クラスメイトの目を避ける意味でも、校舎裏の階段に1人佇み、ひっそりと食す。


「あむッ」


 正直、味気ないと思ったけど……腹が減っている分、ただのコッペパンも美味く感じた。


 いつも以上に、コッペパンの甘みを感じることが出来て、勉強になった。


 とはいえ、いくら意識を高く持っても、所詮はまだ高校生。


 食べ盛り、食欲満点。


 すぐに、腹の虫が鳴く。


 あぁ、お腹が空いた。


 こんなんじゃ、まだ足りない。


 減量中のボクサーは、本当にすごい。


 俺なんて、きっと耐えられない。


 まあ、別に格闘家になりたい訳じゃないけど。


 ピロン♪


 その時、ポケットのスマホが鳴った。


「んっ?」


 俺はおもむろに取り出して、メールを見た。


『いっくん、今日も予定があって、家政婦のお仕事が出来なくてごめんね。その代わりと言ってはなんだけど……久しぶりに、晩ごはんを作ってあげようか?』


 悠奈さんからのメールで、ビシッと背筋が伸びる。


『えっ、良いんですか?』


『もちろん。この前、家政婦のお仕事の時にチェックしたけど、柴田さん家の冷蔵庫の中身はちょっと心もとないから……今晩は、我が家でどう?』


『はい、分かりました』


『ちゃんと、彩乃さんと雄二さんの分も用意するから、それはお家に持ち帰ってちょうだい』


『ありがとうございます。きっと、喜びますよ』


『ちなみに、美帆は帰りが遅くなるみたいだから……2人きりね』


『……はい』


 俺は噛み締めた、喜びを。


 美帆には申し訳ないけど。


 今は独占したい気分なんだ。


 悠奈さんを。


『じゃあ、待っているから……早く来て』


 その呼びかけに、思わず早退したい衝動に駆られるけど、グッと堪える。


『学校が終わったら、まっすぐに帰って行きます』


『ありがとう、いっくん』


 こちらこそ、です。


 俺はからっぽだったお腹と、それから心までも満たされるようだった。







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