第3話
引継ぎはすんなりと終わった。もともとチームでの仕事が多かったのと、抱えていた大きな案件がフィックスしたばかりだったのだ。
また、同僚から坊太郎へ寄せられる声の中に長く休むことに対する不満はなく、身を案じる声が全てだった。坊太郎は日ごろから何やかやと同僚の仕事を手伝っていたし、同僚も彼の人柄をよく知って好ましいと思っていたからだった。
有給休暇の届けも出して簡単に机周りを整理すると、ちょうど半休での退社時間になった。
坊太郎は上司のデスクに行き、先程の狼狽振りの謝罪と、立ち直る猶予期間をくれたことに対する謝礼を述べた。
それを聞いた上司はと言えば、少し横を向きながら「いちいちそんなことで謝罪も礼もいらん。管理職の業務の1つだ」とそっけなく言うのだった。しばらく黙った後、少し躊躇い気味に付け加えられたのは「うだうだ悩む前に相談しろ。休日や夜中でも、出来るだけ電話には出てやる」との言葉だった。
慌ただしく手続きを済ませ、帰り支度をして忘我のうちに坊太郎は家路につく。しかし歩きながらふと我に返ると(誰もいない家に帰る)と言う現実が突きつけられ、平坦な道を歩いているはずなのに一歩一歩が沈んでいくような感覚に囚われるのだった。
家に着き、荷物を置いて、さて何をしようかと思ったが、坊太郎は何もする気にならなかった。
座敷の畳に、大の字に寝転ぶ。
薄手のワイシャツの布越しに背中に感じる畳の柔らかさと、微かに薫る枯れた井草の匂い。
首を捻ると、縁側から斜めに入り込む陽の光が畳の規則正しい凹凸を際立たせていて、大伽藍の甍のように見えた。
目に入ったのはそれだけではなかった。あちこちにある、畳表の荒れ。それはこの家で一緒に過ごしてきた友人たちの、文字通り爪痕だった。
坊太郎は、反射的にそれを目で追ってしまう。
――グスッ
この部屋に限ったことではない。この家のどこにだって、坊太郎と友人たちとの思い出の痕跡がある。
(あのひときわ大きな爪痕はレックスの、あっちの等間隔で付いた痕はタマの、鴨居の穴はヒナが開けた…)
家の各所に残された痕跡と友人たちの名を、坊太郎は一つ一つ一致させていく。見れば見るほど楽しかった事は思い起こされて、同時にそれは堪えようもない喪失感となって揺り返されるのだ。
これからのことを考えなければならないのに、思い浮かぶのは楽しかった思い出と、それを共有する相手を永遠に失ったと言う悲しみのみ。
(もう、今日は寝てしまおうか)
抑えることのできないネガティブな思考を持て余し、まだ日も出ている時間なのに坊太郎は眠りという逃避を選んだ。
目を瞑り、何も考えないようにしていると、じわじわと体が沈んでいくように感じた。早朝の穴掘りとその行為の持つ意味が、房太郎の身体と精神に与えた影響は大きかったらしい。
坊太郎は、いつしか深い眠りに落ちたのだった。
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