昔日の夕日 (4)

 間を置かず、同じく低い所から激しい水音も聞こえてくる。

 水路の中だ、とヒカリがそちらへ視線を走らせると同時に、子供の手が下から伸びてきて、柵の根本を力強く掴んだ。

「行っちゃダメだ、ユキ!」

 やっと、その子が何をわめいているのか、ヒカリに聞き取れた。

「ユキを放せ、ヘンタイ野郎! 警察を呼ぶぞ!」

 必死の形相でコンクリの壁をよじ登ってきた少年は、お互いに離れて立つヘンタイ野郎とユキ、そして、帰ったはずのおねーさんの姿を見て、あっけにとられた表情を浮かべる。

 原田が、底意地の悪い笑顔で、少年に向き直った。

「キーホルダーは見つかったんだな? カツヤくん」

 目を見開き口をパクパクさせている少年の、丸く膨らんだズボンのポケットから、灰色の猫の耳がちらりと見えていた。

 

 バツの悪そうな顔で、カツヤがポケットからキーホルダーを掴み出した。そのまま、勢いよくユキに向かって手を突き出す。「ん!」と顎をしゃくりながら。

「『ん』じゃねえよ。言わなきゃいけないことを、きちんと言え」

 説教する原田から、カツヤが露骨に顔を背ける。

 ヒカリは大きな溜め息をつくと、敢えてユキに向かって語りかけた。

「なあ、この子何年生? 『ん』しか言えないってことは、ユキちゃんよりも年下?」

「え、同じ三ね……」

 ユキが素直に答えかけた途端、カツヤがふてくされた調子で、だが大きな声で、「ごめん!」と言いきった。

「返す。受け取れ」

「キーホルダーが水路のほうにバウンドしたことに気づいたのか?」

 原田が問いかけるも、カツヤはそっぽを向いたままうんともすんとも答えない。

 だが、原田は特に気にしたふうもなく、「目がいいんだな」と、勝手に合点して頷いている。

「で、遠くまで流れていってしまう前に拾おう、と、すぐに下流のほうへ向かった、と」

 カツヤが、驚きの表情で原田を見た。

 原田は、淡々と話し続ける。

「全速力で走っていって、向こうのほうで水路におりて、そのまま水の流れを遡っていったら、雑草に引っかかっているキーホルダーを見つけた」

 カツヤは、呆然と原田を見つめながら、ぼそりと呟いた。

「引っかかってたのは、雑草じゃなくて石だ」

「おお、そうか、訂正サンキュ。で、石に引っかかっていたキーホルダーをゲットして、公園の近くまで戻ってきたけれど、どうやってこれをユキちゃんに返したらいいのか、いいアイデアが思いつかなくて水路から出られずにいたら、公園のほうから、聞き慣れない声が聞こえてきて、咄嗟に暗渠――トンネルになっているところに隠れた」

 そこで原田は一旦言葉を切った。それから、カツヤに「どうだ、正解か?」と得意げに笑いかける。

 目を見開き、口をぽかんとあけたカツヤが、痙攣するように小刻みに首を縦に振った。

「暗渠、って、すぐそこにあるやつか?」

 ヒカリの質問に、原田が「ああ」と頷いた。

「水流が、暗渠の出口付近でいい感じに渦を巻いていたんでね。ああ、これは流れの中に何か……誰か立ってるな、と」

 さっき水路を覗き込んだ時、原田はヒカリよりもすこしだけ左手、上流側に立っていた。そのすぐ左側に暗渠が口をあけていたのを思い出し、ヒカリは思わず唇を噛んだ。下流だけでなく上流のほうにも注意を払っておれば、ヒカリの位置からならカツヤの足が見えたかもしれないというのに、と。

 一人悔しがるヒカリをよそに、カツヤはすっかり感服した様子で、瞳をキラキラ輝かせながら、原田を見上げている。

「アンタ……、凄いな!」

「いやいや、それほどでも」

「ううん、本当に凄いよ、カッコイイよ! ありがとう、お兄ちゃん!」

 ユキも、カツヤ同様キラキラとした眼差しを原田に向ける。

 その瞬間、カツヤの顔が複雑そうにしかめられるのを見て、ヒカリの口元に苦笑が浮かんだ。

 

 もう暗くなるから送っていこうか? との原田の申し出を、カツヤは必死で両手を振って固辞した。

「いいよ。俺の家、ユキの家のすぐ近くだから」

「そうか」

 原田は、大きく頷いたのち、カツヤに向かって「あのさ」と声をかけた。

「何?」

「……いや、やっぱ、何でもない」

 何か言いかけたものの、原田はそれを静かに呑み込んで、それからカツヤに「頑張れよ」と言った。

 小首をかしげるカツヤの横で、ユキがまた深々と頭を下げる。

「おにいちゃん、本当にありがとう!」

「帰るぞ! ユキ! もたもたすんな!」

 さよならも言わずに、カツヤがさっさと公園の出口へと向かう。

 ユキは、しばしの間、カツヤの背中と原田とを交互に見ていたが、もう一度原田にお辞儀をすると、「お兄ちゃん、またね!」と手を振った。

「ユキ! なにやってんだ、このノロマ! 早く来いっての!」

「わぁ、ひっどーい! ノロマって言ったの、おばさんに言いつけるから!」

「悔しかったら、さっさと来たらいいんだ。ノロマ」

「カツヤくんなんて、大っ嫌い!」

「俺だって、お前のこと、大っ嫌いだからな!」

 

 わめきながら去っていく二つの小さな人影を、ヒカリは含み笑いとともに見送った。

「もうちょっと素直になりゃ、『大嫌い』なんて言われずにすむのに」

 その傍らで、原田が大きな溜め息をつく。

「こればっかりは、本人が気づかんことには、なあ」

 原田が再度深い溜め息を漏らすのを聞き、ヒカリは、ここぞとばかりに攻勢に転じることにした。

「それにしても、あのカツヤって子の行動を、よく読めたな。精神年齢が近いんじゃね?」

 ――さて、どこからどんな反撃がやってくるか。

 臨戦態勢で反応を待つヒカリに、原田は「まあな」とだけ返答すると、「じゃ、また」と軽く右手を上げて背を向けた。

 完全に予想外の展開に、ヒカリは何も言うことができず、ただ、呆然と原田の背中を見送るのみ。

 その背中が、やけにもの寂しそうに見えて、ヒカリは眉間に皺を寄せた。

 ――まさか、わざわざ落ち込んでみせて、相手に罪悪感を植えつけようという、新手の反撃か?

 そう胸の奥で独りごちてから、ヒカリは大きく息を吐いた。解っている、と。わざわざそうみせているんじゃなくて、何故かは知らないが彼は本当に落ち込んでいるのだろう、と。

 宵闇のおりる草むらに向かって、ヒカリは、足元に転がっていた小石を思いっきり蹴り飛ばした。

 

 

 

    〈 了 〉

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