昔日の夕日 (3)

「その張本人のカツヤとやらは、それからどうしたんだ」

 ヒカリのツッコミに、ユキは頬を膨らませた。

「逃げた」

「逃げたぁ?」

「本当にどうしようもない奴だな」と吐き捨てるヒカリを、何故か原田が「そう言ってやるなよ」なんてなだめてくる。

「落ちた時、何か音とかしなかったか?」

「遠かったから、はっきりとは聞こえなかったけれど、見えなくなってからも鈴の音が聞こえてきたような気がするから、たぶん、落ちたところから少し転がったんだと思う」

 それは面倒なことになったな、と唸るヒカリの横で、原田が右手を口元に当てた。考え込む時の彼の癖だ。

「キーホルダーって、転がるような形なんだ?」

「顔だけだから、丸いよ」

「大きさは?」

「このぐらい」

 ユキが両手で、ゴルフボールよりも少し大きい円を示した。

「材質とか、わかるか?」

「ゴムっぽいの」

 ふむ、と相槌を打ってから、原田は足元の草むらに視線を落とした。そのまま、二、三歩向こうに進んだかと思えば、「おお」と声を漏らす。

 不思議に思ったヒカリが原田のあとを追うと、雑草の陰にコンクリの土台が見えた。かつて何か遊具が据えつけられていた跡のようだった。

「ところで、カツヤって子とキーホルダーを取り合ったところって、どこだ?」

「ブランコの前」

 ユキが指さしたのは、そこから十メートル近く離れた場所だった。

「随分と飛んだんだな」

 ヒカリの呟きに、原田も小さく頷いた。

「あれだけ離れていて、鈴の音が聞こえたということは、転がったんじゃないな」

 遊具があるエリアと違って、今ヒカリ達がいる場所には、一面に草が生い茂っている。そんな中をキーホルダーが転がったとしても、まず音は立てないだろうし、仮に音を立てたとしても、ユキの耳には届かないだろう。

「ここでバウンドした、ってことか?」

「たぶん」

 そう一言答えて、原田は道路とは反対側――ブランコから見て、今ヒカリ達がいる場所の右側――の、公園の奥のほうへと歩き始めた。

「なんで、そっちへ行くんだ」

「バウンドしたあとの鈴の音が聞こえたということは、少なくとも草むらを飛び出す程度にはキーホルダーが跳ねたんだ。材質がゴムっぽいっていうのなら、接地の状況によっては、それなりに弾むだろう。それがキーホルダーが飛んでいったのと同じ方向だったら、流石にユキちゃんも気づくだろ。道路側はすぐ先が石畳になっているから、もっとわかり易い金具や鈴の音が聞こえるはず。となると、消去法で、こっち側に跳ねたかな、と思ってね」

 公園の奥は、道路と並行に金属製の柵で仕切られていた。

 原田は、柵に手をかけると、その向こうをひょいと覗き込んだ。

 一歩遅れて原田の右側に到達したヒカリも、柵の外に視線を落とす。

 そこには、幅一メートル、深さ一メートル半ほどの水路があった。公園沿いに真っ直ぐと、更にその先の道路脇をと、ところどころ暗渠あんきょとなって右手の方角へ滔々と流れていく。

 原田が、ユキを振り返った。

「ここに落ちたってことは?」

 柵の隙間は、十センチほど。キーホルダーがすり抜けるのも可能な幅だ。

「わかんない」

「水音は聞こえなかった?」

「うーん……」

 考え込むユキを、原田もヒカリも無言で見守る。

 静まりかえった公園に、どこかの排水溝から水路に合流する水の音が、風に乗って聞こえてくる……。

「ずっとちゃぽちゃぽ音がしてるから……」

「そうだね……」

 原田とユキのやりとりを耳に遊ばせながら、ヒカリは柵から身を乗り出して、夕闇に沈む水路内を覗き込んだ。

 ヒカリの足元から水面までは、ユキの背丈分ぐらいは優にあった。水深は十センチほどだろうか、流れている水は澄んでいて、平らなコンクリの底がどこまでも見通せる。水面より上にあるコンクリの継ぎ目に、ところどころ雑草が生えている以外は、目立った障害物は見当たらない。

 ――金具はともかく、マスコットはたぶん水に浮くな。

 ヒカリは、右手、下流のほうに目を凝らしたのち、ゆるゆると首を横に振って身を起こした。キーホルダーは既に下流へと流れ去ってしまったか、そもそもこの水路には落ちなかったか。どちらにせよ、ここを捜索範囲に含めるのはナンセンスだ。当初の予定どおり公園内をしらみつぶしに探すべきだろう。

 溜め息一つ、「残業」を覚悟して、ヒカリは原田を振り返った。

 同じく水路を覗き込んでいた原田は、ヒカリに少し遅れて身を起こすと、正面から視線を合わせてきた。……いつもの、あの、悪戯っぽい笑みをにんまりと浮かべて。

「雛方、お前、もう帰れ」

「は?」

 買ってもらったばかりのオモチャを自慢したくてたまらない悪ガキもかくや、得意げに瞳を輝かせる原田の顔を見て、ヒカリは唇を引き結んだ。

「……わかった」

 こんな表情を見せた原田が、こんな中途半端な状況で、オーディエンスを黙って帰らせるはずがない。

 ――ということは、私が帰る、もしくはことが、「必要」ということか。

 ヒカリは、目を丸くしているユキに、「じゃあ、私は帰るね」と声をかけて、回れ右をした。そうして、ゆっくりとした歩調で公園の出口のほうへ歩き出した。

 普段ならば、「随分と素直だな」だの「さっさと帰れ帰れ」だの何かしら余計な一言を投げかけてくるだろう原田は、案の定、無言のままだ。

「え? え?」と狼狽するユキの声が、背後から聞こえてくる。

 ヒカリが五歩ほど進んだところで、原田が「さてと」と口火を切った。

「邪魔なおねーさんもいなくなったことだし、ユキちゃん、おにーさんが代わりのキーホルダーを買ってあげるから、一緒においで」

 よく通る低い声が、夕暮れの空気を震わせる。

 ヒカリはそうっと原田を振り返った。

 挑戦的な眼差しが、ヒカリを真っ直ぐに射抜く。「まあ、見てなって」と言わんばかりの表情で、原田は更に言葉を続けた。

「同じやつを買ってあげるから、おにーさんと一緒にイイトコロに行こう」

 その瞬間、なにやら焦燥感溢れるわめき声が、地の底から響いてきた。

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