昔日の夕日 (2)

「許してくれなかったら?」

 ユキは、思いつめたような表情で唇を噛んだのち、下を向いた。

「前に、カツヤくんに借りた消しゴムを使ってて、うっかりボキッて折っちゃった時、カツヤくん、『一生許さへん』って言ってた」

 カツヤって誰? と混乱するヒカリをよそに、原田は訳知り顔で相槌をうつ。

「そんなの、ちょっと言ってみただけだって。言った本人は、そんなこと絶対もう忘れてる」

「でも、それからずーっと、意地悪ばっかりしてくるよ……」

 消しゴムごときで随分根に持つ奴だな、と言いかけたところで、ヒカリは、はた、と気がついた。と同時に、深い溜め息が彼女の口をついて出る。ユキちゃん、可愛いもんな、と。

 そう、ヒカリが小学生の時にも、クラスに一人は、気になる子にちょっかいをかけるクソバカがいたものだ。

「大丈夫だよ。お母さんは、そのカツヤって子とは違うから」

 原田は、根気強くユキを説得し続けている。

「本当?」

「本当。なんてったって、ユキちゃんの『親』だもんな。友達とは違うって」

 原田の屈託ない笑みを見て、ヒカリの胸の奥が、ずん、と重くなった。

 どうしてそんなに素直に笑えるのか。その自信は、いったいどこからくるのか。そもそも、なにゆえ親は親というだけで、特別な存在と見なされるのだろうか。

 ――遺伝子を受け継ぐということが、そんなに重要なのか。

 ぎり、と奥歯を噛み締めるヒカリの形相に気づくことなく、原田は朗らかに言葉を継いだ。

「だってさ、親って、ユキちゃんとすっごく長い時間一緒にいるだろ? これに勝てる友達って、他に誰かいる?」

 ユキが、勢いよく首を横に振る。

 その瞬間、ヒカリは思わず息を呑んでいた。

 ――共有時間。

 原田は、遺伝子だの何だのは小学生には難しすぎるだろう、と判断しただけだったのかもしれない。だとしても……。

 ヒカリは唇を噛んだ。

 ――だとしても、何故、お前がそれを言う。

 悩み事など何もないと言わんばかりのアホ面を下げた、お前なんかが。そう口走りそうになって、ヒカリはこぶしを握りしめた。重石の詰まった胸の奥から、苦くてどろどろしたものがせり上がってくるのを、必死で呑みくだしながら。

「でもな、長い時間、ただボーっと一緒にいるだけじゃ、駄目なんだ。ユキちゃんやお母さんが超能力者だったら別だけど」

 超能力持ってる? との原田の問いかけに、ユキは律儀に「持ってない」と首を振った。

「だろ? だから、何を考えているのか、どう思っているのか、そういうことを、きちんとお互いに伝え合わなきゃ駄目なんだ。いくら九年間一緒にいたとしても、庭に生えてる木とは家族になれないだろ?」

 いつになく、しんみりとした声音で原田が語る。

 ユキが神妙な顔で頷いた。

「だから、ユキちゃんが今しなければならないことは、お母さんに心配をかけないよう暗くなる前に家に帰って、そして、お母さんときちんと話をすることだ」

 そこでようやく、ヒカリをがんじがらめにしていた呪縛が、解けた。

 ヒカリは「おい」と原田に声をかけると、彼の肘を掴んで力任せに引っ張り立たせた。胸の奥のむかつきはまだ全然消えておらず、油断すれば今にも鬱憤が噴出してしまいそうだったが、どうしても彼に言っておかなければならないことがあったからだ。

 突然のヒカリの行動に驚いたのだろう、目を見開くユキに、ヒカリは「ちょっと待っててね」と笑顔を返して背を向けた。そうして、ひそひそと小声で原田に問う。

「そんな簡単に言いきってしまっていいのか? もしも母親に何か問題があったらどうするんだ?」

 びっくりまなこで引っ張られるがままになっていた原田は、ヒカリの言葉を聞くなり、「何だそんなことか」と眉を上げた。

「そりゃあ、皆が皆、菩薩のような人なわけないけど、ま、彼女の服装や態度、健康状態なんかを見る限り、いわゆるフツーのご家庭の枠を出るものでもなさそうだからな。フツーのオカンなら、ちょっと叱って終わりだろ」

「普段はフツーのオカンでも、怒ると、すげーヒスを起こすタイプだったらどうするんだ?」

「あー……、まあ、そうだな……」

 視線を落とし、唸り声を漏らし、それから原田は、「よし」と顔を上げた。

「要するに、さっさとキーホルダーを見つけてしまえばいい、ってわけだ」

 原田はそう言うと、呆然と立ち尽くしているユキの前に素早くとって返した。

「というわけで、タイムリミットは暗くなるまで。この街灯が点灯したら、ユキちゃんは家に帰る。OK?」

「うん」

「そうと決まれば、全力で探すぞ!」

「はい!」

 さっきまで、ただ泣き濡れるばかりだったユキの瞳に、強い光が込められる。

 その様子を見て、ヒカリはホッとすると同時に、何かもやもやしたものを感じていた。たったこの程度のやり取りで元気を取り戻せるのならば、最初っから泣かずに公園中を探しておればいいのに、なんてことまで考えてしまい、慌てて頭を振る。

 ――相手は子供だってのに、何を八つ当たりしてるんだ、私は。

 気持ちを切り替えるべく大きく深呼吸をして、それからヒカリは、あらためて原田達のほうに歩み寄った。

 

「どんなキーホルダーなんだ? 詳しく教えてくれるか?」

 原田の問いに、ユキは訥々とその詳細を語り始めた。

 失くしたのは、テレビCMもやっていた有名ゲームに出てくる、従者猫のキーホルダーなのだという。「すっごくカワイイの!」と目を輝かせるユキを見て、ヒカリも原田も口元に苦笑を浮かべた。

「どこで失くしたんだ?」

「たぶん、このへんに落ちたはずなんだけど」

「落ちた?」

 二人の声が綺麗に揃ったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。ヒカリはポーカーフェイスを意識しながら、原田の次の言葉を待った。

「落とした、じゃなくて?」

 大仰に首をかしげてみせる原田に、ユキは大きくかぶりを振った。

「キーホルダーをヒナちゃんに見せようって思って公園に来たんだけど、誰もいなくて、しかたなくブランコしてたら、カツヤくんがやってきて、キーホルダー見せろって言って取ろうとして、イヤだって言っても全然聞いてくれなくて、取られないように頑張ってたら、キーホルダーがポーンと飛んでいってしまって……」

「で、この辺りに落ちた、と」

 ユキがぶんぶんと頷く。

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