昔日の夕日 (1)
阿鼻叫喚の前期成績発表も終わり、いよいよ後期が始まろうという九月下旬。
日中ぎらぎらと照りつけていた太陽が、茜色に頬を染めて街並みの向こうに隠れゆく夕暮れ、心持ち風が涼しくなるこの時刻を待って、ヒカリは愛用の自転車に跨った。二駅向こうの大型スーパーでコーヒー豆が安いと知り、喜び勇んで買いにいくことにしたのだ。
はなうたを口ずさみながら住宅街の中を進んでいたヒカリだったが、マンションから三ブロック先の公園横まで来たところで、ふと、ペダルをこぐ足を止めた。
赤銅色に染まる西の空を背景に立つ人影に、彼女のアンテナが敏感に反応したのだ。
身長一七〇センチメートルちょい、中肉中背のそいつは、男にしては珍しく少し長めの髪を首の後ろで一つにくくっている。ヒカリの天敵、原田嶺だ。
前期試験やら夏休みやらのせいだろうか、そういえばこのところあまりコイツの顔を見かけていない。どうりで平和な日々を過ごせたわけだ、と、ヒカリは満足げに頷いた。公園なんかで何をしているのかは知らないが、奴がこちらの存在に気づく前に、さっさとこの場を立ち去ろう。そう思ってペダルに足をかけた次の瞬間、ヒカリは、両の眉を大きく跳ね上げた。
膝に手をつき中腰になった原田の目の前、小学生ぐらいの女の子が泣いている。
――なにやってんだ、あの大馬鹿野郎は!
ヒカリは、慌ててハンドルを公園の入り口へ向けると、車止めを入ったところに自転車を停めた。遊具のある一角を横目に、雑草や野芝の生い茂る草むらを踏み分け、原田達のいるところを目指す。
近づいてくるヒカリに気づいた原田が、女の子の正面にしゃがんだまま、「よお」と右手を上げた。
「なにやってんだ」
ドスの効いたヒカリの声に、女の子はびくんと身体を震わせて顔を上げた。背の高さは、丁度ヒカリの胸の辺り。小学校中学年といったところだろうか。さらさらのショートカットに、前髪をとめるファンシーキャラのピン止め、目は泣き腫らして真っ赤になっているが、くりっとしていて黒目がちで、豊かな睫毛と優しい眉毛が印象的な……、一言で言えば「カワイイ女の子」だ。
「まさかアンタ、何かいかがわしいことしたんじゃないだろうな」
ヒカリが冷たく言い放つや、原田はいつになく深刻な表情で立ち上がった。
「その手のネタは、今の時代、本っ当に洒落にならないからやめてくれ」
「じゃあ、どうして墓穴の中に自らダイブするようなことをしてるんだ?」
どうでもいいことに頭を突っ込みたがるお節介の行動パターンよりも、小さな子供を狙う変質者の行動パターンのほうが、世間ではより広く認知されている。小学生の女の子(しかも泣きじゃくっている)に声をかけている男子大学生(見るからに胡散臭そう)など、一発通報、即逮捕だろう。
「黄昏時のひとけのない公園で、小さな子が一人で泣いてるのを、放っておくのかよ?」
やっぱりこいつは大馬鹿野郎だ。溜め息を押し殺しながら、ヒカリは容赦なく吐き捨てた。
「不審者として通報されたらどうするんだ」
「雛方が来てくれたから、もう大丈夫、だな」
いつもの厭味ったらしい笑みではなく、ホッとしたような微笑みを浮かべた原田を見て、ヒカリは一瞬言葉に詰まった。ここで白々しく反論を述べても、余計にコイツを喜ばせるだけだと思い、敢えてこれ見よがしに胸を張る。
「感謝しろよ」
「おう。今度学食で奢ってやる」
「奢ってやる?」
「……奢らせてください」
ヒカリに深々と頭を下げてから、原田はさっと態度を切り替えて女の子のほうを向いた。もう一度目線の高さを揃えるようにしゃがみ込み、幾分柔らかな声で話しかける。
「なァ、もう暗くなるよ。早く家に帰らないと」
女の子は、何度もしゃくり上げながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「帰りたくないの?」
一層激しく、首が横に振られる。
「帰りたいけど、帰れない?」
今度は、縦に。
「何か、おにーさんに手伝える?」
そこで、ようやく泣き声が途切れた。
原田は女の子ににっこりと笑いかけると、ヒカリを振り仰いだ。
「このおねーさんも助けてくれるって。だから、なんで泣いてるのか教えてくれるか?」
大きな瞳がすがりつくようにして、ヒカリを見上げてくる。仕方がないなあ、と、ヒカリは肩を落とした。
「私にできることなら、手助けしてあげるよ」
女の子は、名前をユキと言った。この近くに住む、小学三年生。公園で失くした大事なものを探している、とのことだった。
「お母さんが大切にしているキーホルダーなの」
勝手に持ちだして失くしたなんて言ったら、怒られる。見つけるまで帰れない。そう言ってまだ小さくしゃくり上げるユキに、ヒカリはおそるおそる問いかけた。
「キーホルダー、って、鍵はついてるの?」
「ううん、キーホルダーだけ」
ヒカリは、思わず安堵の溜め息を吐き出した。
同じく、ホッとした表情で、原田がユキに語りかける。
「なあ、ユキちゃん。最初に言っておくけど、もう三十分探して、もし見つからなくても、今日はおとなしく家に帰るんだ。あとは、おにーさんが代わりに探しておいてやるから」
原田の台詞に「おねーさん」が登場しなかったことに、ヒカリは、つい片眉を上げた。どうやら彼はヒカリに「残業」を押しつけるつもりはないらしい。
「え……、でも……」
「暗くなる前に家に帰らなきゃ、な」
「でも……」
また泣き出しそうな顔になるユキの前に、原田がしゃがみ込んだ。
「大丈夫。きちんと説明して謝れば、お母さんも許してくれるって」
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