無礼者 (1)

 黒猫が前を横切ると不幸になるというが、横切りかけた黒猫が途中でこちらに向きを変えて近づいてきた場合は、どうなるのだろうか。

 学生食堂の喧騒から離れた木陰のベンチで一人、お手製のおにぎりを頬張っていたヒカリは、近くに寄ってきた黒猫を見おろしながら眉間に皺を寄せた。

 そもそも「横切る」のレギュレーションは、どうなっているのだろうか。基本は、観測者の視界を横方向に通り過ぎる、という定義で間違いないはずだが、これが黒猫と観測者の間に遮蔽物があった場合はどうなるのだろうか。視認しなければ効果がないというのならば、目をつむった場合はどうなのか。

 思索にふけるヒカリの頬を、爽やかな風がそっと撫でる。暦の上ではとっくに秋だというのに、日中はいつまでも暑さが続いていてげんなりしていたが、十月に入ってようやく秋らしくなってきた。こうやってゆっくりと外でお昼を食べられるのが嬉しくて、ヒカリは思わず目を細める。

 と、ヒカリの足元に到達した黒猫が、甘えた声を出してデニムパンツのふくらはぎのところに何度も顔をこすりつけてきた。

 この広い大学の構内には、何匹もの猫が住みついている。大学生ともなると猫を追いたてたり石を投げたりする者はまず見られず、加えて、猫同様に大学内のサークルで保護されている数匹の犬は躾が行き届いていて随分大人しく、猫達は、自分達が哺乳類のトップに君臨していると信じきっているようなのだ。

 この黒猫も、ヒカリが追い払おうとしないのをいいことに、とうとうヒカリの膝に前足をかけてきた。それを支えに、ぐい、と後ろ足で立ち上がり、可愛らしい「ニャア」の声とともにおにぎりへと猫パンチを繰り出そうとする。

「こら。これは私のごはん」

 上体をよじっておにぎりを避難させるも、お猫様はまったくもって怯む様子を見せない。

「だから、ダメだってば」

「いやん、ヒカリってば、かーわーいーいー」

「なんだって?」

 突然背後から降ってきた浮かれ声を聞き、ヒカリの声音が一オクターブ低くなった。

 黒猫は、一瞬にしてヒゲをピンと立てると、あっという間に植え込みの中へと逃げていく。

 猫と入れ替わりにヒカリの前に現れたのは、茉莉だった。満面に笑みを浮かべ、ショートカットをふんわりと風に揺らしながら、ヒカリの隣に腰を下ろす。

「流石のヒカリも、猫ちゃん相手にはデレるのねー」

「なんだそれ」

 盛大に鼻を鳴らすヒカリに対して、茉莉は、慣れたものだとばかりに「あはは」と笑ってみせた。

「だって、人間相手だと『ダメだってば』なんて言わないじゃない。冷静な声で『やめてください』って一刀両断にするか、場合によっては『やめろ』って女子にあるまじきドスの効いた声で言い放つでしょ」

 茉莉が再現した、まさしく女子にあるまじきドスの効いた声を聞いた瞬間、ヒカリの脳裏にとある人物の顔がポップアップした。確かに、もしもにおにぎりをねだられるなどしたら、そういう返しをする自信はある。

「前も言ったけど、ヒカリはもう少し人あたりを柔らかくしたら、色々とお得だと思うんだけど」

「前にも言ったが、上辺で得られる『お得』なんざ、別に必要ない」

「あー、まあ、上っ面だけじゃなくてきちんと中身も見てくれる人がいればそれでいい、ってことかな……」

 そう呟いた茉莉の眼差しが、遠くなる。

「は?」

「ううん、なんでもない、なんでもない、独り言よ!」

 訝しく思いつつも「ふーん」と話を終わらせたヒカリは、茉莉が鞄を抱えたままなことに気づいて、片眉を上げた。

「あれ? お昼はもう食べたのか?」

「うん。先生の都合だとかでちょっと早めに二コマ目が終わったから、さっさと食べてしまったんよ。そう言うヒカリはちょっと遅かったんだね」

「ああ。次の三コマは空いてるし、先に用事を済ませてゆっくり食べようと思って」

「あ、私も次、空いてるんだよ。なかーま!」

 こいつハイタッチ好きだな、と思いながらも、ヒカリはいざなわれるがままにそれに付き合った。

「そういえば、もみじ祭で工学部って何かするの?」

「一回生は何も。各研究室がポスター展示するらしいとは聞いているけど」

「まあ、そうだよねー。経済も同じ感じ。なんか、有志で食べ物の屋台を出そう、って言って人がいるらしいんだけど、私のところには詳しい話がまわってこなくてね……」

「部活のほうに集中できるから、ちょうどよかったんじゃね?」

「それはそう」

 春のさくら祭での展示をきっかけに、茉莉はESS(英会話クラブ)に入部していた。そちらはもみじ祭で「ジャパネスクカフェ」を出店すると聞いている。

 ヒカリ達一回生にとっては、来月頭のもみじ祭が、準備から関わる初めての大学祭だ。楽しみだねー、と笑う茉莉に、ヒカリも知らず微笑みを返していた。

「で。頼み事は何だ?」

「え?」

 茉莉が、丸い目を更に丸くして、僅かに身を引いた。

「何か、私に頼みたいことがあるんじゃないのか?」

「ええっ?」

 しばし視線を宙に彷徨わせたものの、やがて茉莉は、観念したかのように訥々と話し始めた。

「えーと、いや、別に、そんな、特に、何か、大したことってわけじゃなくて……、っていうか! どうして私がヒカリに何か頼もうとしてるって、わかるわけ?」

 口元に浮かび上がってくるにやにや笑いを隠そうと、ヒカリはさりげなくあさっての方角を向いた。

「なんとなく」

「え? もしかして、カマをかけたの?」

「それはどうかな」

「じゃあ、なに? すんごい地獄耳?」

「なんだそれ」

 昔から茉莉には、何か言いだしにくいことがある時、左手の親指と人差し指をそっと擦り合わせる癖がある。高校で出会ってもう何年もの間、散々同じようなシーンを繰り返してきたにもかかわらず、いまだ本人に全く自覚がないというのは、見事というほかはない。

 ひとしきり、「なんで?」と首をかしげていた茉莉だったが、やがて何を納得したのか、「きっと、阿吽の呼吸ってやつね!」と嬉しそうに頷いた。

「じゃあ、ついでに、頼みたいことの内容も察してくれる?」

「おにぎりなら全部食って残ってないぞ」

「違う! そんなこと頼みたいのと違う!」

 ヒカリがとぼけてみせれば、茉莉が必死に首を横に振った。それから、すがるような眼差しでヒカリに迫ってくる。

「ヒカリの助けが必要なの」

「とりあえず、聞くだけ聞こうか」

「えー、聞くだけ? すごく簡単なことだから、もう『いいよ』って言ってよー」

「そんな恐ろしいこと、できるか」

 他ならぬ茉莉の頼み事、ヒカリも多少の無理は聞くつもりでいる。しかし。茉莉が言い出しにくく思うような内容に、おいそれと首を縦に振ることはできなかった。ヒカリだって、やはり我が身はかわいいのだ。

 仕方ないなあ、と溜め息をついたのち、茉莉が真正面からヒカリの目を覗き込んだ。心持ち上目遣いで。

「ええとね、ヒカリ、私と一緒にお茶しない?」

「……は?」

 予想外の内容に、ヒカリはしばし目をしばたたかせる。

「私と茉莉がお茶をする、のはいいとして、そのほかの条件があるんだろ?」

「一緒にお茶しよ?」

「条件を、言え」

 ヒカリが女子にあるまじきドスの効いた声で言い放てば、茉莉から小さく舌打ちの音が聞こえた。次いで「やっぱこれじゃさすがに無理か……」という声も。

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