忘れ物 (3)
『三番のコピー機に忘れ物がありました。〈サン〉に心当たりがある人は、文化部棟一階の工作研究部までご連絡ください』
「おい、なんだ、それ」
「書き置きだよ。漫画に出てくる固有名詞を入れておけば、持ち主なら気がつくだろ。幸い、当たり障りなさそうな文字列だし」
「そうじゃなくて。どうして
「誰が見るかわからないところに、個人の連絡先を晒すわけにいかないだろ」
「いや、だからなんで工作部なんだ」
「私はどこにも所属していないからな。乗りかかった船、ってやつだ、頼んだぞセンパイ」
そう朗らかに言い放てば、怨嗟の籠もった溜め息が、目の前から湧き上がる。
「しかし、お前、なんか今日はえらく機嫌がいいな。何かいいことでもあったのか?」
返事の代わりに、ヒカリは、ふふん、とハミングをした。
「で、俺はいつまで、ここでソレの主が来るのを待ってなきゃいけないんだ?」
工作研究部の部室に入るなり、原田は作業台脇のベンチにがっくりと腰をおろした。
「別にずっと待ってる必要はないだろ。こうやって場所さえ決めれば、伝言を残すのも簡単だし」
ドアに一番近い丸椅子に腰掛けたヒカリが、涼しい顔で返答する。
「伝言?」
「ラブレターに置き換えてシミュレートしてみろって」
「あ、そうか。そうだな。確かに、面と向かって『私のです』って言うのは、ちょっとな……」
原田はまたも深い溜め息をついて、それから作業台の上を恨めしそうな眼差しで見つめた。そこには、手持ちの茶封筒に入れられた
「しかし……、なんとなく落ち着かないな」
「そんなに怖がらなくてもいいだろ。原稿は噛みついたりしないぞ」
ヒカリが事も無げにそう言えば、原田の眉間に深い皺が幾つも生まれた。
「誰だって、苦手なものがあるんだ。お前だって、女が縛ら」
「それ以上言ったら、今度こそ脳天かち割るぞ」
間髪を入れずに切り返され、原田が一瞬ムッとした顔を見せる。だが、すぐに彼は何かに思い当たったような表情になり、ヒカリからついと目を逸らした。
「すまん。ちょっと調子に乗るところだった」
「調子に乗るところ、じゃなくて、もう乗ってただろ」
「……ああ、そうだな」
いつになく真剣な顔で原田が頷く。
ヒカリはここぞと鼻を鳴らした。が、こちらもほどなく神妙な表情を浮かべて、……視線をそっと手元に落とす。
「……私も、アンタが嫌がっているのをわかってて調子に乗った」
小さく息を呑む音が聞こえて、やけに慌てた様子で原田がヒカリのほうへ身を乗り出した。
「いや、でも、普段俺も、お前が苛烈に反応するのが面白くて、しょーもないこと言ったりしてるし」
「『面白くて』?」
「あ、いや……」
「こっちはそのたびに、嫌な思いをしてるっていうのにか?」
「お前も、さっきまで俺の反応を面白がってただろーが!」
原田の言葉が、正面からヒカリに突き刺さる。
そのとおりだ、とヒカリは唇を噛んだ。最初は日頃の意趣返しのつもりだった。今まで散々あのふざけた態度に付き合わされてきたんだ、少しぐらい仕返ししてもいいだろう、と。しかし、途中から明らかに自分は、原田がうろたえる姿を見て愉しんでいた……。
すまない、の一言を喉に貼りつけたまま、ヒカリは原田から顔を逸らす。
「おんなじだ」と彼の呟きが聞こえた。少しかすれた声が、もう一度、「おんなじだったんだな」と繰り返す――。
ヒカリが視線を向けるのと同時に、原田が両手を高く上げて大きく伸びをした。
「あー、もう、俺はこういうのは得意じゃないんだ! 仕切り直そうぜ!」
彼の子供じみた言動が、今この時ばかりは少しだけありがたかった。ヒカリは敢えて挑戦的な笑みを作って、鞄を手に椅子から立ち上がった。
「んじゃ、この原稿をよろしくお願いしますセンパイ」
「待って。ちょっと待って! ここで待つ以外に何かできることがないか、もうちょっと一緒に考えてくれない!?」
「……まあ、ちょっとだけなら」
ヒカリが椅子に座り直すのを見届けて、原田もまた、浮かせていた腰を再びベンチに落ち着けた。
作業台の上、乱雑に積まれた書類のてっぺんで、目覚まし時計がカチカチと秒を刻んでいる。
正直なところ、ただ待つという選択肢しかヒカリには思いつかなかった。どうしたものかな、と彼女が息をついた時、原田が「はー」と派手に息を吐き出して、作業台の上に突っ伏した。
「まったく、経済の奴か文学部の奴か知らねーが、余計な仕事を増やしやがって……」
「どうして、経済か文だとわかる?」
「ああいうモノをコピーするとして、知り合いがうようよいる場所で作業したいと思うか? できるだけホームグラウンドから遠ざかろうって思うのが、自然じゃないか?」
確かに、経済学部と文学部の校舎は、工学部の校舎群から離れた場所にある。しかし、問題の発端となった工学部七号館はキャンパスの辺境、その二つ以外の学部とも、なんなら同じ工学部の他の校舎とも、そこそこな距離がある。
「ならば、理とか農だって該当するんじゃないか?」
「理系なら、自分ちのPC使うだろ」
「今時、文系でも普通に使うだろ。入学の時にパソコン必携って言われるんだし」
「それはまあ、そうなんだけどさ……。でも、俺ならなんとしてでも自分ちで済ませようとするけどなあ……。人目につくリスクをとらねばならない理由を考えると、なにかそのあたりに制限があるんじゃないかな、って思ってさ……」
と、そこに、ドアからやや躊躇いがちなノックの音が響いてきた。
「どうぞ」
原田が、心持ち居住まいを正して扉に声をかけた。
しばらく待つものの、一向に扉が開かれる気配はない。先に痺れを切らしたヒカリが椅子を立って、そうっとドアをあける。
「何か?」
「あ、あのー、工学部七号館のコピー室の、忘れ物のことで……」
廊下に立っていたのは、ヒカリと同じぐらいの歳かさの、一人の女子学生だった。肩口にかかるさらさらの髪がパステルオレンジのシフォンスカートによく似合う、とても可愛らしい雰囲気の子だ。
部室の戸口に咲いた一輪の花に、ヒカリも原田も、しばし言葉を失った。
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